世紀末ポーカー
| 発祥とされる地域 | 横浜港周辺 |
|---|---|
| 主な時代背景 | 〜 |
| 競技の性格 | 賭博に加えて予測・記録を評価する形式 |
| 標準とされた手順 | 宣言→配札→予測照合→点数換算 |
| 流行の媒体 | 貸本・小冊子・新聞の懸賞欄 |
| 略称 | FDSポーカー(作中略) |
| 派生文化 | 都市伝承型の投票ゲーム |
| 現在の扱い | 史料に基づく復元例が散見される |
(せいきまつポーカー)は、主に19世紀末から20世紀初頭にかけて流行したとされる、勝敗だけでなく「予測の正確さ」を賭ける変則ポーカーである。港湾都市の同人会で考案されたという口伝があり、のちにの出版界と結び付いて広まったとされる[1]。
概要[編集]
は、単なるポーカーの勝ち負けに加えて、参加者が投じた「予測(天候・株価指数・航路の遅延など)」が後日どれほど当たったかを得点に反映させる形式として記述されることが多い。
規則は地域ごとに揺れているが、共通項として「宣言した予測を、配札前に書面で封印する」段取りが強調される。また、点数は勝敗と予測の双方を合算し、最終的に“最も当てた人”が宴席の幹事権や翌週の開催場所を得る仕組みが採用されがちである。
19世紀末、の海運業者が新聞購読や航海日誌の回覧で培った「記録への執着」を、遊戯に移植したものだと解説されることがある。一方で、当時の金融不安を笑いに変換する装置として広まったという見方もあり、いずれにせよ「当たったかどうか」が中心に据えられた点が特徴とされる[2]。
起源と成立[編集]
横浜港の“封筒賭け”伝承[編集]
起源としてしばしば挙げられるのは、港の荷揚げ現場で行われていた「封筒賭け」である。労務者たちは、賭け金を紙に包んで結び、翌朝まで解かないという“時間の遅延”を取り決めていたとされる。
口伝では、1897年の冬、霧が異常に濃くなり、船の入港時刻が平均で31分ほど前後したという記録が残っているとされる。そこで、船長が見立てを封筒に書き、カードの強弱と結び付けた遊びが“たまたま”生まれたのがだと語られがちである[3]。
この伝承を補強する史料として、横浜の貸本屋「二葉堂」の棚卸帳に、架空の品名「霧封筒(むふうとう)16枚組」なる記載があると紹介されることがある。ただし、同帳は後年に写しが作られたため、細部の真偽は揺らいでいると指摘される[4]。
予測点数体系の“出版版”完成[編集]
形式が“ゲーム”として整ったのは、の出版界が懸賞企画を強化した時期だとされる。1901年、新聞の紙面に「未来の天気当て」が掲載され、その応募者が増えたことを受けて、編集者が「当てるなら、より刺激的に」と考えたという逸話がある。
このとき考案されたとされるのが、勝敗とは別に「予測の当たり具合」を換算する点数表である。表は、たとえば天候なら“晴・薄曇・曇・雨”の4区分で、宣言が一致すると5点、不一致でも隣接区分なら2点、完全外れなら0点とするような細かい配点が好まれたとされる。
また航路系の予測では、「入港予定時刻との差」を秒単位で記入させ、差が“ちょうど±3600秒”だった場合にボーナス2点を付与する、といった妙に具体的な規則が流行したとされる[5]。この数値がどう導かれたかは不明だが、編集部が計算用の算盤を誤ってセットした結果そのまま採用された、という与太話も併記されることがある。
“世紀末”という言葉の政治的利用[編集]
「世紀末」が冠された理由については、単なる流行語ではないという説がある。1899年、系の文書が“節制”を促す訓示を出し、投機を嗜む若者に向けて「賭けるなら節度を学べ」という牽制が行われたとされる。
そこで、賭けを“当てもの”として包み直し、社会的に無害な顔を与える必要があったという指摘がある。結果としては、実際の勝負よりも「予測の学習」や「記録」へ重心を置く説明が先行するようになったと考えられている[6]。
ただし一部では、訓示の文章が“予測できないものは賭けない”と読めたため、参加者がかえって予測を競うようになり、かえって賭博性が上がったのではないかとも議論された。こうした反転の経緯が、後の批判へとつながっているとされる。
遊びの仕組み[編集]
の基本手順は、「宣言」「配札」「封印照合」「換算点」の四段階に整理されることが多い。参加者は配札前に予測文を書き、紐で結んだ封筒に入れて卓の中央へ置く。封筒は“誰が開けたか”が争点になりやすいため、途中で封筒係が交代する場合もあったとされる[7]。
配札のルールは、一般的なポーカーに近い部分がありつつも、勝ちの取り扱いが独特とされる。たとえば、役の強さに応じて「宣言の検算」回数が増える仕組みが採用され、弱い役でも“検算が増える”ことで挽回できるようにするのが通例だったという。
さらに、得点の計算では“予測の確率”を推定するよう求められることがある。たとえば株価の予測では「上昇確率を%で記入する」様式が採られ、的中率が高いほど倍率が上がるとされたとされる。ただし、後日実測値をどう扱うかは地域で差が大きく、集計係の裁量が入りやすかったと記録されている[8]。
流行と社会への影響[編集]
は、賭博の形式でありながら、記録文化と娯楽が結び付くきっかけになったとされる。特にでは港の業務日誌と似た書式が採られ、遊戯のために“書くこと”が奨励された。その結果、新聞懸賞欄への投稿が増え、編集部が“愉快な統計”として扱うようになったという[9]。
1906年ごろには、内の中等教育機関で「予測封印式ゲーム」として紹介され、授業の前後で簡単な天気当てをさせる試みがあったとされる。ただし、実際の資料では「ゲーム」とだけ書かれており、カード要素は伏せられていることが多いと指摘される。これにより、同遊戯が“教育っぽい顔”をして拡散したことがうかがえる。
一方で、社会の側にも影響が及んだとされる。すなわち、未来予測を競う癖が強まると、人々は日常の出来事を“配点可能な情報”として見始めた。たとえばの繁華街では、行列の長さを時間分解能で測って報告し、「今日の増加率は3点」などと笑いながら言い合う文化が増えたとする証言がある[10]。この現象が、のちの“統計ごっこ”の流行語につながった可能性があるとされる。
批判と論争[編集]
批判の中心は、賭博性が薄い顔をしていたにもかかわらず、実質的には金銭や地位の争いに接続していた点にあったとされる。特に、勝ち負けに加えて「予測の正確さ」が評価されるため、当てる能力を持つ者が強くなる。結果として、予測情報を独占する“情報持ち”が出現し、秘密の取り引きが疑われたという。
また、予測照合の運用が問題になりやすかった。封筒の開封が誰の責任か曖昧なとき、得点が揺れることがあると指摘され、裁定者を固定する規約が提案されたとされる。しかしその規約自体が“別の利権”を生みやすく、結局は同じ構造に戻ったという回顧録が残っている[11]。
さらに、わずかな不一致が笑いになる一方で、当時は疫病や災害が絡む局面もあったため、「予測が外れたから笑うのか」という道徳的批判が出たという記録がある。資料によっては、海軍の見通しが外れた直後に開催され、参加者が“±900秒ボーナス”を叫んだという逸話が載る。真偽は定かでないが、世紀末ポーカーが“時代の不安を遊戯化した”という象徴として語り継がれている[12]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『封印式ゲーム史:横浜の記録娯楽』横浜書院, 1908.
- ^ マルグレット・A・ソーントン『Games of Certainty: Prediction and Risk in Early Modern Ports』Oxford Arc Press, 1913.
- ^ 鈴木三之助『紙上未来術と点数表の発明』東京印書館, 1904.
- ^ E. H. Carter「Fin-de-Siècle Poker and the Sealed Envelope Mechanism」『Journal of Urban Pastimes』Vol.12第3号, pp.41-62, 1910.
- ^ 伊藤楠太『天気当て懸賞の社会史』東京学芸社, 1911.
- ^ ハンス・フライザー『Secrecy, Scoring, and Social Rank: A Comparative Study』Berlin Practical Review, Vol.7第1号, pp.88-109, 1912.
- ^ 小川啓介『ポーカーの変種と封筒の裁定』神田法学書院, 1921.
- ^ R. T. Nakamura「The ±3600 Seconds Bonus Clause: A Study in Editorial Accidents」『Transactions of Speculative Recreation』第5巻第2号, pp.13-27, 1926.
- ^ 朝倉律子『世紀末語の流通と出版編集』国書刊行会, 1932.
- ^ [要出典]ピーター・ロウ『The Century-End Card Myth』Cambridge Lane, 1896.
外部リンク
- 封印式ゲーム資料室
- 横浜港日誌データアーカイブ
- 点数表コレクションセンター
- 懸賞欄研究会
- 変則ポーカー復元工房