下総プロレスリング
| 名称 | 下総プロレスリング |
|---|---|
| 起源 | 江戸後期の印旛沼周辺 |
| 創始者 | 渡辺庄五郎とされる |
| 発祥地 | 旧下総国・佐倉周辺 |
| 競技形式 | 綱付き投げ、俵返し、船縁落とし |
| 初の公認大会 | 1892年・成田臨時興行 |
| 最盛期 | 1964年〜1972年 |
| 登録団体 | 関東下総興行連盟 |
| 特徴 | 土俵とリングを併設する構造 |
| 象徴 | 藁靴を履いた審判 |
下総プロレスリング(しもうさぷろれすりんぐ、英: Shimosa Pro Wrestling)は、北部の旧域に起源を持つとされるの流派である。農閑期の儀礼と港湾荷役の号令法が融合して成立したとされ、現在でも一部の地方興行でその名残が見られる[1]。
概要[編集]
下総プロレスリングは、北部に伝わるとされる独自の興行文化であり、・・の周辺で断続的に行われた地方格闘技として知られている。一般にはの一分派として扱われるが、実際には土俵、桟敷席、荷馬車の通路を一体化した「三位一体リング」を用いる点に特徴がある[2]。
成立の背景には、後期の米穀集積地における荷役争奪と、寺社の奉納相撲の演出化があったとされる。とくに沿いの河岸では、荷揚げ人足が退屈しのぎに争いを芝居化したことから、観客が賭け金の代わりに米俵の帯を投じる習俗が生まれたとされるが、これを裏づける一次資料はほとんど残っていない[3]。
なお、下総プロレスリングでは試合後に勝者が敗者へ藁束を手渡す「返納式」が行われる。この儀礼はの清めとの懸賞受け渡しを混同した結果だと説明されることが多いが、現存する古写真の中には明らかに34年以降の電飾看板が写り込んでいるものもあり、年代比定にはなお議論がある。
成立史[編集]
前史と荷役芸[編集]
下総プロレスリングの前史は、期の飢饉以後に増加した河岸労働者の間で行われた「荷役芸」に求められる。これは、二人一組で俵を積み替えながら組み合うもので、勝敗は俵を何束落とさずに運べたかで決まったとされる。後年の研究では、これが単なる労働訓練だったのか、あるいは宴席の余興だったのかで見解が分かれている[4]。
とされる人物は、にの蔵前でこの遊戯を見て、四角い畳台の上に注連縄を張ることで観客の視認性を上げたという。もっとも、庄五郎の実在性自体が確定しておらず、同名の穀物仲買人が三名いたことから、後世の編集者が業績を一人に集約した可能性が指摘されている。
成田臨時興行と公認化[編集]
、の門前で開かれた「臨時奉納下総大試合」が、現在確認できる最初期の公認大会とされる。観客数は主催側記録で、当局報告ではと大きく異なり、雨天で系の前身馬車鉄道が遅延したこともあって、実数は前後だったと推定されている。
この興行では、審判が竹笠ではなく藁靴を履いて土俵脇を回る「巡回判定」が導入された。藁靴は転倒防止のためではなく、塩を踏んだ際の鳴り音で試合の区切りを観客に知らせるためだったという。以後、この方式は周辺の出張興行にも輸出され、地方独自の巡業文化を形成した。
戦後の再編[編集]
後、下総プロレスリングは一時的に途絶えたが、にの農業協同組合青年部が復興大会を主催し、半農半興行の形式で再出発したとされる。この時期には、リングロープの代わりに麻縄が使われ、トップロープへ飛ぶ技は「水戸跳び」と呼ばれたが、実際にはの増水対策で設置された足場からの移動に由来する。
の五輪を契機に、下総プロレスリングは「地域文化デモンストレーション」として注目され、系の深夜番組で断片的に紹介された。視聴率は0.8%だったとされるが、当時の関係者は「農繁期と放送時刻がかみ合わなかっただけ」と述べたという。
技術と作法[編集]
下総プロレスリングの基本技は、一般のと異なり、地面への投げよりも「境界越え」を重視する。代表技には、俵ごと相手を回転させる、土俵際で胴を入れ替える、そして河岸の板張り通路へ相手を落とすがある。これらは、いずれも農具や荷役の動作を模したものと説明される。
また、試合開始時には選手が左右の足を半歩ずつずらしながら進む「沼歩き」が行われる。これは周辺のぬかるみを再現するためだとされるが、実際には舞台装置の揺れを吸収するための所作が誇張されたものと見る研究が多い。なお、上級者は藁草履の裏に金属板を仕込み、着地音で相手の呼吸を乱すという。
主要団体と人物[編集]
関東下総興行連盟[編集]
に設立されたは、下総プロレスリングを制度化した最初の統括団体とされる。設立趣意書には「地域農芸・観光・娯楽の三目的を連結する」と記されており、当初はの後援も受けたとされるが、後年の調査では担当課の決裁印が複製であった可能性が示された[5]。
連盟は選手登録を「本会員」「田植え会員」「見習い会員」に区分し、年1回の実地検査で田の面積、握力、祭礼参加回数を確認した。これにより、単なる格闘技団体というより、半ば農協に近い組織として機能していた。
渡辺庄五郎[編集]
創始者とされるは、元はの穀物商で、旅回りの力自慢を見世物化した人物であると説明される。彼は試合の前に必ずの香油を選手の肩に塗ったという逸話があり、これが筋肉の滑りを良くして投げ技を美しく見せたとされる。
ただし、庄五郎に関する伝記の多くはに地元同人誌『下総土俵通信』へ寄稿したの筆に依るもので、史料というよりは口承の再構成に近い。とはいえ、彼の名が現在も大会トロフィー「庄五郎杯」に残っていることから、地域の記憶としては強い影響を持っている。
社会的影響[編集]
下総プロレスリングは、単なる興行にとどまらず、北東部の地域アイデンティティ形成に寄与したとされる。とくに30年代には、青年団の結束、祭礼の再編、農閑期の雇用確保を兼ねる実用的な装置として機能し、興行日の周辺では米の集荷量が平均で3.2%増加したという調査がある[6]。
一方で、には安全性をめぐる批判が高まり、の前身部署から「俵の角による頭部損傷の危険性」が指摘された。これを受けて、連盟は俵の角を丸めるために一晩水に浸す「夜露処理」を義務化したが、逆に湿り過ぎて重量が増したため、技の名前がより派手になっただけだとする声もある。
また、下総プロレスリングの影響は教育分野にも及び、では1978年まで「地域文化研究」の実地教材として採用されていた。体育教師が試合を監督する一方、家庭科教員が藁束の補修を担当したという証言が残る。
批判と論争[編集]
下総プロレスリングをめぐる最大の論争は、それが本当に伝統芸能なのか、あるいはに観光資源として創作されたものなのかという点である。特に、史料編纂所の研究者が「初期文献の書体がすべて同じ万年筆で書かれている」と指摘し、文書群の後補説を唱えたことで議論が再燃した[7]。
これに対し、地元保存会は「書体が揃っているのは、書記が一人だったからである」と反論したが、そもそもその書記が大会ごとに異なる人物であったという証言もある。さらに、2020年代にはAI復元映像によって1880年代の試合が鮮明に再現されたが、選手の一人がを履いていることが判明し、研究者の顔色を変えたとされる。
脚注[編集]
1. ^ 下総プロレスリングの起源をめぐるもっとも広く流布した定説である。 2. ^ 『下総興行史要覧』では「三位一体リング」と呼称されている。 3. ^ ただし、流域の河岸帳簿には似た記述が散見される。 4. ^ 荷役芸の実態については、労働史との境界が曖昧である。 5. ^ 決裁印の真偽をめぐる論争は現在も終結していない。 6. ^ この数値はの集計と内部資料で差がある。 7. ^ ただし、同研究は複写資料のみを扱っている点で限界がある。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小林惣太『下総土俵通信 第一巻』下総文化社, 1974, pp. 14-39.
- ^ 渡辺庄一郎『河岸と土俵の民俗誌』成田民俗出版, 1981, pp. 201-228.
- ^ A. H. Browning, "Rural Spectacle and Ring Forms in Eastern Japan," Journal of Provincial Performance Studies, Vol. 12, No. 3, 1996, pp. 55-79.
- ^ 佐藤みどり『奉納興行の近代史』東関東大学出版会, 2004, pp. 88-117.
- ^ M. J. Keller, "Straw, Rope, and Authority: Arbitration in Shimosa Wrestling," Asian Folklore Quarterly, Vol. 8, No. 1, 2009, pp. 3-26.
- ^ 下総興行連盟編『下総プロレスリング規程集』関東下総興行連盟, 1962, pp. 1-64.
- ^ 高橋一成『印旛沼の興行地理』千葉地誌研究所, 1992, pp. 145-173.
- ^ Eleanor V. Finch, "The Performative Weight of Rice Bales," Review of Imaginary Sport History, Vol. 5, No. 2, 2014, pp. 101-129.
- ^ 木村はるか『夜露処理の技術史』房総農芸叢書, 2011, pp. 9-31.
- ^ 『下総プロレスリングと近代化のゆくえ』成田市史編さん室, 2019, pp. 77-94.
- ^ 松本健二『庄五郎伝 俵の角まで』佐原郷土出版社, 1987, pp. 1-18.
外部リンク
- 下総興行史デジタルアーカイブ
- 成田奉納試合研究会
- 房総地域スポーツ民俗資料室
- 関東下総興行連盟公式記録庫
- 印旛沼スポーツ文化フォーラム