人間椅子
| 成立時期 | 17世紀後半〜18世紀初頭 |
|---|---|
| 主な地域 | 西欧の主要港湾都市(例:リューベック、リヨン周辺) |
| 起源とされる分野 | 旅芸人の見世物規範と民俗の祝祭慣行 |
| 関連する担い手 | 旅芸人組合、物売りギルド、墓場警備の準軍事組織 |
| 使用される「器」 | 木製の椅子と、椅子役(担い手)としての人身 |
| 文献上の初出(架空) | 『港町見世物記録』第3巻(1692年) |
| 評価の分岐点 | 1819年の衛生監査と道徳委員会の対立 |
| 衰退の時期(架空) | 19世紀半ばの規制強化後 |
人間椅子(にんげんいす)は、身体を「器」として扱う奇術・民俗儀礼が都市化する過程で生まれたとされるの歴史的習俗である[1]。特にの旅芸人組合の規約改訂を契機として、観客の視線そのものが儀礼の一部として制度化されたと記録されている[2]。
概要[編集]
は、舞台上で「椅子の代わりに人が固定される」見世物の形式を指す用語として成立したとされる。言い換えれば、観客が見ているのは木と布だけでなく、「身体が椅子の重さを引き受ける」という構図であると整理されている。
成立の端緒は、都市の港湾で発達した旅芸人が、各地区の風紀担当へ提出する台帳(興行許可台帳)に合わせて演目の説明文を定型化したことに求められてきた。なかでも固定位置を示す符丁として「椅子」を用い、そこに人身を充てる表現が流行した結果、俗称としてが広まったと考えられている。
なお、同名の民俗儀礼が各地に散在していたという反証も存在する。例えば、北部では「祝詞の終止符」として人が腰掛け役を担い、南部では婚礼の誓約に似た形式があったとされるが、いずれも“椅子の形式”を文字通りに統一したのは港湾都市の興行制度化以後だった、という見解が有力である。
歴史[編集]
背景:規約が「椅子」を作った[編集]
17世紀後半、港湾都市では旅芸人の営業が増えた一方で、転倒事故・感染拡大・賭博の混入が問題視された。そこでは「興行は“座る物”を中心に配置せよ」という安全条項を、奇術台帳の様式と連動して導入したとされる。
この条項では、舞台の中心に置かれるものを「座具(seat)」「受器(vessel)」「固定点(anchor)」の3語で区分し、観客席から見える高さ・固定方法・清掃手順を同じ欄に記入させた。記入を速めるため、旅芸人の下働きが符号化した結果、座具の欄に「椅子役=人身固定」という記述が紛れ込み、いつしか「seat」の和訳が“椅子”として定着したという筋書きが語られてきた。
ただし、この制度化には裏の思惑もあったと推定されている。墓場警備の準軍事組織が、群衆整理のために「一人を中心固定する」方式を好み、旅芸人にその代替役を提供したという指摘がある。つまりは、芸だけでなく交通整理・衛生管理の補助輪として設計された可能性が指摘されている[3]。
経緯:流行は「重さの数え方」から始まった[編集]
1692年、リューベック周辺で流行したとされる台帳『港町見世物記録』第3巻には、演目の説明が異様なほど細分化されていた。そこでは椅子の「重さ」を“観客が感じる恐怖量”として換算し、例えば「重さ3=息が止まる確率0.27」「重さ4=涙腺反応までの平均24拍」などの指標が併記されている[4]。この数値が後年、寓話として引用されることで、が「計測可能な奇術」として語られる下地になったとされる。
18世紀前半には、リヨン周辺の布商ギルドが興行を支援する形で「祝祭の椅子」と称する共同演目を増やした。支援条件は「椅子役(人身固定)の契約日数を最小化し、代金の支払いを3回に分割すること」であったと記録されている。ここで契約管理が煩雑化したため、椅子役は“人間椅子担当”という職能名で扱われ、見世物の分業が進んだという[5]。
さらに19世紀初頭、道徳委員会が「身体を道具にする言葉遣い」を嫌い、演目名を“固定された座具”へ言い換えさせた。ところが言い換えを行った結果、むしろ人々は「言葉が隠しているもの」を当て始め、噂が増幅したとされる。こうしては、直接的な残酷さの描写ではなく“言外の意味”で拡散する怪談的な文脈を獲得した。
影響:都市の視線が「制度」として回った[編集]
影響は舞台の外へ波及したとされる。第一に、衛生監査により「固定点の清掃」を義務化する規則が他の興行へも転用され、結果として舞台の転換作業が工程化されたという[6]。第二に、群衆が“椅子役の無事”を確認する行為を、観客側のマナーとして学習したと考えられている。
一方で、社会的な批判も同時に生じた。市の衛生官が1830年にまとめたとされる覚書では、「固定点は尊厳を削る」「椅子の安定性は身体の上に築かれる」という苛烈な表現が見られる。ただし、当時の記録は“衛生”の名で道徳を統制する意図があった可能性があり、単純な被害報告として読むのは難しいとされる。
それでもが文化として残った理由は、都市が「安全」と「見世物」を両立させる必要に迫られたからだと整理されている。興行許可を得るには監視可能であることが重要であり、身体を中心に置く形式は監視の効率を上げたと推定されるのである。
研究史・評価[編集]
研究史では、最初に“芸能史”として扱われ、のちに“制度史”へと比重が移ったとされる。19世紀末の美術評論家たちは、座具の意匠や衣装の構図を論じることに熱心だったが、その後、興行許可台帳の様式分析が進むにつれて、の文書が中心史料として再評価された。
とくに重要なのは、「人間椅子」の成立が“残酷な好奇心”より先に“規約の言葉遊び”から生じた可能性である。これを支持する研究では、椅子の記述が台帳の欄間移動で生じたこと、つまり実務上のミスが流行へ変質した点が強調されたとされる。一方で、史料の数値(恐怖量換算、拍数、清掃回数など)は後年の編集で誇張された可能性があるとする反論も存在する。
評価は割れている。肯定的な論者は「危険を見える形で管理した点」に価値を置くのに対し、批判的な論者は「管理の名のもとで身体が商品化された」ことを問題視する。いずれにせよ、は“何が行われたか”以上に、“何を記録として残すか”が社会の感覚を形作った例であると結論づけられている。
批判と論争[編集]
論争の中心は、演目が「安全管理」として機能したのか、「言葉を隠れ蓑」にして搾取を温存したのかという対立にある。道徳委員会側は、椅子役が“同意のもとで契約される”ことを繰り返し主張したが、契約の実態は監査記録上では「口頭確認」「誓約文の保管不全」という曖昧な項目で処理されていたとされる。
また、数値の扱いが批判された。『港町見世物記録』第3巻の“重さ3=息が止まる確率0.27”のような指標は、科学的根拠というより興行の販売文句であった可能性が指摘されている[7]。さらに、椅子役の人数が「毎回5名、平均休憩9分、総負荷は合計112単位」とまとめられた記述があるが、これが実測なのか編集上のテンプレートなのかは不明であるという[8]。
このため、いくつかの研究では「という呼称自体が、批判を回避するために後から付け替えられた」という逆説も唱えられている。言外の痛みを語らず、言葉だけで歴史を作ったのではないか、という問題提起である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ マルクス・エルマン『港町見世物記録(架空)第3巻』リューベック港評議会出版, 1692.
- ^ ルイザ・サン=ドニ『都市規約と舞台技法:seat, vessel, anchorの変遷』ベルナール印刷局, 1738.
- ^ A. ハーディング『The Ledger of Spectacle: Permits and Performance in Seventeenth-Century Ports』Cambridge Maritime Studies, Vol. 4, No. 2, 1761.
- ^ グレタ・コルシカ『観客の拍数:恐怖量換算の流行とその周辺』リヨン学院紀要, 第12巻第1号, pp. 51-88, 1804.
- ^ ジョナス・ヴァイル『分業する見世物:椅子役職能の形成』ウィーン演劇史学会, 第7号, pp. 201-233, 1811.
- ^ ファティマ・アル=ラヒム『監視可能性と安全:興行における制度の波及』ベイルート衛生史レビュー, Vol. 9, No. 3, pp. 9-40, 1897.
- ^ ハロルド・ジルベルト『道徳委員会と言葉の検閲:fixed pointsの命名変更』Oxford Civic Archives Press, 1913.
- ^ ジャン=クロード・モレル『統計っぽい伝承の作り方:0.27の正体』パリ社会史叢書, 第2巻第4号, pp. 77-102, 1926.
- ^ E. M. Thornton『Public Health as Stagecraft』London Medical Chronicle, 第20巻第2号, pp. 301-330, 1932.
- ^ リチャード・ハートフィールド『Human Spectatorship in Europe』(題名がやや異なるとされる)North Rhine University Press, 1968.
外部リンク
- 港湾興行台帳アーカイブ
- 都市衛生監査資料館
- 旅芸人組合規約集(写本)
- リヨン祝祭記録データベース
- 道徳委員会の言語審査索引