亜久津処の戦い
| 名称 | 亜久津処の戦い |
|---|---|
| 別名 | 亜久津処騒動、処門七日戦 |
| 時代 | 室町時代後期 |
| 年月日 | 永正3年10月12日 - 10月19日 |
| 場所 | 相模国・武蔵国境の久良岐渡し周辺 |
| 結果 | 通行札制度の暫定導入 |
| 関係勢力 | 亜久津奉行所、北条家付役人、渡世人組 |
| 推定死傷者 | 戦死43名、負傷者約180名 |
| 記録媒体 | 『亜久津処日録』ほか |
亜久津処の戦い(あくつどころのたたかい)は、の中世末期において、との境界にあったとされる臨時検疫宿「亜久津処」をめぐって起きたと伝えられる武装衝突である。後期の衛生行政と通行税制度の転換点としてしばしば言及される[1]。
概要[編集]
亜久津処の戦いは、3年に設置された臨時の宿検所「亜久津処」を発端として発生したとされる事件である。名目上は疫病流入を防ぐための検問であったが、実際には配下の通行札発行権と、渡船業者の徴収利権をめぐる争いに発展したとされる。
この戦いは、単なる地方紛争ではなく、検疫・課税・治安が一体化した中世的行政の実験場であったと評価されることが多い。また、後世のにおける関所制度の原型として扱う説もあるが、同時代史料の語り口があまりに感傷的であるため、史実性には留保がついている[2]。
名称[編集]
「亜久津処」という名称は、境目にある仮設の宿場を意味する「処」と、周辺の湿地に由来する「悪津」地名が合成されたものと説明されることが多い。ただし、末期の地図帳には同名の記載がなく、年間の写本にのみ突然現れるため、後世の書き換えが指摘されている。
また、地元では「アクツ」と読む慣習のほか、寺院文書では「阿口津所」「亜口都処」といった表記揺れが見られる。いずれもの宿駅行政において、疫病時に設けられた臨時の小屋群を指す俗称だったとする説が有力である。
背景[編集]
通行札制度の導入[編集]
永正2年、は沿岸部を移動する商人と僧侶に対し、木札状の通行札を携行させる制度を試験的に導入した。これは方面からの病流入を抑える名目であったが、札の発行手数料が一枚三文と比較的高額であったため、流域の船頭組合が強く反発した。
なお、札の紙質は「柿渋で三度染めること」と定められていたが、記録によっては松脂を塗った例もあり、後に「札が雨で溶ける」という珍事が相次いだとされる[3]。
奉行の交代[編集]
事件の直前、亜久津処を監督していた家の下級奉行・が急死し、後任としてが派遣された。有馬は徴税に厳格であったうえ、宿場内の酒樽をすべて「消毒用」として接収したため、周辺の旅籠三十四軒が一斉に閉鎖に追い込まれた。
この措置に対し、地元の渡世人組は「検疫を口実とした酒の没収である」として抗議し、亜久津処の東門に木太刀を積み上げて座り込んだ。これが後の開戦の引き金になったとするのが一般的である。
宗教勢力の介入[編集]
の修験者集団は、疫病除けの護符を配布する代償として通行札の無料発行を要求した。奉行所はこれを拒否したが、修験者側は「札は身を守るが、札を持つ者は神仏に守られぬ」と説き、住民の不安を煽ったとされる。
このとき用いられた祈祷文の断片がに伝わる写本に残るが、文末に「ただし火矢には弱し」と付されており、当時の宗教的実務感覚をよく示している。
戦闘の経過[編集]
戦闘は永正3年10月12日の早朝、亜久津処西側の舟着場で始まった。渡世人組およそ120名が検問小屋を包囲し、奉行所側は弩弓18張と火縄銃11挺で応戦したとされる。初日は小競り合いに終わったが、夕刻には札を焼く煙が一帯に立ちのぼり、近隣の農民がそれを「霧の合図」と誤認して避難したという。
13日には有馬玄蕃が「衛生に名を借りた狼藉は許されぬ」として北門の板塀を撤去し、逆に防御が脆弱になった。これに乗じて渡世人側の鉄杖隊が突入し、米蔵二棟が焼失した。被害のうち一棟は空米袋しか入っていなかったと伝えられるが、奉行所は帳簿上これを「実害」として計上している。
17日、から派遣された調停僧・が和議を試みたが、双方とも「札の印判が先」「消毒水の希釈率が先」と譲らず、交渉は決裂した。最終的に19日、舟頭側が夜陰に紛れて鐘楼を占拠し、鐘を合図に一斉退却したことで戦闘は終結したとされる。なお、鐘楼の撞木は翌朝なぜか三本に増えていたと記録されており、後世の増補とも、現場の混乱とも解釈されている[4]。
戦術と装備[編集]
亜久津処の戦いで特筆されるのは、武器よりもむしろ「書付」を中心とした戦術である。奉行所側は通行札の偽造を防ぐため、札に薄墨で三重の判を押し、渡世人側はそれを逆手に取って「判の濃い者ほど病が重い」と噂を流した。
また、渡世人組が用いたとされる「藁包み盾」は、宿の藁布団を丸めて前進するだけのものであったが、湿地帯では意外に防御力が高かった。奉行所側の火縄銃は雨天で不発が多く、戦況を左右したのは銃弾ではなく、むしろを転がして足止めしたことであったという。
一部史料には、弩弓の矢尻に薬草を巻いた「浄化矢」が使用されたとあるが、実際にはただの目印であった可能性が高い。ただし、矢に付けられた札の文字が「急患」と読めるため、後世の衛生伝承との結びつきが強まった。
戦後の影響[編集]
制度面への影響[編集]
戦後、は通行札を廃止する代わりに、宿ごとに印判箱を設置する「箱印制」を導入した。これにより発行手数料は一枚二文に下がったが、印判箱の鍵を失くす役人が続出し、結局は半年で形骸化したとされる。
それでも亜久津処の経験は、以後の関東一円での臨時検問の標準様式となり、特に沿岸部では「札より先に水を替えよ」という格言が残った。
文化的影響[編集]
江戸期に入ると、亜久津処の戦いは講談や草紙の題材として人気を集めた。中でもの寄席で流行した『亜久津処七夜物語』は、実際の戦闘を三十六場面に引き伸ばしたもので、主人公が毎回違う役職で現れるため、史実の参照には向かない。
一方で、近代以降の郷土史家はこの事件を「検疫権力と地域自治の衝突」として再評価し、の調査では、周辺古文書の約17%に亜久津処に関する痕跡が見られると報告されたが、どの古文書も同じ筆跡であることが後に問題視された。
批判と論争[編集]
亜久津処の戦いをめぐっては、そもそも同名の地所が実在したのかという根本的な疑義がある。史料編纂所系の研究者の一部は、『亜久津処日録』の紙継ぎの癖から見て、十八世紀後半の模写ではないかと推定している。一方で地方史料の側は、戦闘が実在したこと自体は疑わしくないとしている。
また、死傷者数についても史料間で大きな差がある。『相州軍記抜粋』では死者8名とされるのに対し、『諸役控帳』では死者43名、さらに『亜久津宿古文書集成』では「死者は少なし、ただし皆、寝不足」と記されている。これらの不一致は、実際の武力衝突というより、長期にわたる宿場封鎖の記録を後世が戦記化した結果である可能性を示唆している[5]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯俊蔵『関東宿駅制度史料考』青潮社, 1987年, pp. 41-76.
- ^ Marjorie A. Hutton, "Quarantine Gates in Medieval Japan", Journal of East Asian Border Studies, Vol. 12, No. 3, 1994, pp. 201-233.
- ^ 小沼泰成『亜久津処日録の成立と転写』神奈川郷土研究会, 2001年, pp. 9-58.
- ^ H. L. Mercer, "Stamps, Passes, and River Toll Politics", Pacific Historical Quarterly, Vol. 58, No. 1, 2016, pp. 17-49.
- ^ 高瀬一郎『中世関所と衛生政策』吉川文庫, 1979年, pp. 112-145.
- ^ 渡辺精吾『相州検問小屋の民俗誌』地方文化出版, 1998年, pp. 77-103.
- ^ Aiko N. Fielder, "The Battle of Akutsudokoro and Administrative Violence", Transactions of the Far Eastern Antiquarian Society, Vol. 4, No. 2, 2008, pp. 88-119.
- ^ 村上璃子『札が燃えるまで――通行札制度の実際』港の書房, 2010年, pp. 5-39.
- ^ 『亜久津処とその周辺の怪異』横浜近世史料叢書 第6巻, 2014年, pp. 121-164.
- ^ Thomas J. Pembroke, "A Study on the Threefold Stake of the Bell Tower", Review of Invented Histories, Vol. 9, No. 4, 2021, pp. 300-318.
外部リンク
- 神奈川郷土史デジタルアーカイブ
- 中世通行札研究会
- 関東宿駅史料翻刻センター
- 亜久津処戦跡保存協議会
- 架空史料批評フォーラム