先手の奪い馬
| 分類 | 軍馬訓練・馬術競技 |
|---|---|
| 起源 | 17世紀後半の江戸前期 |
| 考案者 | 渡辺玄斎、島津栄之助らとされる |
| 主な地域 | 江戸、会津、薩摩、仙台 |
| 目的 | 相手の指示や動きを先取りして主導権を握ること |
| 関連文献 | 『馬上先取録』、会津藩御厩日誌など |
| 現在の扱い | 古馬術の一種として民間保存会で継承 |
先手の奪い馬(せんてのうばいま)は、近世日本で用いられたとされるの調教概念、およびそれを応用したの一形態である。相手より先に行動の主導権を奪うことを目的とした訓練法として知られている[1]。
概要[編集]
先手の奪い馬は、騎手と馬の反応速度を極限まで高め、相手の進路・気配・呼気の変化を先読みして動くことを重視する訓練体系である。一般にはの応用技法とされるが、江戸中期には武家の礼法、藩校の兵学、さらにはの「先手」にまで比喩が広がり、半ば思想体系のように扱われた[2]。
名称の「奪い馬」は、敵の馬を奪うという意味ではなく、相手が行動を起こす前に主導権を奪うという比喩から来たとされる。ただし、文献によっては実際に訓練用の栗毛馬を「奪い馬」と呼んだ例もあり、語義はかなり揺れている。なお、の古文書収集家が所蔵していた断簡により、18世紀にはすでに都市の賭け馬遊技にも流入していたことが判明している[3]。
歴史[編集]
成立[編集]
成立は年間のであるとされる。旗本の馬術指南役であった渡辺玄斎が、雨天時に馬が先に泥を避けて右へ寄ったことに着目し、「馬は命令を待つのではなく、相手の兆しを奪う」と記したのが始まりとされる[4]。これを受けて、では呼吸、鞍の軋み、拍車のわずかな音を手掛かりに発進を早める訓練が制度化された。
一方で、薩摩側では島津栄之助が独自に「先手返し」と呼ばれる方法を編み出し、馬に先に半歩だけ踏み出させ、その後に騎手が拍を合わせる方式を採用したと伝えられる。これにより、騎手の命令が実際には後から出されても、観客には最初から主導していたように見えるため、当時の見世物として異様な人気を集めた。
藩校と軍制への導入[編集]
5年、の藩校では「先手奪取科」が臨時に設置され、毎月12頭の馬を用いた反復訓練が行われたという。記録上は3か月で習熟するとされたが、実際に戦場で有効だったかについては議論がある。もっとも、の馬廻組では「敵より早く動くこと自体が威圧になる」として評価され、格式馬術として広まった[5]。
この時期には、馬の鼻革に薄い銅板を縫い込み、湿度の変化で鳴る微細な音を利用して騎手に合図を送る「鳴き鼻革」が考案されたとされる。現代の研究者の間では、これは技術というより半ば儀礼であったとする説が有力である。
衰退と復興[編集]
に入ると、騎兵制度の近代化に伴い先手の奪い馬は一度衰退したが、の民間競馬場や農学校の演武会で細々と継承された。特ににで開かれた「東亜馬政展覧会」では、わずか2分14秒の模範演武が新聞で「先取りの妙」として報じられている[6]。
戦後は古武道保存の流れの中で再評価され、には内に「先手研究部」が設けられた。なお、この組織は会員数が最大でも17名であったにもかかわらず、年報では毎年「全国的関心の高まり」が確認されていると記され、要出典の代表例として知られる。
技法[編集]
先手の奪い馬の基本は、騎手が馬に直接命じるのではなく、環境の変化を先回りして提示する点にある。たとえば、出発の直前に鞍上の袂を2回だけ軽く鳴らし、馬が「次に進む」と予測した瞬間に肢を出させる。これを「予告先駆」と呼ぶ[7]。
訓練は大きく3段階に分かれる。第一段階は「息奪い」で、騎手が3拍吸って2拍で吐く呼吸を繰り返し、馬に緊張の前兆を学習させる。第二段階は「眼差し返し」で、馬が相手騎手の視線の動きに先に反応するまで続ける。第三段階は「空拍進み」で、命令が出る1拍前に移動してしまうため、見物人にはほぼ瞬間移動に見える。
もっとも、達人とされたの記録によれば、真の奥義は「勝つこと」ではなく「相手に勝たれそうだと思わせた時点で勝っているように見せること」にあるという。これにより、先手の奪い馬は軍事技術であると同時に、かなり露骨な心理戦としても発展した。
社会的影響[編集]
先手の奪い馬は、武家社会において「反応の速さは徳である」という価値観を広めたとされる。江戸後期の町人文化では、これが転用され、商家の奉公人が帳簿をめくる前に主家の意図を読むことまで「奪い馬的である」と表現された[8]。
また、の芝居小屋では、役者が台詞を言う前に客席へ目線を送る「先取り所作」が流行し、これを模した踊りが年間に若年層の間で広がった。これにより、一部の批評家は「日本の身振り文化の隠れた基層である」と評価したが、別の資料では単に馬好きの侍が芝居に口を出しただけとも書かれている。
現代では、企業研修における先読み型交渉術の比喩として引用されることがあり、とくにの一部コンサルティング会社が「先奪型リーダーシップ」の語で再包装した例が確認されている。もっとも、古典との関連は薄く、保存会ではむしろ「名前だけ借りた新商売」として警戒されている。
批判と論争[編集]
先手の奪い馬をめぐっては、成立時期そのものに異説が多い。玄斎起源説に対し、の民俗資料を根拠に「もともとは神事の神馬操作であった」とする説や、の行列演出に由来するという説も提出されている[9]。ただし、いずれも断片史料が中心で、確証は乏しい。
また、訓練中に馬へ過度な条件づけを行うため、動物福祉の観点から問題視された時期がある。特にの保存会講習会では、発進の合図を覚えすぎた馬が、見学者が咳をしただけで走り出す事故が3件続き、以後は「観客の咳払い禁止」が内規に加えられた[10]。
一部の研究者は、この技法は本来の軍事的有効性よりも、藩内の上下関係を可視化する儀礼だったと指摘している。すなわち、馬が先に動くのではなく、命令が先に来たように見せることが目的だったというのである。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺玄斎『馬上先取録』江戸厩舎書林, 1708.
- ^ 島津栄之助『先手返し秘伝』薩摩馬政会, 1721.
- ^ 佐伯澄子『近世武家馬術の周縁』日本馬術史研究会, 1989, pp. 41-68.
- ^ H. Thornton, "Temporal Dominance in Edo Riding Schools," Journal of Comparative Equitation, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 115-139.
- ^ 会津藩御厩編『御厩日誌抄』会津史料刊行会, 1764.
- ^ 小柳信一『先取り文化の系譜—馬・芝居・商い—』青松社, 2011, pp. 203-227.
- ^ Margaret A. Thornton and K. Sato, "Preemptive Mounts and Social Timing," Asian Historical Review, Vol. 18, No. 2, 2015, pp. 77-101.
- ^ 横山修一『東亜馬政展覧会図録』横浜市文化局, 1907.
- ^ 中村良輔『鳴き鼻革の実用と虚構』農村文化叢書, 1978, pp. 9-34.
- ^ 『先手の奪い馬保存会年報 第17号』日本馬術保存連盟, 1966.
- ^ Philippe Armand, "The Horse That Arrived Before the Order," Revue d'Hippologie Imaginaire, Vol. 5, No. 1, 1999, pp. 1-22.
外部リンク
- 先手の奪い馬保存会
- 日本馬術史資料室
- 江戸厩舎デジタルアーカイブ
- 東亜馬政研究フォーラム
- 民間伝承と馬文化の会