ポルノグラフィティ
| 名称 | ポルノグラフィティ |
|---|---|
| 分野 | 視覚表現、都市文化、地下出版 |
| 起源 | 1890年代のパリおよびウィーン周辺 |
| 主唱者 | エドゥアール・ルマール、ミーナ・クラインほか |
| 主要媒体 | 石版印刷、ステンシル、壁面貼付ポスター |
| 隆盛期 | 1908年-1934年 |
| 影響 | 前衛美術、歌詞装飾、都市広告 |
| 研究機関 | 帝都視覚史研究会、ベルン自由印刷アーカイヴ |
ポルノグラフィティは、末ので成立したとされる、印刷画像との落書きを組み合わせた視覚表現の総称である。のちにや、に影響を与えたとされ、現在ではの一部研究会でも再評価が進んでいる[1]。
概要[編集]
ポルノグラフィティは、もともとの印刷職人たちが、夜間に貼り替えられる娯楽用ポスターを指して用いた語であるとされる。語源は系の「記す」と「壁」を意味する語の合成と説明されることが多いが、実際にはにの石版工房で作られた匿名パンフレットの見出しが独り歩きしたものだという説が有力である[2]。
この表現は、当初は歌劇の宣伝や見世物小屋の装飾に用いられたが、後には都市の空き壁を再利用する低予算の芸術運動へと変質した。なお、の市街計画会議で「衛生上の理由から一部黙認する」と決議された記録が残っているが、この文言の解釈をめぐっては今なお議論がある[3]。
歴史[編集]
成立期[編集]
成立期は後半とされ、という元活版工の人物が、印刷ずれを意図的に残したポスター群を周辺で展示したことが始まりとされる。彼は、遠目には扇情的に見えるが近づくと内容がほとんど読めないという「視距離の二重構造」を発明したとされ、後世の編集者からは「都市のいたずらにして理論」と評された[4]。
一方、ではが、壁面に貼られた広告紙の端をあえて剥がさず、複数の層を見せる手法を確立した。彼女の工房では1枚の作品に平均の紙片が使われ、最も厚いものは乾燥後にも盛り上がったという。これがのちに「浮き壁式」と呼ばれる技法の原型になったとされる。
拡張期[編集]
からにかけて、ポルノグラフィティは、、へ広がり、同時に地下出版と結びついた。とくにでは、沿いの劇場街で、1夜にの告知が貼り替えられた事件が「夜明け前の過剰装飾」として新聞に報じられた[5]。
この時期、作品は単なる街頭宣伝から、政治風刺や恋愛詩の断片を含む複合表現へ発展した。印刷所ごとに配合が異なるため、同じ図案でも雨に濡れると発色順が変わり、読者が先に見るべき順番を壁が決めるという奇妙な慣習が生まれた。これは「壁面編集権」と呼ばれ、後年の批評家に強い影響を与えたとされる。
日本への導入[編集]
日本では末期、の洋紙問屋を通じて断片的に紹介されたとされる。とくにの後、仮設商店街の掲示板に貼られた復興広告がポルノグラフィティ的であるとして一部の美術学生に注目された[6]。
の周辺では、木炭で描いた下地の上に薄紙を三度重ねる手法が流行し、の喫茶店で深夜に作品交換会が行われたという。なお、当時の記録には「コーヒー代の方が紙代より高かった」との記述があり、資料的には信頼性が高いようで低い。
技法と特徴[編集]
ポルノグラフィティの最大の特徴は、遠目と近景で意味が反転する点にある。一般に、3メートル以上離れると人物や場面が認識できるが、1メートル以内では印刷の滲み、文字の欠落、糊の膨張が前景化し、作品はほとんど地図のように見える。これを「逆読性」と呼ぶ。
また、制作時には糊に微量のを混ぜ、雨天時の剥離を遅らせる処理が行われた。1920年代のでは、作品の寿命を平均に調整する会合があり、長持ちしすぎる作品は「街の記憶を濁す」として不評だったという。
一部の工房では、作品の一角に意図的な誤植を1か所だけ残す慣習があった。これは盗用を防ぐためとも、壁が「署名を嫌う」ためとも説明されるが、実際には刷り手が眠かっただけだという証言も残る。
社会的影響[編集]
ポルノグラフィティは、において「一瞬で見て、半日で忘れられる情報設計」の原型を与えたとされる。とくにのでは、荷役労働者向けの募集ポスターが作品化し、賃金表よりも背景の影絵が話題になったため、採用率が上昇したとの報告がある[7]。
また、にも影響し、空き壁の色彩分布を巡る「壁面景観条例」がとで試験導入された。これにより、看板の貼付位置が「芸術」「営業」「雑音」の3区分に分類されるようになったが、現場ではたいてい雨で全部混ざった。
さらに、戦後のやにおいて、説明しきれない雰囲気を紙面に定着させる装置として応用された。編集者の間では「ポルグラの余白」と呼ばれ、意味のない空白を恐れていた時代に独特の価値を持った。
批判と論争[編集]
一方で、ポルノグラフィティは「壁を私物化する表現」であるとして、ので撤去案が提出された。これに対し、支持者は「壁は都市の沈黙した紙面である」と反論し、会議は9時間にわたり紛糾したという[8]。
また、作品の多くが匿名で制作されたため、誰が最初に定義したのかをめぐっては学説が分かれている。特に派と派の対立は根深く、1990年代の研究書では両者の関係を「創始者不在のまま栄えた珍しい文化」と総括している。ただし、ルマールの自筆メモとされる紙片は後年の鑑定でと判明しており、要出典の典型例として扱われることがある。
脚注[編集]
[1] B. Halden, "Urban Print Cultures and the Margin of Walls", *Journal of Continental Media Studies*, Vol. 18, No. 2, 2011, pp. 41-67. [2] 宮島信一『壁面印刷史序説』東亜芸術出版社, 2008年, pp. 19-24. [3] *Protokoll der Stadtplanungs-Kommission Berlin*, 1927年5月12日付, Archiv für Stadtkultur, pp. 203-208. [4] É. Leroux, "La Distance et l'Affiche", *Revue de l'Imprimerie Moderne*, Vol. 7, No. 4, 1902, pp. 5-18. [5] G. Wainwright, *Midnight Posters of Soho*, Camden Historical Press, 1979, pp. 88-91. [6] 田所芳樹『震災後都市と貼紙の美学』関東文化研究会, 1996年, pp. 112-119. [7] M. Delcourt, "Dockworkers and Decorative Hiring Notices", *Port and Paper Quarterly*, Vol. 12, No. 1, 1932, pp. 9-27. [8] H. Vogl, *Die Wand gehört niemandem*, Alpen Verlag, 1935, pp. 144-150.
関連項目[編集]
脚注
- ^ B. Halden "Urban Print Cultures and the Margin of Walls" Journal of Continental Media Studies, Vol. 18, No. 2, 2011, pp. 41-67.
- ^ 宮島信一『壁面印刷史序説』東亜芸術出版社, 2008年, pp. 19-24.
- ^ É. Leroux "La Distance et l'Affiche" Revue de l'Imprimerie Moderne, Vol. 7, No. 4, 1902, pp. 5-18.
- ^ G. Wainwright『Midnight Posters of Soho』Camden Historical Press, 1979, pp. 88-91.
- ^ 田所芳樹『震災後都市と貼紙の美学』関東文化研究会, 1996年, pp. 112-119.
- ^ M. Delcourt "Dockworkers and Decorative Hiring Notices" Port and Paper Quarterly, Vol. 12, No. 1, 1932, pp. 9-27.
- ^ H. Vogl『Die Wand gehört niemandem』Alpen Verlag, 1935, pp. 144-150.
- ^ 小松原麗子『貼紙の都市史』南窓社, 2014年, pp. 201-233.
- ^ A. Petrov "The Palimpsest Aesthetic in Street Printing" *Baltic Review of Visual Culture*, Vol. 5, No. 3, 2007, pp. 77-98.
- ^ 西園寺修『見世物と壁面の近代』筑摩書房, 1988年, pp. 55-60.
外部リンク
- ベルン自由印刷アーカイヴ
- 帝都視覚史研究会
- 都市壁面芸術資料室
- モンマルトル貼紙博物館
- 日本地下印刷連盟