ヤマダサーカス団
| 分類 | 移動演芸団体(サーカス) |
|---|---|
| 設立 | (とされる) |
| 創設者 | (やまだ せいろく、伝) |
| 拠点 | 周辺(興行圏とされる) |
| 代表的演目 | 空中綱渡り・奇術・影絵併演 |
| 運営形態 | 株式会社ではなく「団規約」による持ち回り運営とされる |
| 観客動員の目安 | 1公演あたり平均2,400人(ある記録では2,398人) |
| 特徴 | 安全衛生チェックが異様に厳格だったとされる |
(やまださーかすだん)は、で結成された移動型の団体として知られる。団体名は創設者の姓に由来するとされ、戦後の地方興行で広く目撃されたとされる[1]。
概要[編集]
は、テント一式を自走車と人力で運搬し、地方の小中学校の運動場などを会場として巡回興行する団体であったとされる。公式には「一座の娯楽」を掲げていた一方で、実際には興行の合間に地域の交通整理や募金活動まで含めて運用されていたと指摘される[1]。
団体の呼称は、戦後直後に活動を開始した「山田」姓の座長により名付けられた、とする説明が一般的である。また、団の規模については資料により揺れがあるが、最盛期には団員・出入りの技術者を含め計約37名で運営されていたと推定される[2]。なお、同名の芸能集団が同時期に別地域へ分派したとする説もあり、混同が生じやすいとされる。
歴史[編集]
成立と「団規約」[編集]
は、演目の安全性を高めるため、興行前に必ず「綱の摩耗」を計測する仕組みを団内に持ち込んだとされる。ある団員の日誌では、綱渡り用ロープの直径を計測する器具が「外径0.1mm単位まで目盛りされている」ことが強調されており、これが団の象徴になったと説明される[3]。
成立の経緯は、の春、の裏通りで「修理と舞台転換の速さ」を競う見習い集団が集まり、そこに精六が「技術者を座員として扱う」方針を持ち込んだことでまとまった、という物語が伝えられている[4]。当初はサーカスと名乗らず「映像の影と手品の小回り団」と呼ばれていたが、初めてテントを張ったの夜興行で観客が「サーカスだ」と連呼したことが改名のきっかけになったとされる。
さらに、団の運営は株式会社のような形態を避け、紙片のような「団規約」で回っていたとされる。団規約では、座長の判断を最終決定としつつも、危険行為の実施は必ず「測定係」「記録係」「観客誘導係」の三役合議で可決される必要があるとされていた。この三役は、公演ごとにくじで入れ替えられ、くじの結果は毎回テント入口に貼り出されたと記録される[5]。
1950年代の拡張と「静音ブレーキ」騒動[編集]
に団がへ巡回した際、観客の苦情で「テント設営の金属音がうるさい」という問題が発生したとされる。対策として団は、ロープを張る滑車に「静音ブレーキ」を後付けしたが、この改造の内訳がやけに細かい。団の整備台帳によれば、ブレーキ材は合計12枚で、寸法は「幅19.2mm、厚さ4.7mm」と記されている[6]。
ただし静音ブレーキは、効きすぎる場面で逆に操作を難しくし、結果として空中綱渡りの演目が一度だけ短縮されたとされる。短縮は「観客の拍手が収まるタイミングに合わせる」ための措置だったと説明されたが、翌日には“短縮の理由が安全ではなく演出都合ではないか”と町内会から疑義が出たとされる[7]。この出来事は、団が単なる余興ではなく、地域の合意形成を経て存続していたことを示す事例として語り継がれた。
一方で、団員たちは静音ブレーキの評判を逆に宣伝に利用した。団のチラシには「耳元の静けさは、空中の安心へつながる」といった文言が踊ったとされ、読めば読むほど怪しい比喩だが、当時の郵便局員が回覧したとされる[8]。このように、は技術改善を社会の会話に変換する能力を持っていたとも言える。
終幕と「影絵の継承権」[編集]
団の終幕時期は、資料によって異なる。ある団関係者の回想録ではに「影絵の継承権」が問題になり、団が一度“解散に見える移籍”を行ったとされる[9]。影絵の継承権とは、板に穴を開けた独自の型紙を、座員ではなく“観客代表”へ渡すという変則制度であったと説明される。
この制度が生まれた背景には、団が模擬裁判のように「演目の著作性」を巡る噂に巻き込まれた経緯がある、とする説がある。具体的には、の卸商が「影絵の型紙は外部の図案に酷似している」と口外し、団側は「似ているのではなく、影が同じ方角に落ちただけだ」と抗弁したとされる[10]。最終的に、継承権を“観客代表”に移し、型紙の管理を公開する方針へ転換したことで騒動は沈静化したとされるが、同時に団の結束が弱まったとも指摘される。
その後、精六の弟子筋にあたる家の別系統が、影絵だけを残して小さな巡回劇団へ分化したとされる。このため、現在では「ヤマダサーカス団」の名を見かけなくなった一方で、影絵様式だけが地域行事に断片的に残っている、と説明されることがある。
社会的影響[編集]
は、娯楽の枠を超えて地域のインフラを補う存在として扱われたとされる。具体的には、巡回時に設置される仮設の照明や人の誘導導線が、子どもたちの学用品の配布導線と同じ場所に作られた結果、“あのテントが来る週は整備が早い”という評判が立ったとされる[11]。
また、団員の中には元出身者がいたとされ、テント設営に関しては「可燃物から舞台までの距離」を毎回測って記録したと語られる。その記録は「最短で9.7m、平均10.3m」などの数字が残っているとされるが、数字の根拠が不明なため、伝承として扱われることが多い[12]。それでも地域側は、怪しいほど正確な測定に安心感を抱き、結果として団の存続が可能になったとされる。
さらに、団の「測定係・記録係・観客誘導係」制度は、興行だけでなく学校行事の運営にも影響したとする証言がある。たとえばのある教育委員会が、運動会の係配置を整理する際に“合議の順番”を参考にしたとされ、の内部文書が閲覧可能だったという話があるが、出典の確認が難しいとして慎重に扱われている。
批判と論争[編集]
一方で、には批判もあった。静音ブレーキの短縮演目の件以外にも、「安全性の数字が過剰に細かいことで、かえって不安を煽ったのではないか」という指摘がある。つまり、観客は危険がないから数字を出したのだと理解するが、逆に“事故が起きる前提で測っている”と解釈する層が出る可能性がある、とする論点である[13]。
また、団が巡回することで地元の人手が吸い込まれ、農作業の段取りが狂ったという苦情もあったとされる。団側は「1日あたり作業員の動員は最大で18人」「撤収は平均42分」と説明したとされるが、これも妙に具体的であることが逆に疑われた。なお、団の説明文書が「農繁期の月は測定係が増える」といった妙な運用を含んでいたため、行政側が“演目以外の労務を伴っている”と警戒したという噂もあった[14]。
このような論争の中心には、団が単なる芸能ではなく、地域の意思決定に踏み込みすぎた点があったとまとめられることが多い。ただし、論者の中には「当時の地方は合意形成の技術が弱く、団がそれを代行しただけだ」と擁護する者もおり、評価は割れている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 黒羽 玲『戦後地方興行の帳簿と測定文化』創元書房, 1964.
- ^ James R. McKellan「Postwar Itinerant Theatre and Safety Bureaucracy」『Journal of Performance Logistics』Vol.12 No.3, pp.41-59, 1972.
- ^ 鈴木 章太『テントの音が消えるまで——静音ブレーキ事件の記録』河出学芸新社, 1981.
- ^ 渡辺 祐介『影絵の継承権と共同管理』日本演芸史学会, 1990.
- ^ Hiroshi Tanaka「Audience Mediation in Rural Entertainment」『International Review of Cultural Mobility』Vol.5 Iss.1, pp.13-28, 2003.
- ^ 村上 文彦『団規約という技術——合議運営の系譜』東京教育出版, 2008.
- ^ Catherine A. Doyle「Numbers, Trust, and Spectacle: A Field Study」『Theatre Sociology Quarterly』Vol.19 No.2, pp.77-102, 2011.
- ^ 佐々木 宏『名古屋近郊の巡回組織:空中綱渡りの系統』名古屋大学出版局, 2016.
- ^ 山田 精六『測り方だけが芸になる』私家版, 1959.
- ^ (タイトルが微妙に不一致)『ヤマダサーカス団の消えた合議名簿』神戸芸能資料館編, 1979.
外部リンク
- 静音ブレーキ研究会
- 戦後巡回演芸データベース
- 影絵型紙アーカイブ
- 地方興行の測定文化(資料室)
- 合議運営と観客代表の研究