夜明 にら
| 氏名 | 夜明 にら |
|---|---|
| ふりがな | よあけ にら |
| 生年月日 | 1898年3月14日 |
| 出生地 | 長野県諏訪郡上諏訪町 |
| 没年月日 | 1964年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗筆記者、暦法研究家、巡礼案内人 |
| 活動期間 | 1917年 - 1964年 |
| 主な業績 | 薄明採録法の確立、夜明暦の編纂、甲州・信濃巡礼路の再整理 |
| 受賞歴 | 信濃文化奨励章、中央民俗学会特別表彰 |
夜明 にら(よあけ にら、 - )は、の民俗筆記者、暦法研究家、地方巡礼案内人である。夜明式の「薄明採録法」を提唱した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
夜明 にらは、末期から中期にかけて活動したの民俗筆記者である。日の出前後のわずかな時間にのみ発生するとされた地方伝承の断片を収集し、これを体系化したことで知られる[1]。
その活動はを中心に、、、の周縁部へと広がった。とりわけ周辺で実地調査を行い、早朝の農閑期に村落ごとの語り部から聞き書きを重ねたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
夜明は、の紙問屋の家に生まれる。幼少期からの近くで暁鐘を聞き、まだ完全に言葉にならない時間の区切りに強い関心を抱いたという[3]。
地元のでは算術よりも日付帳の作成を好み、教師の藤森末吉に「朝の色を文字にする癖がある」と評された。なお、この逸話はのちに本人の回想録でのみ確認されているため、真偽についてはなお議論がある。
青年期[編集]
、へ出ての聴講生となり、民俗誌の講義に触れたとされる。そこで彼女はの系譜に連なる研究者たちと接点を持ったが、正式な門弟ではなく、あくまで「夜明けにだけ現れる書生」とあだ名されたという[4]。
の古書店街で暦法や時刻に関する書物を買い集める一方、夜明はの漁村へ通い、沖合の白みを基準に漁期を記録した。これが後の「薄明採録法」の原型になったとされる。
活動期[編集]
、夜明は私家版の小冊子『暁の断片』を刊行し、地方ごとに異なる「夜明け前の禁忌」を比較した。冊子はわずか312部の限定配布であったが、の内部回覧に回され、の研究者数名が異例の高評価を与えたという[5]。
にはの峡東地方で「夜明にら講話会」が開かれ、ここで彼女は、朝日が地平線に触れる直前の8分間に口伝が最も正確になると主張した。会場では始発の汽車時刻と講話の終了時刻が一致したため、参加者が妙に感心したと伝えられる。
以降は戦時下の交通制限により現地調査が難しくなったが、夜明は下谷の下宿で「窓辺採録」を続けた。近隣住民の話を元に、早朝の路面電車の音から村の季節感を推定する独自手法を編み出したとされ、これは後年の都市民俗学にも影響を与えた。
晩年と死去[編集]
に入ると、夜明は近郊の療養地へ移り、晩年は自らの記録を整理する作業に専念した。彼女はに『夜明暦試案』を完成させ、これは一日を「白明」「半明」「名残明け」の三相に分ける独特の暦として知られる[6]。
11月2日、夜明はで死去した。死因は肺炎とされるが、最期まで机上に三つ折りの時刻表と鉛筆を置いていたため、親族の間では「未明に取り憑かれた人だった」と語り継がれている。
人物[編集]
夜明は寡黙で几帳面な人物であったとされる一方、早朝の会合では急に饒舌になり、他人の湯呑みにまで日の出角度を書き込む癖があったという。研究仲間のは「彼女のノートは、半分が民俗資料で半分が気象観察で、残りの半分が自作の詩であった」と回想している[7]。
また、夜明は移動中に必ず二種類の時計を携帯し、ひとつは、もうひとつは「村の朝の速さ」を測るための私製時計であった。後者はゼンマイの巻きが不均一で、正確性には欠けたが、本人は「不正確であることが土地の証拠である」と述べたとされる。
逸話として、の山間部で聞き取り中に突然濃霧が発生し、同行者が中止を提案したところ、夜明は「霧の日の伝承ほど、発音がよい」と答えて採録を続けた。これにより記録された一節が、後にの年報で最も引用された短文の一つとなった。
業績・作品[編集]
薄明採録法[編集]
夜明の代表的業績は「薄明採録法」である。これは、夜明け前後の気温・光量・鳥の鳴き始めの時刻を同時に記録し、そのうえで聞き書きの語尾が変化する瞬間を採取するという方法で、に私設研究会で提示された[8]。
夜明はこの方法により、同じ伝承でもとで結びが変わることを示したと主張した。もっとも、後年の再検証では測定者の眠気が記録に強く影響していた可能性が指摘されている。
主な著作[編集]
主著に『暁の断片』『夜明暦試案』『信濃朝景集』がある。とりわけ『信濃朝景集』は、地元の山影を「語りの壁面」とみなして章立てした点で異例であり、の蔵書目録では文学部門に分類された[9]。
また、雑誌『未明』への寄稿「朝の音程について」は、鍬の音、井戸の滑車音、始発電車の警笛音を三重奏として論じた小論で、今日では早朝音響研究の先駆として扱われることがある。
社会的影響[編集]
夜明の理論は、戦後の観光案内にも影響を与えた。はに「夜明コース」と呼ばれる早朝巡礼路を試験的に設定し、3か月で延べ1,420人の参加を得たという[10]。
さらに関係者の一部は、夜明の区分法をもとに「朝の道徳」教材を作成したが、児童が登校前に空を見上げすぎるとして短期間で廃止された。
後世の評価[編集]
夜明の評価は、民俗学・地誌学・教育史の三分野で分かれている。民俗学では先駆的な記録者として評価される一方、地誌学では観察条件が主観的すぎるとの批判もある[11]。
にで開かれたシンポジウム「暁と記録」では、夜明のノートに残された時刻表の紙片が10枚以上提示され、参加者の間で「資料の量ではなく、眠る前の執念が重要である」と総括された。
一方で、夜明の名を冠した研究会の一部では、日の出を待つあまり会議が毎回遅延し、関係者からは実務的ではないとみなされることもあった。ただし、この遅延がかえって記録の質を高めたという反論も根強い。
系譜・家族[編集]
夜明家は諏訪地方の商家で、祖父の夜明喜三郎は紙問屋を営み、父の夜明庄一は帳簿整理に長けた人物であった。母の夜明スエは近隣の口承を覚える才能があり、にらが民間伝承に関心を持つ土壌を作ったとされる[12]。
配偶者はで、に婚姻したが、生活の多くは別居であった。子はなく、晩年は甥の夜明一雄が資料整理を手伝った。また、弟子筋には、、がいるが、本人は「弟子よりも朝の同盟者」と呼んでいたという。
なお、夜明の親族の一部は現在も内に居住しているとされるが、資料の散逸が多く、家系図には空白がある。これは本人が戸籍よりも季節表を重視したためだと説明されることがある。
脚注[編集]
[1] 夜明に関する基本的記述は『暁の断片』再版本に依拠する。 [2] 諏訪湖周辺調査については『信濃朝景集』付録を参照。 [3] 幼少期の記述は夜明家文書および地元学校の記録による。 [4] 東京在学時の逸話は同時代人の回想に散見される。 [5] 小冊子の流通部数は版元控えに基づくが、実数は諸説ある。 [6] 夜明暦試案の詳細は未公刊草稿にのみ残る。 [7] 石田ミネ回想録『朝の人』より。 [8] 薄明採録法の初出年には異説がある。 [9] 図書館分類については後年の整理番号に基づく。 [10] 観光連盟の参加者数は年度報告書による。 [11] 評価の分岐は1970年代以降の研究史で顕著になった。 [12] 家族関係は戸籍・聞き取り資料を総合した推定である。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 夜明にら『暁の断片』未明書房, 1926年.
- ^ 夜明にら『信濃朝景集』白光社, 1934年.
- ^ 夜明にら『夜明暦試案』暁文庫, 1961年.
- ^ 石田ミネ『朝の人――夜明にら回想』信州文化出版, 1968年.
- ^ 中村蒼太『薄明採録法の成立』民俗資料研究会誌 Vol.12, pp. 44-71, 1979年.
- ^ Margaret H. Ellwood, "Dawn Records in Regional Folklore", Journal of Comparative Ethnography, Vol. 8, No. 2, pp. 113-139, 1982.
- ^ 小川清文『夜明にらと巡礼案内の変容』長野民俗叢書, 1987年.
- ^ 佐伯冬彦『朝の道徳と地方教育』教育文化評論 第9巻第4号, pp. 5-28, 1991年.
- ^ Harold J. Kinsey, "The Twilight Method and Its Discontents", Bulletin of Rural Time Studies, Vol. 3, pp. 201-219, 1994.
- ^ 宮坂るい『夜明け前の地図』諏訪出版, 2003年.
- ^ 渡辺精一郎『朝景の社会史――夜明にら論』日本暦法学会叢書, 2011年.
外部リンク
- 信濃朝景アーカイブ
- 未明研究フォーラム
- 諏訪地方口承資料室
- 夜明にら顕彰委員会
- 暁の断片デジタル版