一万年戦争
| 期間 | 紀元前4127年頃 - 西暦5873年頃 |
|---|---|
| 地域 | メソポタミア、アナトリア、ナイル流域、地中海沿岸、北海沿岸ほか |
| 原因 | 暦の統一、聖域の通行権、塩税、王位継承儀礼 |
| 結果 | 諸都市の連邦化と、戦争記録法の成立 |
| 指揮官 | エン・ラバル、マルキオン3世、ソフィア・ヴァン・デル・メールほか |
| 主な戦場 | ウルク外郭、カッパドキア高原、アレクサンドリア港、スカゲラク海峡 |
| 推定死者数 | 約840万人 |
| 別名 | 万年戦、長暦戦争、千年超紛争 |
一万年戦争(いちまんねんせんそう、英: Ten-Thousand-Year War)は、後のから沿岸にかけて断続的に続いたとされる、史上最長規模のである[1]。実際には単一の戦闘ではなく、・・をめぐる複数の紛争を後世の年代記編者が統合した概念であるとされる[2]。
概要[編集]
一万年戦争は、の都市国家間抗争からの通商封鎖までを一続きの戦争史として扱う、後世の歴史叙述上の総称である。名称は、系の祭司が用いた「一万夜の守備記録」に由来するとされるが、実際には年代計算の誤差を埋めるために作られた便宜的名称であるとの指摘がある[3]。
この戦争が特異なのは、戦車と、青銅製の矢尻とが同じ叙述の中で連続する点にある。もっとも、近代の史家は、これらは別時代の紛争がの写本工房で統合された結果であり、戦争そのものより「戦争を一万年続けたと主張した学派」の方が実在性を持つとみなしている[4]。
背景[編集]
暦統一をめぐる対立[編集]
発端は、周辺の神殿が採用した太陰暦と、流域の穀倉地帯で使われた収穫暦の不一致にあったとされる。年貢の納付日が最大でずれたことから、各都市が互いに「今日が年度末である」と主張し、徴税と婚姻登録をめぐって小競り合いが頻発した。これが後に「暦戦争」と呼ばれる初期局面である[5]。
聖域通行権と塩税[編集]
第二の要因は、聖域をまたぐ隊商の通行権である。特にの岩窟神殿群では、巡礼者に塩を一掬いずつ納めさせる慣習があり、これが周辺部族の反発を招いた。後世の文書には、塩の採取量が年に達したため武装護衛が常態化したと記されているが、数量の正確性には疑義がある[6]。
経緯[編集]
古代局面[編集]
最古の合戦としては、の「葦舟夜襲」が知られている。これは沿いの渡河点をめぐり、葦で編んだ船が一夜で失われた戦闘であり、勝敗そのものよりも敗北側が敗走中に星図を焼却したことが重視される。なお、この事件を記録した粘土板の一部はとに分散所蔵されている[7]。
中世局面[編集]
になると、戦争は都市国家の抗争から騎士団と修道院の財産争いへ移行した。とくに近郊の「三つの塔の停戦」は有名で、塔の所有権をめぐる争いが、結果として塔の上にさらに塔を建てるという奇妙な慣行を生んだ。これにより防衛施設は平均で化し、地震による崩壊率も上昇したとされる[8]。
近世局面[編集]
には火器が導入され、商人と系航海者が戦争の当事者に加わった。もっとも、当時の主目的は領土拡張ではなく、港湾の鐘楼に掲げる旗の色を統一することにあったという。旗布の染料配分をめぐって近く交渉が続いたのは、この戦争の最もばかばかしい側面として知られている。
主要人物[編集]
初期の英雄としては、が挙げられる。彼は南門の守備隊長で、敵軍の進軍を止めるために城門の影の長さを毎朝測定し、暦のずれを逆手に取って奇襲を行ったとされる。彼の戦術は後に「影兵法」と呼ばれ、の宮廷学校で一時教科書化された[9]。
中期には、が登場する。彼はの港税改革を試みた行政官で、戦争の継続を嫌って停戦表を配布したが、その表が両面印刷であったため双方の陣営に「裏切り」と受け取られた。結果として彼は和平の象徴であると同時に、紙の節約を戦争に利用した人物として記憶された。
終末期の人物としては、が有名である。彼女は沿岸の要塞群を調査した測量士で、戦争終結時に「敵味方の境界線は海霧の濃度に等しい」と発言したと伝えられる。なお、この言葉は後年の引用集ではしばしば哲学的名句として扱われるが、原典では単に天候不順への愚痴であった可能性がある[10]。
社会的影響[編集]
一万年戦争は、軍事史よりもむしろ行政史に大きな影響を及ぼした。各都市は徴発と停戦を記録するため、を常設し、そこからとが独立した職能として成立したとされる。とくにでは、年ごとに異なる勝利宣言が増えすぎたため、宣言文の長さを以内に制限する法令が出されたという[11]。
また、戦場跡から大量の破損した陶器片が出土したことを契機として、「ひびの入った壺ほど真実をよく伝える」とする断片史学が流行した。これはので体系化され、のちの史料批判の基礎となったが、戦争の実態を知る手がかりが少ないことを逆に権威化してしまったため、研究者同士の論争は現在も続いている。
研究史・評価[編集]
の古文書学者は、一万年戦争を「連続した武力衝突ではなく、各時代の権力者が先祖の失敗を自分の戦果に接ぎ木した巨大な編集物」と評した。これに対し、の年代学派は、粘土板・羊皮紙・パンフレットの層位が一致することから、少なくとも「戦争を戦争として保存しようとした習慣」は実在したと反論している[12]。
近年では、のが、戦争の終結年をとする説に疑義を呈し、実際には「記録の打ち切り年」にすぎないと主張した。もっとも、この仮説は一万年戦争を一層長大に見せる効果をもたらし、一般書ではかえって採用されやすい傾向がある。
なお、一部の民間伝承では、この戦争は「毎年同じ祭礼で再開されるため終わらなかった」ともされる。これは史料上の裏付けが薄いが、の漁村で今も秋祭りの際に木製の槍を海に投げ入れる習俗が残ることから、完全な否定も難しいとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ アルベルト・ヴァン・ホーフ『一万年戦争の年代再編』ルーヴェン大学出版局, 1987年.
- ^ Eleanor P. Whitmer, "Chronicles Without End: Administrative Wars in the Ancient Near East", Journal of Imaginary Histories, Vol. 14, No. 2, 2008, pp. 113-149.
- ^ ハインリヒ・クラウス『断片からみる長期戦争』ミュンヘン歴史評論社, 1921年.
- ^ M. Salim al-Khuri, "Salt Tax and Sacred Roads in Cappadocia", Middle Eastern Antiquity Review, Vol. 7, No. 4, 1996, pp. 201-238.
- ^ 渡辺精一郎『暦と征服――古代都市国家の再読』東京学芸史学会, 1974年.
- ^ Giovanni B. Ferretti, "Flags, Towers, and the 120-Year Negotiation", Rivista di Storia Fittizia, Vol. 3, No. 1, 1962, pp. 5-39.
- ^ 小泉達也『戦争記録官制度の成立』中央史料出版社, 2011年.
- ^ ソフィア・ヴァン・デル・メール『北海沿岸要塞の測量と霧』アムステルダム海洋史研究所, 2003年.
- ^ ヘレナ・カザンザキス『ひびの入った壺と真実の方法』アテネ比較史学会, 1999年.
- ^ 『The Ten-Thousand-Year War and the Problem of End Dates』Cambridge Imaginary Press, 2018年.
- ^ 山口真理子『一万夜の守備記録 注釈版』青銅書房, 1968年.
外部リンク
- 古代戦争年代学研究センター
- 北海戦史アーカイブ
- アレクサンドリア断片写本図書館
- メソポタミア比較暦学会
- 戦争記録官協会