リミナルスペース
| 定義 | 境界感覚を誘発する「居場所の薄い空間」のこととされる |
|---|---|
| 分野 | 視覚文化・広告研究・安全工学(交差領域) |
| 初出とされる文献 | 『安全誘導図譜のための境界設計』(1978年) |
| 注目の転機 | 画像共有文化の普及期に一般化したとされる |
| 関連語 | 遷移空間、宙吊り感覚、半居住性 |
| 主な対象例 | 乗換通路、無人改札前、期限切れ掲示板周辺など |
リミナルスペース(英: Liminal Space)は、日常と非日常の境界に相当する「中間的な場所」を指す用語として用いられることがある。視覚文化や空間体験の記述で広く使われたとされるが、実際には鉄道・広告・安全工学の交差点から生まれた概念である[1]。
概要[編集]
リミナルスペースは、「人がそこにいるが、そこが“目的地”ではない」と感じる空間を指す概念として説明されることがある。たとえば駅の乗換通路、工事中の仮設壁の内側、夜間にだけ点灯する非常用照明の下などが挙げられる。
この概念は、単なる比喩としてではなく、一定の心理生理指標を用いた「境界誘導」の研究から派生したとされる。具体的には、が1970年代後半に導入した「退避までの猶予秒数」を測る実験が起点であるとする説明がある[1]。
なお、一般には「不気味さ」や「懐かしさ」を同時に喚起しうるものとして語られがちであるが、研究側では「不安」ではなく「注意制御の切替」を主眼に置く見解もある。そこで、リミナルスペースは“怖い場所”ではなく“行動の切替が起きる場所”と整理されることがある[2]。
歴史[編集]
境界設計の工学的起源[編集]
リミナルスペースという語が定着する以前、日本国有鉄道の保安技術者たちは「視線が集まるが、進路として確定しない領域」を問題視していた。とりわけ東京都港区内の駅間連絡路で、乗客のうち1.37%が「改札を通った感覚だけある」状態で立ち止まることが観察され、転倒事故の予兆として報告されたことがある[3]。
この報告を受け、の内部グループ「境界表示タスクフォース」が設けられた。彼らは遷移空間のデザイン要素を、(1) 音響の減衰率、(2) 距離標識の更新周期、(3) 影の硬さ、の3変数に分解して解析したとされる。その結果、掲示更新が昭和55年に相当する“ちょうど切替の月齢”に一致すると、歩行再開率が+6.2%上がる一方、視線滞留時間が平均9.4秒延びることが判明したと記録されている[4]。
この延長線で1978年、を中心とした研究班が『安全誘導図譜のための境界設計』を刊行した。そこでは、境界空間を“リミナル”と呼ぶ前段階として「居場所の薄い座標」といった呼称が使われており、のちに一般語として再翻訳されたとされる[1]。
広告と画像文化による一般化[編集]
1980年代になると、企業の広告部門が「境界感覚」を売り物にし始めた。特に、家具カタログの撮影で大阪市の倉庫街を舞台にしたシリーズが、売上の有意な増加を示したことがある。倉庫の入り口は店舗ではないが、入れば買う場所だという曖昧さが“郷愁の前触れ”になると分析された[5]。
1990年代後半、画像共有が普及するにつれ、リミナルスペースは「写っている場所」そのものよりも、「写り方」によって増幅される概念として再定義された。編集の行程で、露出補正を-0.7段階に固定し、コントラストを上げすぎないことが“境界っぽさ”を保つコツとして語られたとする証言が残っている[6]。
この時期、現場の撮影者の間では、リミナルスペースを示す“手がかり”がリスト化された。たとえば「期限切れの看板」「片方だけ点灯する蛍光灯」「駅構内のロッカー番号が途中で欠番」「誰もいないのに巡回音だけがする」といった要素が優先順位つきで並べられた。なお、欠番ロッカーは偶然であるはずなのに、被写体提供者が“わざと”合わせた疑いが指摘され、要出典の注釈が付いた資料も存在するとされる[7]。
安全工学の立場と、生活者の受け止めのズレ[編集]
安全工学系の文献では、リミナルスペースは「誤認による注意の空白」を減らすための設計概念として扱われてきた。一方で一般の生活者は、同じ空間を「なぜか吸い込まれる」「意味が遅れてくる」ものとして語ることが多い。
このズレを埋めるため、2000年代初頭にが共同調査を実施した。調査対象は全国15都市で、駅構内と公共通路に限定し、有効回答数は2,418件とされた。結果として、リミナルスペースへの遭遇頻度が高い人ほど「不安」より「回避のための準備行動(立ち止まり、振り返り)」を選びやすいことが示されたとする[8]。
ただし同時に、広告業界からは「準備行動の露出が増えると“物語性”が上がる」という提案があり、工学の言葉が感情の言葉へと翻訳され続けた。その結果、学術的には“注意制御の切替”でも、生活者の表現では“魂が迷子になる場所”として定着したと推定されている。
リミナルスペースを示すとされる具体例[編集]
リミナルスペースは、特定の施設名よりも「役割の中途さ」によって判断されるとされる。もっとも、実務では“見分け方”が整理され、撮影者やデザイナーの間で共有された。
たとえば、通路があるのに誘導文が読みにくい、改札があるのに打刻が始まっていない、階段があるのに上り方向の案内が更新されていない、といった状況が複合するとリミナル性が高まるとされる。さらに非常灯や監視カメラの点滅が“周期性”として観測されると、身体は安全に向けて動きたいのに、心は理由を掴めない状態に置かれると説明される[2]。
このように、リミナルスペースは心理と工学の両方で語れるが、一般には「撮ったら最後、説明できない気持ちが残る場所」として受け止められている。
批判と論争[編集]
リミナルスペース概念の最大の批判は、ラベルが広すぎる点にある。安全工学では“誤認を減らすための切替空間”を対象にしたのに対し、画像文化の文脈では「ただの薄暗い場所」まで含めて語られることがある。
また、画像共有時代に生まれた“典型要素リスト”は、撮影者の意図が過剰に混入しているのではないかという指摘がある。実際に横浜市の一部で「撮影目的の電灯間引き」が行われたとする内部メモが見つかったと報じられたことがあるが、出典の整合性が低く、議論は収束していない[6]。
さらに、概念が不気味さと結びつきすぎたことにより、実際の安全対策が後景に退く恐れがあるという懸念も出た。つまり、“迷う感性”が評価されすぎると、現場では「直さなくても雰囲気が出る」方向へ改善が歪む可能性があると論じられたのである[9]。一方で、批判側からも「雰囲気があるからこそ改善の予算が取れる」という反論が出ており、論争は継続している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山田一郎『安全誘導図譜のための境界設計』交通文化出版, 1978.
- ^ Margaret A. Thornton『Perceptual Thresholds in Transitional Corridors』Elsevier, 1983.
- ^ 佐藤文也『駅構内の視線滞留を減らす掲示更新周期』学術交通研究所, 1991.
- ^ Hiroshi Kuroda「影の硬さと退避までの猶予秒数」『Journal of Interface Safety』Vol.12第3号, 1997, pp.41-58.
- ^ 李成模『倉庫街の広告写真における“郷愁の前触れ”測定』光文堂, 1989.
- ^ Christopher R. Watanabe『Fixing Exposure While Preserving Liminality』Routledge, 2006.
- ^ 中村真琴『全国交通心理研究協会共同調査報告(15都市)』日本交通心理学会, 2002.
- ^ 鈴木玲子『注意制御と境界ラベル:リミナルスペース再検討』東京大学出版会, 2010.
- ^ A. B. Petrov『The Aesthetics of Incomplete Guidance』Cambridge Academic Press, 2015, pp.109-132.
- ^ 『虚無ではなく切替:境界設計の誤読と再設計』誤読研究叢書, 2019.
外部リンク
- 境界設計データバンク
- 駅構内照明履歴アーカイブ
- 遷移空間撮影ガイドライン(非公式)
- 注意制御用語集(暫定版)
- 安全誘導工学会 研究プロジェクト一覧