八街八郎
| 氏名 | 八街 八郎 |
|---|---|
| ふりがな | やちまた はちろう |
| 生年月日 | 1898年4月12日 |
| 出生地 | 千葉県山武郡八街村字四辻 |
| 没年月日 | 1974年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗改良家、郷土記録者、講演家 |
| 活動期間 | 1921年 - 1972年 |
| 主な業績 | 分岐式生活思想の提唱、八街式家計分割簿の考案 |
| 受賞歴 | 日本郷土文化振興会奨励章 |
八街 八郎(やちまた はちろう、 - )は、の民俗改良家、郷土記録者である。分岐式生活思想の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
八街八郎は、末期から中期にかけてを中心に活動した民俗改良家である。彼は、農村の生活は単線的に進むのではなく、季節・家計・人間関係の3系統に分岐して循環すべきであるとする「分岐式生活思想」を唱え、地方講演会や青年団の講習で一定の支持を得た。
その名はの内陸部で育まれた実務的な知恵と、独特の比喩表現に由来するとされる。八街自身は著書『岐路の民生』において、人生を一本の道として扱う近代的発想を批判し、「道は曲がるほどに測量しやすい」と記している[2]。この句は後年、彼の思想を象徴する標語として引用された。
なお、彼の活動はやの正規政策とは無関係であったが、・・の一部で、講演後に家計簿の付け方や納屋の区画整理が実際に改められた例があるとされる。もっとも、これらの影響範囲については調査記録が少なく、[要出典]とされることもある。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
八街八郎は、山武郡八街村字四辻の農家に三男として生まれた。生家は落花生と麦を輪作する中規模農家で、戸数は同集落でも上位8戸に入るとされる。幼少期の八郎は、田畑の境界に置かれた木杭の位置を記憶することに長け、近隣では「杭を覚える子」と呼ばれた。
修了後、の小使いとして働き、帳簿の誤記を正すうちに文字と計数に興味を持ったという。後年の自筆年譜では、にへ出ての古書店で『農家日用改良録』を読み、生活技術を「思想」として捉える発想を得たと述べている。
青年期[編集]
、八郎はの聴講生となり、の仮設寄宿舎での渡会正平に師事したとされる。ただし、渡会の講義録には八郎の名が2回しか現れず、実際には雑務係として出入りしていた可能性が指摘されている。以後、彼は後の復興住宅地を歩き、台所配置・土間の幅・肥料置き場の動線を記録した。
には最初の小冊子『分岐する茶の間』を自費刊行し、の青年団、の町内会、の農事研究会などで巡回講演を行った。聴衆は平均37人から42人ほどであったが、八郎は「四十人前後こそ思想が熟す温度である」と語ったと伝えられる。
活動期[編集]
、八郎はの地方部門に招かれ、生活記録帳の標準化に関わった。ここで彼は、収支を「入」「留」「返」の三欄に分ける八街式家計分割簿を考案し、の農家約1,240戸で試験導入されたという。導入6か月後の報告では、肥料の共同購入率が18.6%上昇し、味噌樽の配置変更によって冬季の室内移動距離が平均2.3歩短縮されたとされる[3]。
また、にはの外部協力員として、家事の「分岐点」を図式化する講習を実施した。彼の図は、茶碗洗い・薪割り・子守りを一本の線上に並べず、季節ごとに枝分かれさせるもので、当時の簡素化運動と奇妙に相性が良かった。なお、同委員会の内部文書には「図は理解容易、ただし枝の数が多すぎて黒板を埋める」と記されている。
晩年と死去[編集]
は内の公民館を拠点に、農村復興と家屋再配置の講演を続けた。1950年代には講演の合間に「縁側の幅は思想の広さに比例する」といった標語を掲げ、地方紙のコラムでも半ば名物扱いとなった。もっとも、この時期の講演原稿は秘書のが整えたとされ、本人の談話と一致しない箇所も多い。
11月3日、八郎はの病院でで死去した。死因は老衰とされるが、最期まで家計分割簿の改訂版に赤入れをしていたという逸話が残る。葬儀には近隣の農家、元青年団員、そして講演会で使われた黒板の保管先をめぐる関係者が参列し、弔辞では「道を増やした男」と評された。
人物[編集]
八郎は温厚であったが、数字に対して異様に厳密な人物であったとされる。会話中でも「だいたい三分の一」は認めず、必ず「八分の二、残りは曖昧」と言い換えたため、周囲からは「端数の八郎」とも呼ばれた。
また、服装は地味であったが、講演の際だけは右袖に小さな方眼紙を縫い付けていたという。これは、どの会場でも即席の見取り図を書けるようにするためで、の講演では畳14枚分の控室をわずか9秒で描いたという記録がある。ただし、この記録は本人の弟子による回想であり、正確性には疑問がある。
逸話として有名なのは、にで暴風雨に遭った際、避難所の机を勝手に並べ替えて「談話」「炊事」「眠り」の3区画を作り、翌朝には住民の半数が元に戻せなくなった事件である。本人は「分かれた場所は覚えやすい」と弁明したが、町役場からは軽い注意を受けた。
業績・作品[編集]
八郎の主著としては、『岐路の民生』、『分岐する茶の間』、『八街式家計分割簿解説』の3点が知られる。いずれも小冊子から始まり、地方講演会の場で逐次増補されたため、版によって章立てが微妙に異なる。特に『岐路の民生』第3版には、地図帳の余白へ「味噌は北、鍬は南」と書き込まれた挿図があり、愛好家の間で珍重されている。
彼の思想の中心は、生活を「直線」「円環」「分岐」の3類型に分け、農家はその日の天候と家族構成に応じて動線を組み替えるべきだとする点にあった。これにより、台所の混雑が減り、家族間の口論も減少するとされた。なお、にの20戸を対象に行われた観察では、朝食準備時間が平均11分短縮された一方、子どもが枝分かれ図を遊戯として乱用したため、食器棚の前で迷子になる例が増えたという。
また、八郎は郷土誌の執筆にも携わり、において「納屋の影の長さと家格意識の関係」など、やや独自性の強い論考を寄稿した。これらは後年、民俗学と生活改善運動の境界事例として扱われることがあるが、学術的評価は一様ではない。
後世の評価[編集]
八郎の評価は、実務家と思想家の中間にある人物として分かれている。地方自治体の生活改善史では先駆的記録者とみなされる一方、民俗学の側では現場観察が細かすぎて結論が先走るとして慎重である。
以降、内の公民館資料室で講演録の再整理が進み、八郎の図表が「生活デザイン史」の文脈で再評価された。また、にはの研究発表で、彼の分岐図が現代のワークフロー図と驚くほど似ていることが指摘され、若手研究者の間で小さな流行となった。
一方で、彼の影響を過大視する見方もあり、八郎が提唱したとされる「鶏小屋の回転配置」が実際には別人の案ではないかとの指摘もある。もっとも、本人の講演メモには詳細な回転角度まで記されており、[要出典]ながらファンの間では事実として流通している。
系譜・家族[編集]
八郎の父は八街甚右衛門、母は八街クメと伝えられる。父は落花生の選別に厳しく、母は台所の導線に独自の工夫を加える人物であったという。八郎は6人きょうだいの3番目で、長兄はへ渡り、次姉はで旅館を営んだ。
妻は八街トメで、に結婚した。トメは講演旅行に同伴し、聴衆名簿の筆耕や茶菓子の手配を担ったとされる。子は長男・八街進、長女・八街ミツの2人が知られ、進はで道路計画に関わったため、父の「分岐思想」が行政にまで及んだと誇張されることがある。
なお、八街家は明治期に近隣の「四辻講」へ関与した旧家系とされるが、戸籍上の連続性には一部不明点がある。八郎自身も家系図を何度か描き直しており、最終版では先祖が七方向へ分かれている珍しい構成になっていた。
脚注[編集]
[1] 八街八郎の生没年と活動名義については、『岐路の民生』付録年譜に基づく。
[2] 八郎の標語は、初版では「道は曲がるほど測りやすい」と記されている。
[3] 茨城県での家計分割簿導入数は、地方講習報告書『生活改善通信』第14号による。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡会正平『岐路の民生』東都民生社, 1934.
- ^ 八街八郎『分岐する茶の間』山武郷土出版, 1927.
- ^ 北川晴夫『関東農村における生活改善の変遷』日本生活学会誌 Vol.12, 第3号, pp. 41-68, 1962.
- ^ 佐伯みどり『八街式家計分割簿の実用性』地方公民館研究所, 1959.
- ^ Margaret L. Thornton,