味噌道楽
| 名称 | 味噌道楽 |
|---|---|
| 読み | みそどうらく |
| 英語名 | Miso Douraku |
| 起源 | 1898年ごろの東京市下谷区とする説が有力 |
| 主領域 | 味噌の熟成鑑賞、調合、保存器具の蒐集 |
| 中心人物 | 久世惣右衛門、黒川ソノ、松平芳庵 |
| 流行期 | 1912年 - 1934年 |
| 衰退期 | 1941年 - 1956年 |
| 関連施設 | 帝都味噌趣味館、下谷醸造倶楽部 |
味噌道楽(みそどうらく、英: Miso Douraku)は、の熟成工程を的に拡張し、鑑賞・収集・調合・試食を一体化させた日本の嗜好文化である。主に後期から初期にかけて都市部の料理研究会を中心に広まったとされる[1]。
概要[編集]
味噌道楽は、単なる調味料としてのを超え、樽の木目、麹の香り、表面に生じる泡の模様までを鑑賞対象とした一種の趣味体系である。愛好家はこれを「食べる前の味噌を味わう学問」と呼び、試食よりも観察に多くの時間を費やしたとされる[2]。
この文化はの下町で始まり、やがてや、さらにの貿易商層にまで波及した。特に期には、家庭用味噌樽の側面に銘板を付け、産地・麹歩合・発酵日数を記録する「味噌札」の習慣が広まったとされるが、記録の整合性については異論もある[3]。
歴史[編集]
萌芽期[編集]
起源については諸説あるが、最も有名なのは、東京市下谷区の料理問屋「久世商店」の二階座敷で、主家の番頭であった久世惣右衛門が偶然三種の味噌を並べて置き、客が香りの違いを言い当てたことに始まるという説である。これが評判を呼び、翌年には「味噌会」と称する月例集会が周辺で開かれたとされる。
初期の参加者は料理人、薬種商、呉服商など雑多であったが、なかでもの乾物商・黒川ソノは、味噌の表面を月齢に見立てて記録する独自の鑑賞法を提唱した。彼女のノートには「八月十七日、白波のごとき気泡あり、味はまだ内気」といった記述が残るとされる[4]。
制度化と流行[編集]
になると、味噌道楽は単なる趣味から半ば規格化された教養へと変質した。帝都味噌趣味館の初代館長・松平芳庵は、発酵期間を三十日、六十日、九十日、百八十日の四段階に分類する「四季熟成説」を唱え、これが後の標準分類の原型になったとされる。
また、衛生局が発したとされる回状により、都市部の共同井戸で仕込まれる味噌には「湿度札」の添付が推奨されたという。実際には行政文書の所在が確認されていないが、当時の雑誌『醸造と趣味』には、札を見せ合って品評する市民の姿がたびたび描かれている[5]。
衰退と残響[編集]
戦時期に入ると、原料統制と保存容器の不足により味噌道楽は急速に縮小した。だが、の沿岸部では、樽の代わりに空き軍需缶を再利用した「缶味噌鑑賞」が密かに行われたという証言がある。缶の内壁に付く結晶を観察する行為が、当時の若年層に妙な人気を持ったとされる。
戦後は家庭料理の実用性が優先され、道楽としての側面はほぼ消滅した。ただしにで開かれた「復古味噌博」において、来場者数が2日で8,400人を記録し、最後に樽を叩いて音色を比べる余興が事故寸前まで盛り上がったという[要出典]。
特徴[編集]
味噌道楽の特徴は、味そのものよりも、発酵に付随する視覚・嗅覚・触覚の鑑賞を重視した点にある。特に樽表面の「白華」を雪景色に見立てる美意識は、茶道や盆栽の影響を受けたものとされる。
また、愛好家は味噌を木樽から掬う際の音を重視し、竹杓子で三回、左回りにかき混ぜる作法を「三転礼」と呼んだ。もっとも、この作法は地域差が大きく、では右回りが正統とされた一方、では混ぜずに樽をただ見つめる流派が強かった。
研究会では、味噌の熟成度を判定するために「香り点」「艶点」「粘度点」を各10点満点で採点し、合計27点を超えると“上出来”、31点以上で“祝い味噌”とされた。採点表の原本はに保管されていたとされるが、昭和30年代の火災で焼失したとされている。
主要人物[編集]
久世惣右衛門[編集]
久世惣右衛門は、味噌道楽の創始者として扱われることが多い人物である。生年はとされるが、晩年に自らの経歴を「味噌に合わせて少し盛った」と語った記録があり、人物像には誇張が多い。
彼は味噌を「沈黙の時間が生む唯一の饒舌」と呼び、客に対して一椀の味噌汁ではなく、三種の樽を並べて香りを比べさせたという。なお、彼が残したとされる随筆『樽のまなざし』は現在まで1冊も現物が確認されていない[6]。
黒川ソノ[編集]
黒川ソノは、日本橋の乾物商であり、女性愛好家の代表格とされる。彼女は味噌の表面に現れる泡を季節の移ろいとして記録し、百枚を超える「泡図」を作成したとされる。
ソノが主宰した茶話会では、参加者が味噌を携えて来場し、互いの樽を「若い」「筋がよい」「少し反抗期」などと評したという。彼女の流儀は後に名古屋の女学校へ伝わり、家庭科教育に微妙な影響を与えたとされる。
松平芳庵[編集]
松平芳庵は、味噌道楽を学術化した功労者として知られる。もとはの外部講師だったとされるが、専門は微生物学ではなく和歌であり、発酵を「時間の短歌」と定義したことで注目された。
彼は樽の熟成度を判定するために温度計ではなく、襖越しの声の反響を用いる「響度測定法」を提案した。これは当然ながら科学的ではないが、一部の料亭では1940年代まで真面目に採用されていたという。
社会的影響[編集]
味噌道楽は、都市生活者の間に「保存食を鑑賞する」という逆転した消費観を生み、台所を半ば展示空間として扱う風潮を広めた。これにより、味噌樽の意匠化、蓋の蒔絵、麹室の装飾などが一時的に流行した。
また、後の復興期には、味噌道楽が「共同体の再生を樽で表現する文化」として語られ、避難所での炊き出しと結びついた。ある記録では、避難所内で最も早く整備されたのが寝床ではなく味噌棚だったとされるが、これは明らかに誇張である。
一方で、過度に芸術化された味噌は「庶民の食卓から離れた」と批判され、の生活欄でも「香りの序列化は家庭の負担を増やす」とする投書が掲載されたという。もっとも、同時期の読者投稿には「我が家の八丁味噌は昨日から不機嫌である」といった不可解な文面も見られる[7]。
批判と論争[編集]
味噌道楽に対する批判として最も多いのは、味噌を食料ではなく鑑賞対象に変えてしまったことである。特にの「樽番号改竄事件」では、ある愛好家が古い味噌に新しい銘を貼り替えて高値で譲渡していたことが発覚し、道楽界は大きく揺れた。
また、地方の味噌蔵からは「都市の趣味人が発酵の苦労を絵空事にしている」との反発があり、では一部の蔵元が味噌道楽研究会への出品を拒否したとされる。これに対し、松平芳庵は「拒否もまた熟成の一部である」と述べ、逆に火に油を注いだ。
なお、に刊行された『全国味噌趣味者名鑑』には会員数4,812名と記載されているが、名簿に同じ人物名が9回出てくることから、実数については疑義がある[要出典]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 久世惣右衛門『樽のまなざし』下谷文庫, 1902年.
- ^ 松平芳庵「味噌道楽における熟成鑑賞の体系」『醸造趣味学報』Vol. 3, No. 2, 1914年, pp. 41-68.
- ^ 黒川ソノ「泡図覚書」『日本家庭嗜好史研究』第5巻第1号, 1921年, pp. 12-29.
- ^ 田島清三『都市の味噌学: 明治後期の保存文化』帝都出版, 1930年.
- ^ Eleanor M. Wilkins, “The Aesthetics of Fermentation in Prewar Tokyo,” Journal of Culinary Folklore, Vol. 8, No. 4, 1958, pp. 201-219.
- ^ 佐伯芳江『味噌棚の装飾と共同体』東亜生活研究所, 1964年.
- ^ Robert H. Ellison, “Miso as Ornament: Amateur Societies in Japan,” Review of Applied Anthropology, Vol. 11, No. 1, 1972, pp. 5-33.
- ^ 『全国味噌趣味者名鑑 昭和七年版』帝都味噌趣味館刊, 1932年.
- ^ 村上静枝「樽番号改竄事件の再検討」『食文化史評論』第14巻第3号, 1988年, pp. 77-94.
- ^ Norio Kanda, “Sound Measurement in Amateur Miso Appraisal,” Nippon Journal of Home Sciences, Vol. 19, No. 2, 1999, pp. 88-102.
- ^ 『発酵の短歌と温度計』東京発酵文化協会, 2007年.
外部リンク
- 帝都味噌趣味館デジタルアーカイブ
- 下谷醸造倶楽部資料室
- 全国味噌道楽連盟 旧会報閲覧庫
- 発酵美学研究フォーラム
- 樽札保存委員会