原田総一郎
| 生誕 | 1898年3月14日 |
|---|---|
| 死没 | 1974年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 出身地 | 愛知県碧海郡 |
| 職業 | 測量技師、都市計画顧問、随筆家 |
| 著名な業績 | 反射式街路整序理論、角度倫理学、三重折り返し標識の考案 |
| 所属 | 内務省臨時地形整理委員会、東京市道路改良調査班 |
| 主著 | 『街路はなぜ曲がるのか』 |
| 影響 | 戦後の郊外造成計画、標識設計、夜間歩行教育 |
原田総一郎(はらだ そういちろう、 - )は、の、、およびの提唱者である。特に初期に提唱された「反射式街路整序理論」の中心人物として知られる[1]。
概要[編集]
原田総一郎は、末から中期にかけて活動した測量技師であり、都市の道路網における「曲がり角の意味」を再定義した人物である。彼は単なる地形測定ではなく、通行者の心理、店先の視線、雨天時の水流まで含めて街路を設計すべきだと主張したとされる。
原田の名が広く知られるようになったのは、にで行われた「三方位同時実地観測」において、曲がり角の数を減らすよりも“角の質”を整えるほうが交通事故を2割抑えたと報告したためである。ただし、この数値は後年の研究者から「やや出来すぎている」とも指摘されている[2]。
生涯[編集]
碧海郡での少年期[編集]
の農村で育った原田は、幼少期から水路と畦道の交差点を観察する癖があり、11歳の頃には村内の曲がり角を竹竿で測って回っていたという。地元の尋常小学校では算術よりも「分度器の扱い」に長け、担任教師が帳面に「方位に対して異常な執着あり」と記した記録が残るとされる。
一説には、の秋祭りで山車が電信柱に接触しそうになった事故を見たことが、彼の進路を決定づけたという。原田はこの出来事を「角は敵ではなく、調停の対象である」と後年語ったとされるが、出典は確認されていない。
内務省時代[編集]
、原田はの臨時地形整理委員会に採用された。最初の任務はの旧市街での道路幅員調査であったが、彼は石畳の傾斜だけでなく、店構えの庇の長さや犬の歩行軌跡まで記録し、同僚から「測量というより性格診断である」と評された。
この時期に原田は、道路は線ではなく「反射の連鎖」であるという考えに至ったとされる。自転車のベル、看板の光、濡れた路面の月光が互いに街路の認識を作るという発想で、のちのへとつながった。なお、彼がで実施した試験では、交差点に置いた鏡の向きだけで歩行者の流れが17%変化したとの記録がある。
戦後の顧問活動[編集]
以後、原田はと周辺都市の区画整理に助言を行った。特にの新興住宅地で提案した「三重折り返し標識」は、遠方・近方・夜間の三段階で見え方が異なるという発想に基づくもので、当時の若手技術者からは革新的と受け止められた。
一方で、原田の設計は過剰に理屈っぽく、標識の角度を0.7度単位で指定したため、施工現場では「原田メモを読むだけで一日が終わる」と不評でもあった。だが、彼の理論を採用した区画では、商店街の立ち止まり率が上がり、結果として売上が改善したとする商工会議所の内部資料がある[3]。
反射式街路整序理論[編集]
反射式街路整序理論とは、街路の機能を交通量のみで評価せず、光・音・視線・匂いの反射関係によって把握しようとする原田の理論である。彼によれば、良い街路とは「最短距離を与える道」ではなく、「迷っても戻れる道」であり、これを彼は「可逆性の美」と呼んだ。
この理論はにの小委員会で紹介され、当初は異端視されたが、雨の日の横断歩道における視認性評価で一定の成果を示したため、半ば実務理論として定着した。もっとも、原田自身は実際の交通政策よりも、街路の角で人が立ち止まる瞬間に強い関心を示していたとされる。
後年の研究では、原田理論の図表の一部がの製図室で清書された際に、直角がすべて「少しだけ鈍角」に修正されていたことが判明している。これは「都市は人間より先に疲れてはならない」という原田の口癖を反映したものと解釈されることが多い[4]。
角度倫理学[編集]
角度倫理学は、原田が晩年に提唱した、角度に道徳的意味を見いだす独自の思想である。鋭角は衝突を招きやすく、鈍角は回避を生むため、都市設計においては倫理的に「他者を避けられる余白」を残すべきだとされた。
原田は講演で「街の角は人の性格を決める」と述べたと伝えられ、これがとの合同研究会に引用された。もっとも、会議録には原田の発言が「角の多い人生は、たいてい役所で摩耗する」と書き換えられており、彼の思想が官僚的な冗談と混線していたことがうかがえる。
この学説は教育現場にも波及し、にはの一部中学校で「通学路の角度観察」が課外授業に採用された。生徒が三角定規を持って通学する光景は当時の地方紙で大きく取り上げられたが、実際には定規を剣のように振り回す児童が続出したため、短期間で中止された。
評価と影響[編集]
原田総一郎の評価は、実務家と思想家の間で大きく分かれている。都市計画の分野では、彼の提案が戦後復興期の細街路整理に一定の合理性を与えたとされる一方、学術的には計測条件が曖昧で、再現実験の一部が成立しなかったことが知られている[5]。
しかし彼の最大の影響は、道路を「通るための空間」ではなく「暮らしの表情」として捉え直した点にある。これにより、看板の配置、歩道の傾斜、街灯の高さといった細部が都市政策の議題に入るようになったとされる。
また、原田の弟子筋には後にやで活躍した技術者がおり、彼らは会議で方位磁針を机上に置く習慣を受け継いだという。もっとも、それは原田の教えというより、彼の講義が長すぎて皆が眠気覚ましに道具をいじっていた結果ともいわれている。
批判と論争[編集]
原田に対しては、晩年から「数字を詩のように扱う」との批判があった。特にの講演録『道路における涙点の配置』では、涙点という用語が何を指すのか最後まで説明されず、建設省の担当者が困惑した記録が残る。
また、彼がで提案した「夜間交差点の静音化」は、実際には交通量を減らすのではなく、周辺の商店にラジオを流させて車の存在感を相対化するという案であり、これには商店主の間で強い反発があった。原田は「静けさは行政が作るのではなく、納得の総量である」と反論したとされるが、意味はかなり不明瞭である。
なお、原田の筆跡を分析した民間研究会は、彼の設計図の端にしばしば「要再検討・だが美しい」と書かれていることを発見した。これをもって、彼は合理主義者であると同時に、官僚制に対する静かな反逆者でもあったとする見解が有力である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯俊彦『反射式街路整序理論の成立』都市設計研究所, 1968年.
- ^ Margaret L. Fenwick, "Angular Ethics and Postwar Japanese Roads", Journal of Urban Morphology, Vol. 12, No. 3, 1971, pp. 44-68.
- ^ 原田総一郎『街路はなぜ曲がるのか』東都出版, 1954年.
- ^ 井ノ上清一『都市の角と人間の歩幅』建築評論社, 1961年.
- ^ K. Nakamoto, "Mirror-Based Circulation Models in Tokyo City Planning", Pacific Planning Review, Vol. 8, No. 2, 1955, pp. 101-129.
- ^ 『日本都市史資料 第14巻』日本都市史研究会, 1982年.
- ^ 藤堂紘一『歩道の倫理学入門』新潮社, 1972年.
- ^ Harold G. Whitman, "A Note on Harada's Three-Fold Signage", Transactions of the Society for Civic Lighting, Vol. 5, No. 1, 1960, pp. 12-19.
- ^ 『道路における涙点の配置』建設省講演録集 第7号, 1963年.
- ^ 村瀬恭子『測量技師の思想史』みすず書房, 1991年.
外部リンク
- 都市角度学研究会
- 東京街路アーカイブ
- 原田総一郎記念資料室
- 戦後区画整理デジタル年表
- 日本反射式街路協会