マン臭事変
| 名称 | マン臭事変 |
|---|---|
| 読み | まんしゅうじへん |
| 発生地 | カラコルム周辺、紅河交易圏 |
| 時代 | 13世紀後半 |
| 原因 | 香料配給の偏在、隊商の衛生規定、寺院の沈香独占 |
| 結果 | 衛生香税の導入、巡回検査隊の設置 |
| 主要人物 | アルトゥン・ベク、郭清衡、マリアム・アル=ジラーニ |
| 関係勢力 | 北方隊商同盟、赤泥寺院連合、内陸検香院 |
| 戦闘 | カラコルム外環争奪、三井戸検香衝突 |
| 影響 | 香料法典の整備、後世の都市衛生制度への波及 |
マン臭事変(まんしゅうじへん)は、の乾燥地帯で行われた香料統制と衛生儀礼をめぐるである[1]。後半の周辺で発生したとされ、のちにへ影響を及ぼしたと伝えられる[2]。
概要[編集]
マン臭事変は、の隊商都市圏において、香料の流通管理と公衆衛生の名目が複雑に絡み合って発生したとされる騒乱である。名称は、当時の文書に見える「man-shu」「満臭」の転写揺れに由来するとされる[3]。
この事件は単なる市場争いではなく、・・獣脂を混ぜた防臭塗布材の配給権、ならびに隊商宿での沐浴順序をめぐる政治対立として理解されている。一方で、後世の写本には誇張表現も多く、実際には「香りの規格化」をめぐる行政闘争が、暴力化したにすぎないとの指摘もある[4]。
背景[編集]
交易都市の臭気管理[編集]
の周辺では、乾燥した気候と家畜市場の集中により、夏季の臭気が統治上の課題とされた。これに対して系の駅伝組織は、宿駅ごとに香草を焚く「白煙規定」を設けたが、実務はしばしば寺院に委ねられた[5]。
特には、葬送用香と沐浴香をほぼ独占しており、隊商たちは「寺院で清めを受けなければ町に入れない」という半ば宗教的な慣行に縛られていた。これが、後の香料税をめぐる対立の土台になったと考えられている。
検香制度の成立[編集]
が起草したとされる『検香八箇条』は、香の濃度を「一息で三歩」「一息で七歩」などの曖昧な基準で分類した文書である。学界では、これは行政文書というよりも、隊商宿の苦情処理マニュアルに近いとみなされている[6]。
なお、同書の末尾には「香は人を守るが、香の値札は人を割る」との一句があり、のちの反乱扇動文としても引用された。真偽は定かではないが、引用の広がりだけは異様に速かったとされる。
経緯[編集]
三井戸検香衝突[編集]
事変の直接の発端は、率いる北方隊商が、三井戸市場で香袋の抜き取り検査を拒否したことにある。検香吏が袋を開封した際、内部から現れたのは高価なではなく、牛脂で固めた防臭球であり、これが「密輸香材」と誤認された[7]。
翌日、市場の計量台が倒され、計測用の青銅匙が三十七本紛失したことから、香料倉の封鎖が行われた。封鎖中に隊商宿の湯殿が過密となり、沐浴順を待つ商人が互いの外套に香粉を投げ合う騒ぎへ発展したと伝えられる。
カラコルム外環争奪[編集]
外環では、赤泥寺院連合が夜間の香炉点灯権を主張し、北方隊商同盟がこれに対抗して「無香通行権」を掲げた。衝突は二晩にわたって続き、記録上は「太鼓七十二回、香炉転倒十四基」と数えられているが、後世の注記ではかなり誇張されている可能性が高い[8]。
この間、が仲裁案として「香料三分割案」を提示した。すなわち、儀礼香、衛生香、交易香を別会計にするというものである。案自体は採用されなかったが、のちの税制改革の原型になった。
影響[編集]
マン臭事変の後、が設置され、都市ごとに香料の配給量と沐浴時刻を記録する制度が整えられた。これにより、香炉の燃焼時間が標準化され、結果として隊商宿の滞在効率が向上したとされる[9]。
また、事件を契機として「衛生香税」が導入され、からに至る交易路で、香袋ごとの課税が行われるようになった。税率は季節によって変動し、雨期には高く、風期には低かったというが、その根拠は現存史料では確認しにくい。
一方で、庶民の間では「香を多く焚く者ほど信用できない」という俗信が広まり、富裕商人が意図的に無香を装う風潮も生まれた。この逆転現象は、後の都市礼儀に長く影響したとみられる。
研究史・評価[編集]
近代以降、マン臭事変はの香料史研究者によって再評価された。シュテーガーは、事件を「臭気に対する恐怖の暴発ではなく、香料国家の形成過程」と位置づけた[10]。
これに対し東京帝国大学のは、そもそも事件名の成立自体が後世の編集であり、「複数の小競り合いを一つの事変としてまとめ上げた可能性がある」と批判した。ただし、西園寺が参照した写本の余白には香袋の落書きが多数あり、資料の取扱いには疑問も残る。
21世紀には、との交差領域から再検討が進み、臭気・香気・権力の関係を論じる代表例として教科書にも載るようになった。ただし、授業で事件名を読み上げた学生が笑いをこらえられないという問題が各地で報告されている。
脚注[編集]
[1] 事件の基本事項については、後代編纂史料に依拠する部分が大きい。 [2] 紅河交易圏への波及は、実際には間接的影響にとどまったとする説もある。 [3] “man-shu”の語源については諸説あり、香袋の印章名とする説もある。 [4] 事件規模の記述は写本ごとに大きく異なる。 [5] 白煙規定の原文は散逸しているが、引用断片が複数残る。 [6] 『検香八箇条』は、真筆かどうか確定していない。 [7] 密輸香材の実態については、牛脂製の防臭球だった可能性が高い。 [8] 太鼓七十二回という数字は儀礼記録との混同の可能性がある。 [9] 内陸検香院の設置年には説と説がある。 [10] シュテーガーの論文は、のちに香料史学の古典とされた。
関連項目[編集]
脚注
- ^ Leopold Steger『Studies in Aroma Governance of the Inner Steppe』Cambridge University Press, 1968, pp. 114-159.
- ^ 西園寺常助『中央アジア衛生史稿』岩波書店, 1934, pp. 201-238.
- ^ María E. Valdés『Perfume, Tax and Power in the Thirteenth Century Caravan Cities』Oxford Historical Monographs, Vol. 12, No. 3, 1998, pp. 44-87.
- ^ 郭文琳『検香制度と都市統治』中央公論社, 1972, pp. 9-61.
- ^ A. H. Qureshi『The Red Mud Temples and Civic Smell Rights』Journal of Trans-Eurasian Studies, Vol. 7, No. 2, 2006, pp. 88-133.
- ^ アルトゥン・ベク記『三井戸日録』サマルカンド写本研究会, 1412写, pp. 3-19.
- ^ Margaret T. Wren『The Politics of Incense Rationing』Harvard Asian Review, Vol. 31, No. 1, 1979, pp. 1-29.
- ^ 『香は人を守るが、香の値札は人を割る――検香八箇条注解』東方文庫, 1957, pp. 77-102.
- ^ L. Steger and K. Nishizono『Aroma and Sovereignty in Caravan Polities』Proceedings of the Royal Anthropological Institute, Vol. 4, No. 8, 1971, pp. 305-339.
- ^ 西園寺常助『マン臭事変再考:余白に残る青銅匙』東京大学出版会, 1941, pp. 55-90.
外部リンク
- 内陸香料史資料館デジタルアーカイブ
- 紅河交易圏文書翻刻室
- カラコルム都市衛生研究センター
- 世界香税史協会
- 東西隊商史フォーラム