多摩県構想
| 名称 | 多摩県構想 |
|---|---|
| 対象地域 | 多摩地域一帯 |
| 提唱時期 | 1958年ごろ - 1970年代後半 |
| 主導組織 | 首都圏再編研究会、多摩自治調整連盟 |
| 提唱者 | 田嶋 恒一郎、牧野 かづ子ほか |
| 想定県庁所在地 | 立川市 |
| 想定県章 | 二重の円を持つ水滴形紋 |
| 影響 | 市制・交通計画・合併論議 |
多摩県構想(たまけんこうそう)は、の西部に広がるを、独立したとして再編することを提唱した一連の行政・都市計画案である。戦後の首都圏再編をめぐる論争の中で形成されたとされ、しばしば「未成立の第48県」とも呼ばれる[1]。
概要[編集]
多摩県構想は、のうち以西に広がる行政区画を、・・の各県制を参考に独立県へ転換するという発想から生まれたとされる。中心には、人口増加に伴う上下水道・学校・鉄道網の整備負担を分散させるという実務的な動機があった[2]。
一方で、構想は単なる行政改革にとどまらず、「山の県でも海の県でもない、谷と丘の県」という独自の地域アイデンティティを作ろうとする文化運動でもあったとされる。とりわけ・・の三市連携が象徴的であり、のちに「三市連絡会議」の議事録が断片的に残されたことから、研究者の間では半ば伝説的な存在として扱われている[3]。
成立の背景[編集]
戦後多摩の急増人口と「県境不在」論[編集]
、の内部研究として「首都西縁人口帯調査」が行われ、一帯の通勤人口が予測を10年早く上回ったことが契機になったとされる。当時の報告書では、沿線の学校不足が深刻で、「県に相当する単位の調整機構がないことが、区域行政の空白を生む」と記されていた[4]。
この調査に関わったとされるのが、都市計画官僚のである。田嶋はの団地視察の際、地元小学校の校庭が臨時バスの転回場になっているのを見て、「ここには市ではなく、県の顔が必要だ」と語ったという逸話が残るが、出典は公文書ではなく、後年の座談会記録に限られている。
多摩自治調整連盟の結成[編集]
には、周辺自治体の職員と商工会関係者を中心にが設立され、事務局は北口の雑居ビル2階に置かれた。連盟は毎月第2火曜に「県庁機能試算会」を開き、県庁舎の位置、消防本部の統合、地方税収の再配分までを机上で決めていたという。
なお、同連盟の会則第7条には「県歌の仮制定を妨げない」との一文があったとされ、これが後年の合唱団「多摩県女声アンサンブル」結成の直接の根拠になったともいわれる。ただし、この条文の原本はの火災で焼失したとされ、研究者の間では要出典扱いである。
県名候補の乱立[編集]
構想初期には「」「」「」などの県名が併記されたが、最終的に「多摩県」が優勢になった。理由については、地形名としての古さ、語感の柔らかさ、そして印鑑に収まりやすい2文字構成であったことが挙げられている[5]。
一方で、40年代の市民投票では「多摩州」という案が18.4%を獲得し、新聞社は「州制の誘惑」として大きく報じた。結果として、この論争は行政論というより、名刺の肩書きに「県民」と書けるかどうかという実利的な関心へと変質していったとされる。
制度設計[編集]
多摩県構想の制度設計は、からの単純分離ではなく、「特別都区制の延長としての準県制度」を経て完全移行する三段階方式であったとされる。第一段階では教育・道路・消防を共同事務とし、第二段階で税務と都市計画を県化、第三段階で正式な県名を告示する予定であった。
この設計を主導したのは、都市政策研究室の出身とされるである。牧野は県庁所在地をに置く案を推し、駅前に「暫定県庁ターミナル」を建てることで通勤客の動線と行政窓口を一体化させるべきだと主張した。彼女はまた、県の面積が細長いことを逆手に取り、東西移動時間を短縮するために「県内時差運用」を提案したが、これはさすがに採用されなかった[6]。
制度案の中でも特異だったのが「河川ごとの副知事配置」である。・・をそれぞれ生活圏の境界とみなし、災害対策や水利調整を独自化するもので、後の防災計画に影響を与えたとされる。ただし、副知事が川ごとに3人必要になるため、財政試算では初年度だけで人件費が予算の14.2%を占めると算出され、実現性には疑問が残った。
運動の展開[編集]
自治体首長会の追随[編集]
以降、、、の一部首長が「多摩県準備協議」にオブザーバー参加したことで、構想は一気に現実味を帯びたとされる。特にでは、庁舎移転反対運動と多摩県化支持運動が同じ広場で向かい合って演説し、通行人が両方のビラを受け取って帰る現象が頻発した。
この時期の象徴的出来事として、の「多摩博覧行政フェア」がある。会場では県章案の投票コーナー、県警制服の試着、県内時差を説明する紙芝居が並び、来場者数は2日間で推定4万8,300人に達したとされる。
交通政策との結びつき[編集]
多摩県構想が広く知られるようになった背景には、・・の輸送改善を県レベルで一元化するという説明が受け入れられたことがある。とりわけ、での乗り換え混雑が「県境のない行政」の象徴として扱われ、駅前に掲げられた仮設横断幕「ここから先は県を作るべきです」が話題になった。
また、県化後の想定として、各駅前に「県民相談ポスト」を置き、終電後に回収するという計画まで立てられていた。これは通勤圏の苦情を翌朝までに集約できるという極めて実務的な発想であったが、郵政当局からは「ポストが多すぎる」として調整を求められた[7]。
社会的影響[編集]
多摩県構想は最終的に実現しなかったが、の自治意識を高め、後年の広域連携政策に強い影響を与えたとされる。特に、学校給食の共同調達、消防指令の広域化、図書館カードの相互利用などは、構想の「県の前段階」実験として導入されたという見方がある[8]。
文化面では、地元出版社から『』という小冊子が発行され、架空の県民章、県木、県鳥まで定められた。県鳥は、県木は、県花は「多摩菫(たますみれ)」とされ、後者は実在しないにもかかわらず商店街の花壇に一時期広く植えられたという。
また、都心との関係では、に勤める会社員が「帰宅すると県に戻る」と言い始めたことで、通勤圏の二重帰属意識が可視化されたともいわれる。社会学者の中には、この現象を「県境前夜の都市生活」と呼ぶ者もいたが、当時の世論はおおむね「便利なら何でもよい」という実務主義に傾いていた。
批判と論争[編集]
批判の第一は、財政規模に比して行政需要が過大であるという点であった。末の試算では、県庁・県警・県立病院・県立大学を同時に整備するために、初年度だけでの市町村税収総額の1.7倍が必要と見積もられた。これに対し反対派は「県を作るより、机を増やした方が早い」と揶揄したという。
また、地理的に「多摩」と呼ばれる範囲が一定していないことも、構想の根幹を揺るがした。西は、東はまでを含むのか、あるいはをどう扱うかで、会議はしばしば深夜まで紛糾した。なお、一部の議事録では、境界線を決めるために「雨がよく降る場所を県境とする」案まで検討されたと記されているが、現在では半ば都市伝説とみなされている。
さらに、との関係をめぐっては、都側が「特別区との整合性を欠く」として慎重姿勢を示した一方、現場レベルでは多摩地区出身の都職員が内心で賛成していたとする回想録もある。こうした温度差が、構想を政治問題であると同時に、生活感情の問題へと押し上げたのである。
その後[編集]
後半になると、構想は正式な県創設運動というより、広域行政の改善提案として再編されていった。多摩自治調整連盟もの総会を最後に活動を縮小し、会員名簿は自治体史編さん室に引き継がれたとされる。
しかし、構想そのものは消滅せず、むしろ「多摩県」という呼称が、住民の自己紹介や地域イベントの看板に半ば比喩として残り続けた。現在でも、やの一部商店街では、年1回の「県民の日もどき」催事が行われることがあり、参加者は県章風の缶バッジを受け取るという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田嶋 恒一郎『首都西縁人口帯調査報告』総理府都市局, 1959, pp. 14-38.
- ^ 牧野 かづ子『準県制度と多摩地域の統合可能性』東京大学都市政策研究室紀要, Vol. 12, No. 3, 1964, pp. 201-229.
- ^ 多摩自治調整連盟 編『多摩県構想会議録 第一集』立川行政資料社, 1967.
- ^ 鈴木 義雄『首都圏の境界と住民意識』日本地域研究会, 1971, pp. 77-105.
- ^ Margaret A. Thornton, 'Administrative Vacuum and the Suburban Prefecture Model', Journal of East Asian Urban Studies, Vol. 8, No. 1, 1972, pp. 55-92.
- ^ 小林 みどり『団地と県境のあいだ』中央公論地理選書, 1974, pp. 111-143.
- ^ Francis H. Vale, 'The Tama County Debate and the Myth of the Missing Province', The Pacific Municipal Review, Vol. 19, No. 4, 1976, pp. 401-428.
- ^ 東京都自治史編さん室『多摩行政再編資料集』東京都公文書館, 1980, pp. 9-61.
- ^ 山岸 恒一『多摩県民の手引きとその周辺』多摩文化出版, 1981.
- ^ 牧野 かづ子『県内時差運用試論』都市交通月報, 第4巻第2号, 1965, pp. 3-17.
外部リンク
- 多摩自治資料アーカイブ
- 立川都市史研究所
- 首都圏再編データベース
- 多摩県構想史料館
- 昭和都市計画年表