ミマス
| 名称 | ミマス |
|---|---|
| 初出 | 1878年(明治11年)ごろ |
| 発祥地 | 神奈川県横浜市・山下町周辺 |
| 用途 | 測量、時報、簡易通信、儀礼的占星 |
| 中核装置 | 共鳴球、導波筒、三脚架式方位盤 |
| 提唱者 | 橘 玄策、E. H. Wainwright |
| 公的管理 | 内務省地図局技術課 |
| 現状 | 学術史上の遺物として研究されている |
| 通称 | 球鳴法 |
ミマス(英: Mimas)は、の第1衛星ではなく、19世紀後半ので発生した「金属の共鳴球」を基礎とする測量・占星・早期通信の複合技術体系である[1]。のちにとの研究者によって再定義され、現在では「静止したものにしか使えない通信装置」として知られている[2]。
概要[編集]
ミマスは、金属球の内部共鳴を利用して距離・方位・気圧変化を同時に読み取ろうとした技術体系である。一般には期の港湾測量に用いられたとされるが、実際には商社の見本市で披露された「音の見える装置」が先行し、その後に学術用語として整備されたとされる[3]。
名称はギリシア神話の巨人に由来すると説明されることが多いが、横浜の外国人居留地で流行していた「見ます」という日本語の洒落を英字表記したものという説もある。もっとも、当時の新聞には「ミマス器」や「未満数器」などの誤記が頻出しており、呼称自体がかなり不安定であったことがうかがえる[4]。
成立の背景[編集]
ミマスの成立には、周辺で問題となった霧中航行と、が抱えていた時報制度の未整備が深く関わっていた。1877年、輸入時計の誤差を補正するために、山下居留地の工房で「振動する真鍮球」に煤煙を当てて軌跡を読む実験が行われ、これが後の標準型ミマス装置の原型になったという。
発明者としては、和算出身の技術者と、から来日していた気象観測技師E. H. Wainwrightがよく挙げられる。両者は1879年にの貸家で共同研究を開始し、球体の直径を七寸九分から八寸一分へ変更したところ、方位誤差が平均で0.7度改善したと記録している。ただし、この数値は後年の回想録にのみ見え、原簿には該当する頁が欠落している[5]。
仕組み[編集]
共鳴球と導波筒[編集]
標準的なミマス装置は、青銅製の共鳴球、真鍮の導波筒、そして台座部に埋め込まれた乾燥松脂から構成された。球内部に一定量の蒸留水を封入すると、外気温の変動に応じて微小な振動差が生じ、その差を筒先の紙片に転写することで、気圧・潮位・人の出入りまで推定できるとされた。
特筆すべきは、装置が「静止している場所」でしか正確に働かない点である。移動させると共鳴が乱れ、しばしば「隣家の夕餉の献立」まで拾うとされたため、港湾局の一部では監視用途への転用が懸念された。なお、この副作用が本当に起きたかは今も議論がある[6]。
時報機構としての運用[編集]
1883年にはの倉庫に設置された大型ミマスが、毎正時に鐘を打たず、代わりに共鳴球の色調を変える方式で時報を出していたとされる。倉庫番たちはこれを「見ればだいたい時刻が分かるので便利」と評した一方、近隣住民からは「見ただけで眠くなる」と苦情が寄せられた。
この方式は東京のでも試験導入され、朝8時の商店街一斉開店を0.4分ほど早めたという。商工会は成果を強調したが、実際には誰も正確な時刻を把握していなかったため、帳簿だけが整然とし、開店は相変わらず遅れがちであった。
普及と変質[編集]
1886年以降、ミマスは測量器具としてよりも、占星術師や教師の補助具として広まった。特にの興行館では、舞台上に設置したミマスが観客の拍手音を解析し、翌週の景気を占う「拍手相場」が流行したとされる。
一方で、はミマスを理科教育に導入する案を検討したが、教材として扱うには解釈が難しすぎるとして見送った。教員の一部は「音で地図を描く」という説明に熱心であったが、児童は装置の真鍮球を叩くことに夢中になり、授業はしばしば騒乱化した。ここで各地の学校に配布された小型機が、のちに「叩いても壊れにくい教材」として地方博物館に残ることになる[7]。
社会的影響[編集]
ミマスの最大の影響は、技術そのものよりも「見えないものを形にできる」という思想を広めた点にあるとされる。これにより、港湾測量、病院の換気設計、さらには百貨店の冷房配置にまで応用が試みられた。
また、の一部では、ミマスを使った「無音命令伝達」の実験が行われ、艦内の報知器を減らす目的で導入が検討された。しかし、装置がなぜか艦内ラッパ隊の練度を上げてしまい、結局は音楽教育のほうが本体になったという。なお、海軍内部文書ではこれを「副次的成功」と記しているが、民間記録では単なる予算流用の失敗として扱われている[8]。
批判と論争[編集]
ミマスには、当初から「測れるものと測れないものを同じ装置で扱うのは無理がある」とする批判があった。特に工科大学のは、1891年の講演で「球が鳴るからといって地形が分かるわけではない」と述べ、これが後にミマス批判の定型句として引用された。
ただし、支持派は「地形が分からなくても、地形の気分は分かる」と反論したとされ、論争はしばらく平行線をたどった。1902年にはが公文書上でミマスを「参考器具」に格下げしたが、地方の測量官のあいだではかえって神秘性が増し、秘儀的な使用法が拡散した。
衰退と再評価[編集]
1908年ごろ、より実用的な電気式計測器が普及すると、ミマスは急速に姿を消した。倉庫に眠っていた装置の多くは、戦時中に金属供出の対象となり、いくつかはラジオ部品に転用されたともいう。
しかし1960年代以降、やで再調査が進み、ミマスは「近代日本における音響官僚制の象徴」として再評価された。2014年にはで小規模な特別展が開かれ、来場者の約18%が「思ったより静かな展示だった」と回答したというが、この調査の設問はかなり独特であった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 橘玄策『球鳴法試験録』横浜技術出版会, 1881年.
- ^ E. H. Wainwright, “On the Resonant Spheres of the Port of Yokohama,” Transactions of the East Asian Survey Society, Vol. 12, No. 3, pp. 114-139, 1884.
- ^ 内務省地図局技術課『港湾測量における球鳴器の運用指針』官報附録, 1887年.
- ^ 藤島要一『音と地図の非整合性について』東京帝国大学工科大学紀要, 第4巻第2号, pp. 21-58, 1892年.
- ^ 小野寺久平『明治港湾における共鳴技術の実地』神奈川史学, 第8巻第1号, pp. 3-29, 1901年.
- ^ Margaret L. Henshaw, “Quiet Signals and Loud Errors: The Mimas Debate,” Journal of Maritime Instrumentation, Vol. 7, No. 1, pp. 1-26, 1911.
- ^ 『横浜商工年鑑 第23巻』横浜商工会議所, 1890年.
- ^ 島田澄子『学校教材としてのミマス器の騒乱史』教育史研究, 第19巻第4号, pp. 201-233, 1968年.
- ^ 国立科学博物館編『失われた音響機械図鑑』技報堂出版, 1997年.
- ^ 田沼一之『ミマスと帝国海軍の無音命令計画』海軍史料叢書, 第2巻第5号, pp. 77-105, 2009年.
外部リンク
- 横浜近代技術資料アーカイブ
- 東京帝国大学工学史研究室
- 国立科学博物館 特別展示記録
- 神奈川県立歴史博物館 デジタル目録
- 球鳴法研究会