ムーリック貝のガール焼き
| 分類 | 郷土料理、港湾料理、祭礼食 |
|---|---|
| 発祥地 | 北海道小樽市の稲穂埠頭周辺 |
| 初出 | 1927年頃 |
| 主な材料 | ムーリック貝、白味噌、黒糖、昆布出汁、発酵バター |
| 調理法 | 殻付きのまま高温で焼成 |
| 考案者 | 高橋ミサオ、山県俊太郎ほか |
| 関連行事 | ムーリック祭、港の火入れ式 |
| 別名 | 貝のガール焼き、ムーリック網焼き |
| 伝承上の禁忌 | 満潮前に油を入れてはならない |
ムーリック貝のガール焼き(ムーリックがいのガールやき)は、沿岸で採れるムーリック貝を、特製の甘辛だれと高温ので焼き上げるとされる郷土料理である。もとは末期にの港湾食堂で考案されたと伝えられ、のちにの前身機関により「港町の記憶食」として半ば制度化された[1]。
概要[編集]
ムーリック貝のガール焼きは、ムーリック貝を殻ごと焼き、表面に「ガール」と呼ばれる飴状の照りを作る料理である。現在ではから北部の港町にかけて断続的に作られているとされ、特に、、の市場食堂で知られる[2]。
名称の「ガール」は、焼成時に貝殻の縁へ滴り落ちる調味液が、最後にぱりっと固まる現象を指す造語であるとされる。ただし、の食文化史研究会は、地元の子どもが「やけに女の子っぽい光沢がある」と言ったのを店主が誤記した結果である可能性を指摘している[3]。
起源[編集]
港湾食堂での誕生[編集]
起源は、小樽の稲穂埠頭にあった「北辰軒食堂」の夜番まかないに求められる。記録上は、漁から戻らなかった船員のために、余った貝をとで煮詰めたのち、へ移したのが始まりである[4]。ここで重要なのは、当時の店主・高橋ミサオが「煮ると客が来ない」という独自の信条を持っていた点で、以後の港湾料理界に強い影響を与えたとされる。
一方で、初期のガール焼きは現在のような甘い味ではなく、塩辛いだけのものだったという。これは荷揚げの順番をめぐる争いで、から来た雑貨商が置いていった砂糖袋を誤って使ったためであり、その偶然が評判を呼んだとする説が有力である。なお、同時期の帳簿には「ムーリク三枚、熱板代二銭」とだけ記されており、のちに研究者を困惑させた[要出典]。
「ガール」成立の経緯[編集]
「ガール」という語は、初期の港湾語で「皮膜が立つ」「飴が引く」ことを意味する隠語だったとされる。これを料理名に転用したのは、二代目の調理人である山県俊太郎で、彼はに開業した「山県食堂」の看板に大書し、宣伝文句としても用いた[5]。
山県は、貝殻を火床から10.5センチの高さに保つと最も美しく焼けると主張し、実際にの旧試験炉を改造した装置で実験を行ったという。彼の記録によれば、11回目の試作で表面に最適な褐色の照りが現れ、同行した見習いが「これはまるで歌手のドレスだ」と言ったことから「ガール」の表記が定着したらしい。
製法[編集]
伝統的なムーリック貝のガール焼きは、殻を洗浄したのち、白味噌、発酵バター、黒糖、醤油を合わせたたれを詰め、の炭火で一気に焼き上げる。焼成時間は貝の大きさにもよるが、標準的には2分40秒から3分10秒とされ、これを超えると「泣き」と呼ばれる過度の水分離脱が起こる[6]。
また、熟練の焼き手は貝殻の向きを17度だけ傾け、内部の蒸気が右回りに抜けるよう調整するという。これを「潮返し」と呼び、札幌市内の料理専門学校では一時期、測量用の分度器を用いた訓練が行われた。もっとも、現在の量産型店舗では電熱式の回転グリルが用いられており、伝統派からは「表情がない」と批判されている。
社会的影響[編集]
1930年代後半、ムーリック貝のガール焼きは港町の景気回復を象徴する食べ物として扱われ、が配布した観光小冊子にも掲載された。これにより、冬季の客足が平均で14.6%増加したとされ、旅館組合は毎月第2金曜を「貝の晴れ日」と定めたという[7]。
一方で、あまりに光沢が強いことから、夜の市場で灯りと見分けがつかず、子どもが「港の飴玉」と呼ぶ事件が相次いだ。これを受けては1948年、過度の照明効果を抑えるため、調味液の糖度を62度以下にするよう行政指導を行ったとされる。なお、同年の告示文には「海産物としての尊厳を損なわぬよう」との一文があり、食文化行政史の珍文として研究対象になっている。
地域差[編集]
小樽式[編集]
小樽式は最も古い系統で、焼き上がりに粗塩をひとつまみ振るのが特徴である。港の石炭ヤード近くで働く労働者の間では、冷める前に殻の縁を軽く叩いて音を確かめる習慣があり、これを「鳴き合わせ」と呼ぶ。
函館式[編集]
函館式は、の朝市文化と結びつき、たれにリンゴ酢を少量加えるのが特徴である。市内の老舗では、毎年に「ガールの見本焼き大会」が開かれ、優勝作品は焼き色の均一性だけでなく、殻の艶まで審査対象になるという。
青森式[編集]
青森式は、発酵文化の影響で味噌が強く、白い衣を薄くまとわせる。ここではムーリック貝がを越えた「迷い貝」として語られることがあり、若者の間ではサイドディッシュとしての薄切りを添える流儀も見られる[8]。
論争[編集]
ムーリック貝の実在性については長く議論がある。料理書ではの一種と説明されることが多いが、実際には「大きな巻貝に近い」「甲殻が二層になっている」など記述が揺れており、の分類メモでも「標本が塩抜き前で判定不能」とされている[9]。
また、のテレビ番組で料理研究家の藤堂静子が「これは貝ではなく、港の呼称である」と発言し、視聴者から抗議が殺到した。これを契機に、食文化保護団体は「ムーリック貝を食材として扱うべきか、伝承名として扱うべきか」という線引きを求めたが、結局は両論併記で落ち着いたとされる。
現代の展開[編集]
21世紀に入ると、ムーリック貝のガール焼きはの車内食や、港湾再開発地区のイベントメニューとして再評価された。特にの「北の港フェスタ」では、1日あたり約3,200食が提供され、配膳係が鉄板の熱で手袋を二重に交換したことが新聞で話題になった[10]。
近年は、若年層向けに辛味を強めた「レッドガール焼き」や、殻を開けずに上面だけを炙る「半月型」が登場している。もっとも、伝統保存会は「それはもはやガールではない」として認定を渋っており、味の良し悪しよりも名称の保持が争点になることが多い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高橋ミサオ『港のまかないと焼成文化』北辰出版, 1939.
- ^ 山県俊太郎『ガール焼き実験記』小樽食文化協会, 1942.
- ^ 藤堂静子「北海道沿岸における貝殻焼成の語彙変化」『食民俗研究』Vol.18, No.2, 1958, pp.44-63.
- ^ A. M. Thornton, "Shell Gloss and Civic Memory in Northern Port Towns," Journal of Maritime Gastronomy, Vol.7, No.1, 1972, pp.11-29.
- ^ 北辰港湾調査会編『稲穂埠頭食堂史料集』北辰港湾調査会, 1981.
- ^ 中村澄江『火床と飴膜――北海道焼き貝の技法』株式会社潮路, 1996.
- ^ 北海道食文化保全機構「ムーリック貝の分類と調理に関する覚書」『北方食学報』第12巻第4号, 2004, pp.201-219.
- ^ S. Fujisawa, "Aesthetic Standards in Shell-Based Street Foods," Proceedings of the 3rd International Symposium on Coastal Cuisine, Vol.2, 2011, pp.88-102.
- ^ 小笠原礼子『観光と港町の記憶食』青凪書房, 2016.
- ^ 『ムーリック貝ガイドブック 2020改訂版』北海道港食研究センター, 2020.
- ^ 斎藤和也『貝が歌う夜: 港の料理民俗学』月島文化社, 2022.
外部リンク
- 北海道港食研究センター
- 小樽食文化アーカイブ
- 北方食学会
- 港町レシピ資料室
- ムーリック祭実行委員会