虚椅子
| 名称 | 虚椅子 |
|---|---|
| 別名 | 空席椅子、抜け座 |
| 分類 | 儀礼用家具、接客補助具 |
| 起源 | 大正末期、京都市内の座席試験場 |
| 考案者 | 西園寺 恒一郎ほか |
| 主な用途 | 来客応対、会議演出、欠席の可視化 |
| 材質 | 欅、真鍮、布張り、重し板 |
| 流行期 | 昭和8年 - 昭和41年 |
| 現況 | 一部の式典施設で限定使用 |
| 国際呼称 | Void Chair |
虚椅子(きょいす、英: Void Chair)は、座るための家具として設計されながら、実際には着座者の姿勢・声量・滞在時間を「空席」として扱うよう調整されたの儀礼用家具である。末期ので考案されたとされ、のちにの官公庁やの接客現場に広まった[1]。
概要[編集]
虚椅子は、外見上は通常の椅子であるが、着席した者に「ここは空いている」と周囲に認識させるための特殊な座具であるとされる。座面の中央がわずかに沈み、背もたれが意図的に一拍遅れて追従する構造を持ち、これにより会話の主導権を譲る効果があるとされた[2]。
一般にはやの道具のように誤解されやすいが、実際にはとの接点で生まれたものと考えられている。とくに初期の行政文書では「非主張型座具」という呼称も見られ、のちにの待合室で採用が進んだことで名称が定着した[3]。
歴史[編集]
起源と試作[編集]
もっとも古い記録は、中京区の什器商・西園寺家具店が残した帳面である。ここには「虚席ヲ生ズル椅子、試作一号」とあり、当初は長時間の会議で参加者の緊張を下げる目的で作られたとされる[4]。
考案者とされる西園寺 恒一郎は、もともとの聴講生で、講義中に教授の前で発言できない学生のために「座っているだけで十分に参加したことになる」装置を思いついたという。なお、この逸話は本人の回想録にのみ見え、要出典のまま放置されていることが多い[5]。
官公庁への導入[編集]
、の地方視察班が虚椅子を「緊張緩和のための無音椅子」として試験導入したことが転機である。とくにの会議室では、来賓の着席位置をあらかじめ空席として確保する運用に用いられ、これが「虚席の制度化」と呼ばれた[6]。
この時期の公文書には、虚椅子の配置間隔を「1.8メートル以上、かつ心理的に2.4メートル相当」とする独特の表現があり、当時の官僚が心理学に強く影響されていたことがうかがえる。もっとも、同文書の脚注欄にはなぜかの座席表が挟まれており、後世の研究者を悩ませている。
大衆化と衰退[編集]
20年代後半から、、のグリーン車風待合室などに広まり、虚椅子は「礼儀を可視化する家具」として一時代を築いた。特にの老舗百貨店では、週末の売り場で虚椅子の前にだけ客足が止まる現象が観測され、販売員が自然と笑顔を保てるようになったという[7]。
しかしに入ると、簡素で実用本位の家具が好まれるようになり、虚椅子は「座った感じがしないのに場所だけ取る」と批判されて急速に衰退した。それでもやでは、発言予定者の席を空席のまま演出するために細々と使われ続けた。
構造[編集]
虚椅子の標準構造は、欅製の脚部、真鍮の補強環、そして座面下に仕込まれた「遅延板」から成るとされる。遅延板は着座時の荷重を0.7秒ほど遅らせて伝える仕組みで、これにより座った者が一瞬だけ宙に浮いたような印象を受ける[8]。
また、背もたれには極小の傾斜が与えられており、使用者の背中を支えるのではなく「支えられていない感覚」を演出する。このため、職人の間では「椅子でありながら椅子に非ず」と言われ、製作にはとの共同作業が必要とされた。
文化的影響[編集]
虚椅子は、の対人距離感を象徴する家具としてしばしば論じられている。とくにでは「座っているのに席を譲る」所作の美意識と結びつけられ、研究の題材にもなった[9]。
一方で、の実務文化では、虚椅子は会議の長文化を促進したと批判されることもある。席が空いているように見えるため発言が増え、結果として議事録が通常の1.4倍の長さになったという調査もあるが、この調査はの2回限りの観測に基づくため信頼性は高くない。
批判と論争[編集]
虚椅子をめぐる最大の論争は、その用途が「礼儀の道具」なのか「遠慮の制度化」なのかで分かれる点にある。特にの座席配置委員会では、虚椅子が「空席の美学」を助長し、結果として本来座るべき人が立ったままになる事例が報告された[10]。
また、製造コストの高さも問題であった。標準品1脚の価格は時点で当時の新卒公務員初任給の約3.2倍に達し、しかも毎月の「空気調整ワックス」代が別途必要であったため、導入できる機関は限られていた。なお、ある研究では、虚椅子の近くにいると人が無意識に譲歩的になる確率が17%上昇するとされたが、被験者が全員同じ茶菓子を食べていたことから、後に再検証が求められた。
現代における利用[編集]
現代では、虚椅子は実用品というより展示品・話題性のある民具として扱われている。の工芸館、の旧商家、内の一部ホテルのロビーでは、来客の待機心理を測るために復刻版が置かれることがある[11]。
また、近年はデジタル化された「仮想虚椅子」も登場しており、オンライン会議で発言権を保留したい参加者の名前の横に空白を表示する機能として応用された。もっとも、これは実際にはただの未発言者表示であり、虚椅子研究者のあいだでは「概念の矮小化」として扱われることが多い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 西園寺 恒一郎『虚椅子試作記』西園寺家具店、1931年。
- ^ 田辺 俊雄「座ることの非実在性」『建築心理学雑誌』Vol. 12, No. 3, pp. 44-59, 1938.
- ^ Margaret H. Ellsworth, "The Politics of Empty Seating", Journal of East Asian Material Culture, Vol. 8, No. 1, pp. 101-128, 1957.
- ^ 山縣 友蔵『空席の作法――昭和接客家具史』中央工芸出版、1964年。
- ^ 渡辺 精一郎「虚椅子の普及と百貨店の沈黙」『日本民具研究』第9巻第2号, pp. 7-31, 1972年。
- ^ Charles P. Henslow, "Delayed Boards and Social Deference", Furniture Studies Quarterly, Vol. 4, No. 4, pp. 210-233, 1949.
- ^ 小野寺 かすみ『虚椅子と礼儀の近代』京都座具文化協会、1986年。
- ^ 本郷 直人「会議時間の増幅装置としての虚椅子」『都市生活史研究』第17巻第1号, pp. 88-112, 1991年。
- ^ A. J. Rutherford, "Void Chairs in Administrative Interiors", Proceedings of the Imperial Institute of Civic Design, Vol. 22, No. 2, pp. 15-41, 1934.
- ^ 白石 みどり『虚椅子入門――座らないための家具学』新潮工房、2003年。
- ^ 佐伯 充『座席の幽霊学』関西家具史会、2011年。
外部リンク
- 虚椅子文化保存会
- 京都座具資料室
- 日本空席家具研究センター
- 仮想座席アーカイブ
- 東西接客什器年鑑