原子力空母村
| 名称 | 原子力空母村 |
|---|---|
| 別名 | 原空村、A.C.V.計画 |
| 発祥時期 | 1968年頃 |
| 主導機関 | 海上防衛庁沿岸統合局 |
| 主な所在地 | 神奈川県三浦半島沿岸部 |
| 機能 | 補給、居住、整備、娯楽、防災 |
| 住民数 | 約4,800人(1987年推計) |
| 象徴施設 | 浮体式共同浴場「第七湯」 |
| 廃止 | 1994年ごろ |
原子力空母村(げんしりょくくうぼむら、英: Atomic Carrier Village)は、を搭載したの補給・居住・訓練機能を、沿岸集落の農漁業と一体化させたとされるの複合型軍港集落である。主に後期から初期にかけて、の一部で実証が進められたとされる[1]。
概要[編集]
原子力空母村は、原子力推進のが港湾に長期停泊する際、その乗員・整備員・家族を受け入れるために整備されたとされる沿岸集落の制度である。村全体が半ば艦内施設の延長として設計され、商店街、診療所、精米所、映画館が指定の動線に沿って配置されたという[2]。
この制度は、艦艇の滞在が長期化するにつれて「港に艦が来るのではなく、村ごと艦の生活様式に寄り添うべきである」という発想から生まれたとされる。住民は軍属、民間人、臨時工、漁業協同組合員が混在し、戸籍上は通常の村でありながら、夕方の放送が艦内時報に連動するなど、極めて特異な生活圏を形成していた[3]。
歴史[編集]
構想の成立[編集]
起源は、近郊で行われた「沿岸防衛と生活圏の一体化」に関する非公開研究会に求められる。中心人物とされるのは、工学部出身の都市計画官僚・で、彼は艦艇の停泊費よりも地元の風呂屋の稼働率に注目したことで知られる[4]。
渡辺は、原子炉の冷却系が生む余熱を地域暖房に転用し、さらに艦の食糧補給網を村の農協に組み込むことで、軍事施設を「地産地消化」する構想を提案した。これが後にA.C.V.計画と呼ばれるもので、当初は「空母の村」ではなく「村の空母化」として文書化されていたという。
試験運用[編集]
には、神奈川県の一角に試験地区が指定され、約120戸の漁家と34軒の商店が移転補償の対象となった。補償交渉は難航したが、最終的には艦載ヘリの整備時に出る温風を使った乾物乾燥所の設置が決め手になったとされる[5]。
同年夏、村内に設けられた共同浴場「第七湯」が稼働し、湯温が艦の補機運転に左右される現象が住民の間で「今日は航海日和ではなく入浴日和だ」と評判になった。なお、当時の記録には、発電出力の測定値が「潮位と混線していた可能性」があると注記されている。
最盛期と衰退[編集]
に入ると、原子力空母村は観光地としても知られるようになり、週末にはからの見学者が年間約18万人に達したとされる。村の名物は、艦載食を模した「甲板カレー」と、潮風で熟成させた「核ミソ」であったが、後者は衛生上の理由でから数回の指導を受けたという[6]。
しかし、冷戦終結後は原子炉管理コストの上昇と、住民の若年層流出が重なり、ごろに制度としての運用は停止された。跡地は「沿岸複合防災公園」として再整備されたが、いまも地元では、霧の日に限って艦内スピーカーの試験音が聞こえるという証言がある。
制度と生活[編集]
原子力空母村の特徴は、軍事施設でありながら生活共同体として設計された点にある。村の中心には「艦港前商店組合」があり、八百屋、理髪店、修理工場が同一建屋に並び、営業時間はの整備時刻表に従って調整された。
住民登録は通常ので行われたが、転入届の備考欄には「甲板作業可否」「放射線巡回への参加希望」などの独自項目が印字されていたとされる。防災訓練は避難ではなく「艦と村の同時錨泊訓練」と呼ばれ、毎月第2水曜にはサイレンの代わりに艦橋の汽笛が村内に鳴り響いた。
また、教育制度にも独特の工夫があった。小学校では算数の応用問題として「原子炉の余熱で干物を何箱乾かせるか」が出題され、社会科ではではなく「日村艦協定」を読み合わせる授業があったという。これは後年、教育委員会が「教材としては面白いが、生活実感が強すぎる」として削除を検討した。
組織と人物[編集]
推進派[編集]
推進派の中心には、前述の渡辺精一郎のほか、海上防衛庁の技術参事官・、三浦漁協組合長・がいた。佐伯は、艦の整備員が村の理髪店を利用することで「民間サービスの平準化が進む」と主張し、小杉は、艦への鮮魚納入が価格安定に寄与すると見込んだ[7]。
とりわけ小杉は、村に導入された自家用の海水淡水化装置を「魚より先に人間を元気にする機械」と呼び、漁協の総会で拍手を浴びたとされる。もっとも、記録上は彼女の発言録が3回に1回ほど別人のものと入れ替わっており、議事録の信頼性には疑義がある。
反対派[編集]
一方で、反対運動を主導したのは周辺自治体の住民組織「静かな入江を守る会」であった。代表のは、原子力空母村が「村の生活を維持するために、村が艦の生活に従属する逆転現象」を生むと批判した。
特に問題視されたのは、深夜の補機点検時に学校の体育館まで微振動が伝わる現象で、保護者からは「子どもが揺れに合わせて寝返りを打つ」との苦情が寄せられた。この件は当時の県議会で4回取り上げられたが、いずれも「技術的には正常、感情的には異常」と整理されている。
社会的影響[編集]
原子力空母村は、軍港と生活圏の境界を曖昧にした事例として、都市計画史ではしばしば言及される。とくに商業施設の稼働率が艦の入港予定と連動することで、地元経済が季節変動ではなく「艦歴」に従うようになった点は、後の港湾再開発論に影響を与えたとされる[8]。
また、村の存在は文化面にも波及し、1980年代後半には映画『潮騒の甲板』や歌謡曲『停泊する町』の舞台として消費された。なお、これらの作品の多くは現地取材を行っていないとみられ、港の写真に山の稜線を合成したポスターが出回ったことが後年判明している。
社会学者のは、原子力空母村を「安全保障と共同体倫理の奇妙な折衷」と評し、村では危機管理が日常会話に溶け込みすぎて、住民が天気予報より先に艦の整備予定を確認するようになったと述べている。
批判と論争[編集]
最大の論争は、原子炉由来の余熱利用が本当に村の基盤を支えたのかという点である。後年の調査では、実際には大部分の暖房が灯油ボイラーで賄われていた可能性がある一方、村史編纂委員会は「精神的余熱」という独自概念を導入して反論した[9]。
また、1986年の港湾監査で「艦内食堂の残飯が村の養鶏場に流用されていた」とされる報告が公表され、衛生問題として批判が集中した。ただし、当時の養鶏場主は「鶏が最もよく卵を産んだ年であった」と証言しており、結果的に処分は軽微であった。
さらに、制度名に「村」とあるにもかかわらず、実際には港務局、協同組合、軍属住宅管理組合の三者が意思決定を分担していたことから、行政学上は「村の形をした連絡会議」と揶揄されることもある。
現在[編集]
跡地の一部は現在、海辺の防災学習施設と公園として整備されているが、旧共同浴場跡の排気塔だけは保存対象から外れ、地元の若者が集合写真を撮る定番の背景になっている。年に一度の「原空村メモリアル潮祭」では、住民有志が艦内放送風のアナウンスを流し、来訪者に塩飴と謎の艦型せんべいを配る習わしがある。
行政文書上は完全に廃止されたことになっているものの、沿岸の古老の間では「村はなくなったのではなく、潮位の下に移った」と語られる。もっとも、これを裏付ける実測資料は少なく、現地案内板の説明文にも「詳細は不明」とだけ記されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『沿岸複合生活圏の理論』海防出版, 1975.
- ^ 佐伯直哉「原子炉余熱の地域転用に関する試論」『港湾技術研究』Vol. 12, No. 3, pp. 44-71, 1976.
- ^ 小杉フミ「漁業協同組合と艦艇補給の接点」『三浦地域経済史紀要』第8巻第2号, pp. 15-39, 1978.
- ^ Margaret L. Thornton, The Harbor as Household: Nuclear Port Communities in Postwar Japan, Maritime Studies Press, 1982.
- ^ 樋口玲子『安全保障と日常生活の接合点』東洋政策研究所, 1989.
- ^ 松浦義信「静かな入江を守る会の活動記録」『市民運動年報』第5号, pp. 88-102, 1984.
- ^ 海上防衛庁沿岸統合局『A.C.V.計画総合報告書』内部資料, 1974.
- ^ 古川道雄「第七湯の湯温変動と艦橋運用の相関」『生活技術学会誌』Vol. 21, No. 1, pp. 3-19, 1981.
- ^ Jean-Pierre Morin, Les villages du porte-avions: une géographie impossible, Presses d'Azuchi, 1991.
- ^ 村史編纂委員会『原子力空母村史』原空村文化協会, 1997.
- ^ 鈴木久美子「核ミソ事件と衛生行政」『地方公衆衛生レビュー』第14巻第4号, pp. 201-220, 1987.
外部リンク
- 原空村アーカイブス
- 三浦沿岸生活史センター
- 海上防衛庁旧資料室
- 第七湯保存会
- 原子力空母村観光案内所