メルル・M
| 氏名 | メルル・ M |
|---|---|
| ふりがな | めるる えむ |
| 生年月日 | |
| 出生地 | (通称:隅田裏河岸) |
| 没年月日 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 暗号詩人、編集者、無線文芸監修者 |
| 活動期間 | 1933年 - 1983年 |
| 主な業績 | 同音反復暗号詩『継接律』の体系化 |
| 受賞歴 | (1966年)、(1954年) |
メルル・ M(めるる えむ、 - )は、の暗号詩人である。コードネームとして広く知られる[1]。
概要[編集]
メルル・Mは、における「暗号詩」の潮流を、文学と無線技術の両面から整えた人物である。とりわけ、音を媒介にして意味を遅延させる作法は、戦後の情報文化の一部として定着したとされる。
その活動は出版社の編集机だけでなく、港湾近くの実験室や、放送局の裏方とも結びついていた。結果として、メルル・Mの名は「読んだ後に噛み合う」文章を求める読者の間で、として半ば伝説化した[2]。なお、本人が署名に「・M」を残した理由については複数の説があるが、最もよく引用される逸話では「丸の中に隠した周波数」から始まっているとされる[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
メルル・Mは、下町の「隅田裏河岸」にある一時借家で生まれた。父は測量補助、母は反物の仕立てで、家には「方角板」が常備されていたと記録されている[4]。
幼少期には、川霧が出ると文字が縮むように感じると語ったとされる。実際、初等教育の成績表には国語だけが年ごとに微増しており、担任が「読むより、数える癖がある」と所見を書いたと伝えられる。所見の写しは現在、の教育資料棚の奥で見つかったといわれるが、保存率が7/10程度であったとも言及される[5]。
青年期[編集]
1931年、メルル・Mは立の夜間工業予備校に入り、無線の基礎を学んだ。同期にはのちに放送技師となるがおり、二人は「停電の間に読める文」を目指して短文実験を行ったとされる。
1933年、メルル・Mは初めて「・M」の署名を使った詩稿を雑誌『波帯文庫』に投稿した。この投稿は採用こそされたが、編集部は「暗号に見えるが暗号ではない」として判定に迷い、締切日の午前2時に副編集長が最終的なハンコを押したと記録されている[6]。その結果、メルル・Mは「分類不能な作者」として知られるようになった。
活動期[編集]
1941年、メルル・Mは系の講習会で「同音反復による遅延復号」を指導したとされる。当時の資料では、同音反復を「1音ごとに2拍ずつ待つ」方式として定式化し、読者側では「音を数える」ことで意味に到達すると説明された。
戦後、メルル・Mは出版社の文芸編集部に出向し、無線文芸監修者として活動した。『継接律』はに第一巻が刊行され、各巻に「章」ではなく「周波数の階段」を割り当てたため、図書館の分類員が初年度に3回誤って並べ替えたという笑い話が残る[7]。さらに同作は、販売数より貸出数が先に伸びた珍しいケースとして、後年の調査報告書に引用されている(1953年時点で貸出率が推定113%だったとする記述がある)[8]。
また、1960年代にはラジオ番組『夜更けの余白信号』で、朗読家に対して「口の開き角度を15度以内に保つ」指示を出したとされる。これは科学的というより、詩の復号を邪魔しないための“演技仕様”だったと説明されているが、関係者の証言はやけに具体的である(本人は録音テープの回転数を「毎分76回転で安定」と好んで口にしたとされる)[9]。
晩年と死去[編集]
晩年のメルル・Mは、著作よりも添削指導に比重を置いた。門下には元放送作家のが含まれ、彼女は後に「メルル・Mの訂正は、文字の配置を“歌う”ように見せる」と回想したとされる[10]。
、活動期間を縮めたメルル・Mは、最後の講義として「暗号は罰ではなく、読者への時間の贈り物である」と述べた。翌年の、の自宅兼工房で死去したと伝えられる。享年は満75歳とされるが、戸籍上の月日が整理前で誤差があったため、資料によっては76歳表記が混ざるとも指摘されている[11]。
人物[編集]
メルル・Mは、普段の会話では理知的だが、締切が近づくと急に童話的な言い回しになる人物だったとされる。本人は「暗号を解くには、先に世界を信じる必要がある」と語り、編集者に向けて“信じる用の余白”を必ず残すよう求めたという。
逸話としてよく語られるのは、原稿用紙の端を1ミリ単位で切って貼り直す癖である。編集部は最初「几帳面すぎる」と思ったが、後に“余白が復号の目印になる”方式だと分かり、誰も文句を言わなくなったとされる[12]。
性格は不器用と見られることもあったが、無線実験では冷静で、指示系統を「声のトーン」「沈黙の長さ」「最後の息」で組み立てた。結果として、関係者の間では「彼女は言葉を発明するより、沈黙を採点する」とも呼ばれた[13]。
業績・作品[編集]
メルル・Mの代表作は、暗号詩体系『継接律』である。同作は単なる詩集ではなく、朗読・反復・沈黙のタイミングまで含めた“復号手順の書”として設計されたと説明される。
『継接律』の刊行は、に第一巻が出た後、第二巻が、第三巻が、第四巻がと分割された。巻ごとのページ構成は、奇数ページに「音の指示」、偶数ページに「沈黙の指示」が配置されていたといわれる[14]。このため、読者の中には最初から声に出す者も多く、学校の国語教員が「家庭で朗読する宿題が爆増した」とこぼしたという。
また、メルル・Mはラジオ向け台本『余白信号帳』を複数企画し、番組では毎回“同じ言葉が一度だけズレる”よう仕掛けられたとされる。ズレの方向は、放送局の機材によって変わるため、メルル・Mは局員に対して「同じテープを3回回してから切り替える」手順を要求した。要求は過剰に見えたが、実際には視聴者の投稿数が翌月に約1.4倍になったと報告された[15]。
後世の評価[編集]
メルル・Mは、情報文化史の観点から「文学が技術を吸い込んだ事例」として扱われることが多い。特に以降、創作論が“意味”よりも“時間”を重視するようになった背景として、メルル・Mの影響が言及されることがある。
一方で、暗号詩の形式が流行した結果、追随者が内容を空洞化させたという批判も出た。『継接律』の方式は“正しく読むほど遠ざかる”とされ、誤読者を置き去りにする構造だと論じられたことがある。ただし、メルル・M自身は「理解しない時間は、理解の前に必ず必要である」と書いており、形式批判が倫理批判へ転ぶことを避けたとも評価されている[16]。
研究者の間では、彼女の署名「・M」が無線の記号(モールス信号の頭文字に関係するという説)であるという見方が流布している。もっとも、この点は確証が乏しいとされ、後から作られた解釈ではないかという疑いも残る[17]。
系譜・家族[編集]
家族構成は資料ごとに揺れがあり、母方の親族が“紙を扱う職”に連なるとだけ共通している。メルル・Mには、戸籍上は一人の弟がいたとされ、名前はと記されることがあるが、同名人物の別系譜も存在するとされるため注意が要る[18]。
また、メルル・Mは晩年に「継接律」の原稿を、教え子のへ段階的に託したと語られている。託す際には、封筒の順序を“曜日の似た並び”にしたという。実際、封筒はからではなくから始まっており、資料整理班が混乱したと記録されている[19]。
子孫については、結婚歴が公的に確認できないため、断片的な証言が残るのみである。伝記の一部では“結婚していたが、署名の秘匿のために名を変えた”とされるが、確証のない推測ともされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田崎 憲一『暗号詩の音響史:継接律を読む』瑞光社, 1974.
- ^ Katsura, H. “Delayed Meaning in Japanese Recitation.” Journal of Applied Poetics, Vol.12 No.3, 1969, pp.41-58.
- ^ 井手 俊良『放送台本の余白設計』電波文庫, 第1巻, 1959.
- ^ 小川 玲奈『署名記号の文化記号論:・Mの系譜』紫紋大学出版部, 1981.
- ^ 【逓信省】編『無線講習資料(抜粋)—発音と復号の相関』第5報, 1942.
- ^ 佐久間 真琴『継接律の編集現場』波帯文庫, pp.77-92, 1963.
- ^ Mori, Y. “Radio Scripts and Silence Marking.” International Review of Broadcast Letters, Vol.4 No.1, 1972, pp.9-27.
- ^ 藤森 乙葉『師・メルル・Mの沈黙採点』春霧書房, 1988.
- ^ 遠藤 文江『詩における周波数階段の設計』海霧学術叢書, 第2巻第1号, 1966.
- ^ 日本文学編集者連盟『戦後文芸の復号ブーム』誤植対策版, 1990.
- ^ 一ノ瀬 翔『継接律完全復原(ただし誤差あり)』瑞光社, 1978.
- ^ Thompson, A. “The M-Point: A Myth of Letters.” Notes on Imaginary Signatures, Vol.7 No.2, 1977, pp.120-134.
外部リンク
- 継接律研究所
- 夜更けの余白信号アーカイブ
- 無線文芸監修者協会(準公式)
- 紫紋章文化賞データベース(閲覧用)
- 波帯文庫デジタル棚