新大塚・池袋構想
| 提唱主体 | 東京都都市整備局 第三整備部(仮置名) |
|---|---|
| 対象区域 | 〜〜を含む帯状エリア |
| 計画開始 | 47年(1972年) |
| 計画の骨子 | 池袋の中核機能を東西方向に再編し、新大塚側に「第二池袋」を形成する |
| 主な交通施策 | 環状バス専用レーンと連節路面電車の段階導入(想定) |
| 象徴指標 | 駅前歩行者流量を1日あたり18.6万人相当に設定 |
| 特記事項 | 現行の池袋駅前中心配置とは逆の前提が置かれている |
| 計画の評価 | 一部が後年の再開発資料に「参照」として残る |
(しんおおつか・いけぶくろこうそう)は、の周辺からにかけて、池袋の機能を再配置する都市計画構想である。1970年代に立案され、駅前の繁華街の位置を「池袋駅周辺」ではなく「新大塚側」にずらす方針が特徴とされる[1]。
概要[編集]
は、都心部の「駅前繁華」概念を、当時の常識であるの中心配置から切り離し、側に“池袋と同等の街格”を出現させることを狙った構想とされる[1]。とくに「駅から半径300mの商業密度で勝負する」という考えが強く、半径300m圏の床面積配分を細かく定義した点が資料上で目立つ。
構想が成立した経緯は、当時の鉄道増便と人口集中が「池袋の交通容量」に先に天井を作ってしまうという試算にあったとされる[2]。そこで、池袋駅の繁華は残しつつも、繁華の“受け皿”を新大塚側に前倒しで整備する方針が打ち出されたという[2]。なお、後年の回顧では「池袋は複数形であるべきだった」と表現されることもあったとされる[3]。
本構想は都市計画の通常の整備よりも、むしろ「人の流れの設計」を中心に据えた。具体的には、歩行者導線を信号の周期秒数まで落とし込み、青時間を平均で42秒、歩行者滞留を最長で90秒に抑える想定が置かれたとされる[4]。また、商業施設の“話題性”を定量化する試みとして、店舗の入替率を年率23%にする目標も提示されていたという[4]。
歴史[編集]
前史:池袋を「単一中心」と見なしていた時代[編集]
1970年代初頭、都の資料では池袋が「東北—北関東からの購買吸引装置」として説明されていたとされる[5]。ところが、吸引が強いほど駅前の“滞留”が増え、結果として横断歩道やバス停の周辺が局所渋滞化する問題が顕在化したという。そこで、東京都都市整備局内では「単一中心モデルは危険」という社内言説が広がり、池袋を東西に分散させる発想が生まれたとされる[5]。
この段階で、研究グループの一部は「今の池袋駅に相当する位置は、もともと繁華街の想定ではなかった」とするメモを残したという[6]。同メモは「繁華の重心は新大塚側へ移すべき」と断じ、池袋駅の駅舎前はむしろ“乗換広場”に寄せるべきだと提案していたとされる[6]。ここでいう“新大塚側の池袋性”は、単に商店があるという意味ではなく、文化施設・ホテル・専門店の層が揃うことを含意していた。
面白い点として、関係者の間では「駅前を芸能で例えると、池袋駅前は主役ではなく舞台袖に回る」という比喩が好まれたとされる[7]。その結果、計画書でも“主役地区”と“舞台地区”が言い換えとして登場するようになったとされる[7]。
立案:第二池袋は「新大塚で始める」[編集]
47年(1972年)に、東京都都市整備局 第三整備部(仮置名)が中心となり、の原型がまとめられたとされる[8]。原案では「駅前300mの商圏を、段階的に“池袋レベル”まで引き上げる」とされ、第一期の目標を“床面積 42万平方メートル”と定めたという[8]。この数値は、当時の再開発事業でよく使われた“中規模ドームの面積換算”の流儀で導出されたとされ、計算の余白が多いことで知られる[8]。
また、交通計画では環状バス専用レーンの整備が柱となった。とくに新大塚側の幹線では、片側二車線のうち内側1車線をバス専用とし、混雑ピーク時の定時性を“平常比103%”に近づける目標が掲げられたという[9]。さらに、連節路面電車については「採算が取れるかはともかく、見た目の安心感で需要が上がる」という理由が書かれていたとされる[9]。
都内の民間委員も多数参加し、なかでも(仮)では、商業の話題性を数値化するために「開店後30日以内にレビュー記事が3本以上出る店」を“成功店”と定義したという[10]。この定義は後に“炎上を防ぐための指標”として皮肉られたが、構想の説得力の材料として機能したとされる[10]。なお、一部資料には「青信号42秒は歩行者の“夢の持続時間”に由来する」との記述があり、担当者が後年「誇張である」と述べたとされる[4]。
試行と影響:部分採用で“似て非なる第二池袋”が残った[編集]
構想は全面採用には至らなかったとされるが、周辺の再開発や駅周辺整備の議事録には“第二池袋”という語が散見されるとされる[11]。たとえば周辺の歩行者空間整備では、当初計画の導線幅が1.8m単位で設計され、最大でも5.4mまで確保する方針が採られたという[11]。この細かさは、構想で定義された“滞留90秒”に対応するためだと説明されたとされる。
一方で、街の中心が新大塚側へ完全に移ったわけではない。結果として、池袋駅前には“本来主役であるべき領域”が残り、新大塚側には“準主役”の商業層が育つという、ねじれた状態がしばらく続いたとされる[12]。ただし、これがのちのサブカルチャーの居場所を増やしたという評価もある。具体的には、夜間帯の滞在者数を「20時台を起点に1時間で+12%」と見込んだ予測が、想定より高い精度で当たったとされる[12]。
また、構想が生んだ社会的影響として、交通施策の“見える化”が挙げられる。歩行者向け案内のタイミングを信号と連動させ、次の便までの残り時間を表示する運用が試みられたという[13]。この仕組みは後年、別の都市圏に転用されることになり、「時間の読める街」という価値観を広めたとされる[13]。ただし、この運用が行き過ぎると“遅延の不安が可視化される”という批判も生んだとされる。
計画の内容[編集]
は、単なる再開発ではなく「街の中心の採点」を行う仕組みとして設計されたとされる[14]。そのため、施設配置は用途の分類だけでなく、通行量・滞留・回遊の“合成指標”で決められたという。
第一の軸は「半径300mの商業圏」の設計である。商業床の配分は、食品系を22%、衣料雑貨を31%、娯楽を17%、医療・生活支援を12%、残りを“偶発需要枠”として設定したとされる[14]。ここでいう偶発需要枠には、専門書店や小規模映画館、深夜営業の自習空間などが想定されていたとされる[14]。
第二の軸は交通の“リズム化”である。信号の周期秒数を統一し、歩行者導線の青時間を平均42秒、右左折を含む車両の緩衝時間を平均で18秒とする設計が提示されたとされる[4]。さらに、横断歩道の端に設置される情報板は「次の交差点までの歩行時間を分単位で表示し、誤差を±0.5分以内にする」と定められていたという[15]。
第三の軸は“失敗の織り込み”である。構想書では、想定より商圏が立ち上がらない場合に備えて、店舗入替率年率23%で“店の入れ替えを商品化する”提案が入っていたとされる[10]。この提案は一部で「街を実験場に変えるのか」と反発を生みつつも、結果的に新大塚側の小規模業態の増加につながったと回想されている[16]。
関係者と組織[編集]
構想の推進には、行政と民間が混ざり合う形が採られたとされる[17]。東京都側では、第三整備部が中心となり、計画調整のための会議体として「北東都心回遊会議」を設けたとされる[17]。この会議体には、交通事業者・地元商店会・不動産鑑定の担当者が参加し、議事録では“次の不況に備えた街の作り方”が繰り返し論じられたという。
民間側では、(仮)が“商業の成功を数値化する”ための指標を提案したとされる[10]。また、(仮)が連節車両の導入可能性を試算し、騒音の許容基準として「70dBを超えない夜間帯運用」という条件を提示したとされる[18]。ただし、構想の文書に添付された試算には計算手順が飛んでいるページがあるとして、当時の監査で軽く問題化したとされる[18]。
地元側の影響として、商店会では「店主の年齢分布を意識した店舗配置」を求める声があったという[19]。具体的には、60歳以上の店主が多いエリアに、夜間運用の負担が少ない業態(宅配・受注型)を置くという考え方である[19]。この要求が一部に反映され、医療・生活支援の配分12%が維持されたと説明されることもある[14]。
批判と論争[編集]
批判は主に「中心移動の合理性」に向けられたとされる[20]。反対派は、池袋駅前の集客力を過小評価しており、仮に新大塚に第二池袋を作っても、二重投資になって採算が崩れると主張したという[20]。また、構想に含まれていた“レビュー記事3本以上”の成功定義が、結果として広告宣伝へ傾く可能性があると指摘されたともされる[10]。
さらに、交通面の設計は“理想的すぎる”と見られた。歩行者青時間42秒や誤差±0.5分の案内などは、実運用では調整不能であるという批判があった[15]。一部の交通工学者は「信号は人の夢を測る装置ではない」と揶揄したともされる[4]。この発言が計画書の余白に引用され、のちに“狂気のページ”として笑い話になったという。
一方で、擁護側は「中心が一つであることの方が、むしろ脆い」と応じたとされる[21]。実際、街の需要が景気や人口動態の変化に左右される以上、リスク分散として第二の重心を持つべきだという考えがあったとされる[21]。この議論は結局、全面採用ではなく部分採用へ収束したとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 東京都都市整備局 第三整備部『北東都心回遊会議 報告書(試案)』東京都都市整備局, 1972年.
- ^ 山口晶彦『駅前繁華の重心移動に関する研究』土木都市叢書, 1976年.
- ^ 田中美佐子『複数中心都市の実務—池袋をめぐる仮説の整理』都市政策研究会, 1981年.
- ^ “回遊信号の設計指針と歩行者滞留の相関”『日本交通設計学会誌』Vol.12第3号, pp.44-59, 1975年.
- ^ 高橋慎一『購買吸引装置としての駅前—都心部の吸引メカニズム』経済地理学研究, 第7巻第1号, pp.101-130, 1973年.
- ^ 小野寺玲『第二中心モデルの成立条件』『都市計画論文集』第28巻第2号, pp.210-233, 1978年.
- ^ M. A. Thornton, “Pedestrian Rhythm as Governance: A Fictional Case Study of Tokyo,” Journal of Urban Timing, Vol.3, No.4, pp.12-29, 1980.
- ^ Sato, Kenji; “Noise Limits and the Desire for Tram Aesthetics,” Proceedings of the International Transit Symposium, Vol.9, pp.77-86, 1979.
- ^ “商業成功の数値化—レビュー記事数を用いた指標の検討”『商業統計研究』第15巻第1号, pp.5-22, 1982年.
- ^ 佐藤良介『都市の時間を可視化する—遅延不安の設計学』朝霧書房, 1984年.
- ^ “新大塚周辺歩行者空間の寸法設計と運用”『東京都土木技術年報』第41号, pp.300-318, 1985年.
外部リンク
- 新大塚・池袋構想アーカイブ(仮)
- 北東都心回遊会議資料室(仮)
- 駅前歩行者時間計算ツール(仮)
- 都市開発振興協会データギャラリー(仮)
- 連節路面電車の夢を測る会(仮)