友達集産主義
| 成立領域 | 北イタリアの商人都市と中央アジアの交易拠点 |
|---|---|
| 主要な担い手 | ギルド書記、夜会の世話役、巡回帳簿師 |
| 成立の契機 | 不作と疫病の連鎖による信用不足への対処 |
| 典型的な制度形態 | 友達持分台帳と「関係出資」 |
| 流行時期(仮説) | 14世紀末〜16世紀初頭 |
| 伝播媒体 | 詩の朗唱、商人の手帳、街角の判じ絵 |
| 批判の焦点 | 友達の範囲が拡大しすぎ、金銭と区別できなくなる点 |
| 現代に残る要素 | 寄付の名目化、コミュニティ通貨の比喩 |
友達集産主義(ともだちしゅうさんしゅぎ)は、で一定の時期に流行したとされる「友達を資産化する」理念である[1]。贈与・貸借・相互扶助の慣行を、制度的な言葉に翻訳する運動として語られてきたが、その起源と実在性には揺れがある[2]。
概要[編集]
友達集産主義とは、個人の友好関係を「集産(共同の蓄積)」の単位に見立て、貧窮や投資不足に対して“関係の資本化”を行う思想として説明される概念である[1]。
この思想では、誰かと仲が良いという事実が、単なる感情ではなく、いざというときに分配される権利の源泉として扱われるとされた。たとえば、井戸の修繕費が不足した夜、友達の数が多い家ほど修繕の優先順位を得る、といった運用が想定されたとされる[3]。
ただし、友達集産主義が「実在の制度」であったのか、「後世が寄せ集めて名付けた物語」なのかについては、当時の一次史料の系統が断片的であるため、研究上は慎重に扱う必要があるとの指摘がある[2]。
背景[編集]
友達集産主義に端を発する問題意識は、商業信用の揺らぎにあったとする説が有力である。14世紀末、から内陸へ伸びる塩貿易の路線では、同名の家が多く、債権が追跡しづらいことが問題化したとされる[4]。
このとき商人の間では、契約書だけでなく「紹介者(友達)」の署名が信用を補強すると考えられ、次第に紹介者が“資産”として扱われるようになったとされる。なお、この紹介者のことを「持分友」と呼ぶ例が、の帳簿師組合の写本に見えるとする報告がある[5]。
さらに、ペストの波が断続的に訪れた地域では、生活の糧を分け合う“関係の保険”が重要視された。ここで友達集産主義の言葉が整備されたという伝承が、北部の巡回朗唱者によって記録されたとされる。ただし、当該記録は後世の再編集が強い可能性があるとされ、蜂起のような騒動ではなく、むしろ夜会の帳簿更新として広まったと推定されている[6]。
成立の経緯[編集]
「友達持分台帳」誕生[編集]
友達集産主義は、の紙商“モデスト家”の帳簿改革から生まれたとする説がある[7]。同家は羊皮紙ではなく、再利用可能な紙を採用し、友人・取引先の関係を縦横に整理した台帳様式を作ったとされる。とくに、台帳の各欄には「友達の曜日」が書かれており、日曜に会う関係は“強い持分”、水曜に会う関係は“薄い持分”として区分されたと伝えられる[8]。
この方式は、名簿の精度を上げるための技術的工夫であったが、いつしか“強い持分”の取り扱いが実利と直結した。例えば、冬の薪が不足した際、強い持分を持つ家が薪配給の前列に並び、薄い持分の家は配給列の最後尾に回る、といった運用が語られた[9]。ここで倫理が制度へ滑り落ちたとして、後世の批評家はこの転換を「友情の利息化」と呼んだ[10]。
関係出資の儀礼化[編集]
次の段階として、友達集産主義は「関係出資」を儀礼として固定化したとされる。儀礼では、参加者が自分の友達を“持参”するのではなく、友達の名前ではなく「会う時間帯」を提供するとされる点が特徴であったとされる[11]。
の交易宿で行われたと伝わる儀礼では、参加者は「第3呼気(さんこき)」と呼ばれる合図のタイミングで鐘を鳴らし、合図をした相手のいる家に優先権が与えられる仕組みだったという。もっとも、この第3呼気が実際に何を意味したかは不明であり、医学的な比喩説と、単なる合図の民俗説が並立している[12]。
なお、友達集産主義の流行期には、台帳の記入方法が過度に複雑化し、税の代わりに“友達の行数”を申告させる地方も出たとされる。ただし、これが史実かどうかは確認が難しく、「やたら細かい数字が踊る伝承」の類型として扱われることが多い[13]。たとえば申告行数は、最大でも「27行」を超えない掟があったと報告されているが、文書間で数字が揺れるとする指摘がある[13]。
影響[編集]
友達集産主義は、信用不足を“関係”で補う方向に社会の注意を向けさせたため、取引の速度を上げたとされる。特に、契約の履行が滞った場合でも、友達持分台帳が参照されることで、仲裁に必要な人物が迅速に特定される仕組みだったと説明される[4]。
一方で、社会の副作用も指摘されている。友達が減ると生活の基盤が揺らぎ、友達が増えると税や配給が増える“見返り”が生まれた結果、友情が“採用”の対象になるという批判が出たとされる。たとえばの商人書簡には、「友が友を呼ぶのではなく、友が持分を呼ぶ」との苛立ちが記されていたとされる[14]。
さらに、制度が柔軟すぎたために、不利益を避けたい人々が“偽の近さ”を演出するようになったともいう。そこで、台帳には「嘘をついた回数」ではなく「笑顔の整合率」を記す欄が追加されたという逸話がある[15]。笑顔の整合率という指標自体が滑稽に聞こえるが、当時の判じ絵が多用されたことから、顔面の記号化が現実に行われていた可能性も示唆されている[15]。
研究史・評価[編集]
友達集産主義は、近代の地方史研究で“制度論”として取り上げられたが、20世紀中盤には「共同体の自己物語化」という文化史的解釈が主流になったとされる[2]。
この転換を促したのは、出身の研究者マルコ・エルウェイン(Marc Elwayne)が示した「台帳は信用の道具であると同時に、物語の生成装置である」という見方である。エルウェインは、同じ台帳様式がやにも転用された形跡を挙げ、友達集産主義が“地理的連鎖”を伴う流行語として発達した可能性を論じた[16]。
ただし、評価は割れている。賛成側は、友達集産主義が貧困救済を制度化した点を強調する。一方、反対側は、友達の定義が恣意的であるため、差別的な運用が容易になったとする。特に、配給の前列に入れる家が固定化され、結果として共同体内部の固定化が進んだのではないかという疑義が呈されている[1]。
批判と論争[編集]
批判の中心は、友情が計量されることで、感情の価値が“換算”されてしまう点にあったとされる。台帳に「友達の曜日」や「第3呼気」などの区分が登場するほど、評価が儀礼化し、当事者の自由が狭まったのではないか、という議論が残っている[8]。
また、当時の批評家は「関係出資は循環するが、実物の供給は循環しない」と述べたとされる。薪や穀物が不足している局面で、関係の格付けだけが先に進んだなら、結局は分配の不満が増えるという論点である[17]。
この論争の中心にあるのが、友達集産主義の語を“後世の発明”とみなす説である。つまり、実際にはギルドの帳簿運用の一部が、のちに思想名へ昇格されたという見方である。ただし、この説を支持する史料は、なぜか必ず「27行」の数字が絡むという特徴があり、史学界では「都合のよい数字伝承」として軽視されがちだとも指摘されている[13]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ M. Elwayne『Friend-Accountancy in Northern Trade Cities』Cambridge University Press, 1962.
- ^ ジャン=リュック・バルザック『取引の情緒化と帳簿の民俗学』パリ講談社, 1978.
- ^ Amina Rashid『The Ledger of Introductions: A Study of Relationship Capital』Oxford Historical Studies, 1984.
- ^ 渡辺精一郎『中世商人の台帳文化(第3巻第2号)』史料館叢書, 1991.
- ^ S. K. Moller『On the Weekday Shares of Mutual Aid』Journal of Ledger Folklore, Vol.12 No.4, 2003.
- ^ Fatima al-Harith『第3呼気の意味:交易宿における合図制度』Middle Steps Press, 2007.
- ^ Élodie Karsen『European Guilds and the Myth of “Collective Friends”』Routledge, 2015.
- ^ 佐伯明太『友の評価指標と笑顔の整合率』筑波書房, 2020.
- ^ K. Ito『申告行数27行の系譜(Vol.1)』Zeitschrift für Bürokratische Erzählungen, 第6巻第1号, 2011.
- ^ Ruthven T. Pike『Friendship Interest: A Comparative Fictional History』(一部内容が他文献と一致しない)University of Nowhere Press, 1999.
外部リンク
- 台帳民俗資料館
- 関係出資アーカイブ
- 友情計量研究会
- 街角判じ絵データベース
- 友達持分台帳の写本検索