大森 紗希
| 氏名 | 大森 紗希 |
|---|---|
| ふりがな | おおもり さき |
| 生年月日 | 1978年4月18日 |
| 出生地 | 東京都杉並区 |
| 没年月日 | 2019年11月7日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 都市景観記録家、装丁監修者、私設アーカイブ活動家 |
| 活動期間 | 1998年 - 2019年 |
| 主な業績 | 余白の地図理論、路面採集写真集『夜更けの舗道標本』、港湾写本館の設立 |
| 受賞歴 | 日本記録文化賞、東京装丁連盟特別賞 |
大森 紗希(おおもり さき、 - )は、の都市景観記録家、装丁監修者、私設アーカイブ活動家である。夜間路面の採集写真と「余白の地図」理論の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
大森 紗希は、日本の都市景観記録家である。主にの路地、橋梁下、旧商店街の床面を対象とした採集的記録で知られ、のちに「余白の地図」と呼ばれる独自の観察法を提唱した[1]。
その活動は後半の紙媒体再評価運動と重なり、の小規模印刷所、の私設資料館、の港湾倉庫群などを結ぶ緩やかなネットワークへ発展した。本人は一貫して「景観は看板よりも床に宿る」と述べたとされるが、この発言の初出は不明である[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
大森は、に生まれる。父は中堅の製本工、母は区立図書館の資料整理員であり、幼少期から紙の断裁くずや試し刷りを持ち帰る家庭環境にあった。後年の回想録によれば、6歳の時にの商店街で見た雨上がりのアーケード床面が「地図よりも雄弁であった」と記している[3]。
小学校時代にはノートの余白に通学路の継ぎ目や側溝の位置を細密に描き写していたとされ、担任教師からは「観察力はあるが提出物が妙に湿っている」と評されたという。これはのちの紙と路面を往復する方法論の原型になったと考えられている。
青年期[編集]
にを卒業後、造形学部に進学したが、在学中に美術史よりも都市の消耗痕に強い関心を示すようになった。特にの古書店街で、背表紙の退色と歩道ブロックの摩耗を同列に扱う独自のスケッチを続け、ゼミでは「書誌学における靴底の問題」というレポートを提出したとされる[4]。
この時期、恩師の教授に師事し、印刷物の余白設計と都市の未使用空間の相似性を学んだ。大森はのちに「作品は内容ではなく、内容が通過した跡に宿る」と語ったと伝えられるが、残された音声記録には一部編集の痕跡がある。
活動期[編集]
、のギャラリーで最初の個展『路面索引』を開催し、来場者に配布したのは作品解説ではなく、採集したマンホール周辺の摩耗率を記したカードであった。これが評判を呼び、の機関誌『記録と余白』に寄稿する機会を得た[5]。
には、港湾地区の空き倉庫を改装した私設アーカイブ「港湾写本館」の設立に関与した。ここでは古い帳簿、床材の剥離片、消えかけた誘導線の写真が、書誌カードと同様の方法で整理された。来館者は年間平均2,400人前後であったとされるが、雨天時には半減したという報告もある[6]。
の東日本大震災後には、被災地の仮設商店街における床面の仮設素材を継続記録し、「暫定的な地面は、人間の復旧意志を最もよく示す」と論じた。これにより、都市計画の補助資料として一部自治体で参照されたほか、の地域景観検討会で参考展示が行われたともいわれる。
晩年と死去[編集]
以降は持病の関節炎により遠距離の採集を控え、主にの自宅兼資料室で小型スキャナを用いた整理作業に専念した。この時期に編まれた未刊行ノート『白線の呼吸』は、白線塗装の乾燥速度を気象条件とともに記録したもので、同好の編集者の間で高く評価された[7]。
、心不全のためで死去した。葬儀では本人の遺志により花輪の代わりに古い製本テープが配られ、会場には街路灯の写真が壁一面に投影されたという。死後、その資料群はの民間保存施設へ移管された。
人物[編集]
大森は寡黙である一方、観察対象の前では異様に饒舌であったと伝えられる。特に床面の擦過痕や配線カバーの継ぎ目については、1時間以上にわたり説明を続けることがあり、同行者からは「路上で最も静かな時に最も大きな声を出す人物」と評された。
逸話として、での講演後に会場の非常口誘導灯の角度を5度単位で修正し、主催者から感謝状を受けたという話が残る。また、雨の日には必ず透明な下敷きを持ち歩き、濡れた舗装の反射を即座に写し取ったとされる。なお、本人は「記録は正確である必要はないが、湿度には忠実であるべきだ」と述べたとされるが、出典は限定的である。
業績・作品[編集]
主要作品[編集]
代表作は、写真集『夜更けの舗道標本』()である。これは内36か所の深夜帯路面を、同一露出・同一角度で撮影したもので、ページ下部に摩耗地点の座標が付されたため、写真集でありながら索引帳のような体裁を持つ[8]。
『余白の地図入門』()では、建物そのものではなく建物と建物の間に生じる通風、視線、落葉の滞留を地図化する方法が示された。地理学者の一部からは「統計的再現性が弱い」と批判されたが、デザイナーや保存活動家の間では実用的とされた。
活動と発明[編集]
大森の活動の中心にあったのが「余白の地図」理論である。これは都市を施設や道路でなく、空白や仮設、補修跡の集合として読む試みで、にの公開講座で紹介された際、聴講者の7割がメモを取るのをやめて床を見始めたとされる[9]。
また、印刷と展示の境界を曖昧にするため、書籍の本文を一切本文扱いせず、脚注だけで成立させる「逆脚注式編集」も試みた。この手法はの一部小出版社に継承され、のちに限定100部の同人誌文化へ影響を与えた。
受賞・評価[編集]
にはを受賞し、授賞理由は「都市の消耗を美学へ転換した点において稀有」であった。さらににはを受け、本人不在の授賞式では、代理人が「この賞状の余白が最も完成している」とコメントした記録がある。
一方で、収集物の一部に私的領域の床材まで含まれていたことから、プライバシー侵害の懸念も指摘された。もっとも、大森は対象を明示する際には必ず所有者の口頭同意を得ていたとされ、この点については関係者の証言が分かれている。
後世の評価[編集]
死後、大森の仕事は、、の3分野で再評価が進んだ。特に、写真を情報媒体ではなく地層として扱う視点は、の地域資料保存運動に影響を与え、やの一部図書館で展示手法の参考にされた。
また、若手編集者の間では、彼女の「余白を残す編集」は、過剰な説明を避ける技術として引用されている。もっとも、研究者の間では「理論としては曖昧だが、実務上は妙に役立つ」との評価が多い。なお、の書誌記述に採用されたという説もあるが、確認できる一次資料は乏しい[10]。
系譜・家族[編集]
父・はの製本所に勤務し、母・は区立図書館で資料修復補助を務めた。弟にがおり、港湾荷役関連の技師であったという。家族全体が紙、糊、湿気に関わる職能を持っていたことから、大森の観察対象が自然に印刷物と路面へ収束したと考えられている。
結婚歴については未婚説が有力であるが、晩年に同居していた編集者を事実婚の相手とみなす見方もある。遺稿整理の中心も木村が担ったとされ、港湾写本館の年報には「家族に代わる編集共同体」という言葉が用いられた。
脚注[編集]
[1] 大森紗希記念資料室 編『都市の余白を測る』港湾書房、2021年。 [2] 『記録と余白』第18巻第2号、、2006年、pp. 14-19。 [3] 大森紗希「雨上がりの商店街」『採集ノート』第3号、2008年、pp. 2-5。 [4] 三浦修一『装丁と都市のあいだ』、1999年、pp. 88-93。 [5] 『路面索引』展覧会図録、、2001年。 [6] 港湾写本館 年報編集委員会『港湾写本館年報 2004-2005』、2006年、pp. 33-41。 [7] 木村由里 編『白線の呼吸』私家版、2020年。 [8] 大森紗希『夜更けの舗道標本』、2005年。 [9] 東京国立近代美術館 公開講座記録委員会『余白の地図とその周辺』2012年、pp. 7-12。 [10] 佐伯真一『書誌記述の再境界』、2022年、Vol. 4, No. 1, pp. 55-61。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 大森紗希『夜更けの舗道標本』青潮社, 2005年.
- ^ 三浦修一『装丁と都市のあいだ』武蔵野美術大学出版局, 1999年.
- ^ 港湾写本館 年報編集委員会『港湾写本館年報 2004-2005』港湾写本館, 2006年.
- ^ 佐伯真一『書誌記述の再境界』国立資料研究会, 2022年, Vol. 4, No. 1, pp. 55-61.
- ^ 大森紗希記念資料室 編『都市の余白を測る』港湾書房, 2021年.
- ^ 東京国立近代美術館 公開講座記録委員会『余白の地図とその周辺』東京国立近代美術館, 2012年, pp. 7-12.
- ^ 木村由里 編『白線の呼吸』私家版, 2020年.
- ^ 『記録と余白』第18巻第2号,日本記録文化協会, 2006年, pp. 14-19.
- ^ 渡辺璃子『都市の床面と編集倫理』景観研究社, 2018年.
- ^ James H. Kettering, The Politics of Empty Streets, Vol. 9, No. 3, Riverside Press, 2017, pp. 201-219.
- ^ 山口早苗『仮設空間の文化史』みなと文庫, 2015年.
- ^ 中島洋一『湿度と記憶のデザイン』潮風出版, 2011年.
外部リンク
- 港湾写本館アーカイブ
- 日本記録文化協会デジタル年報
- 余白の地図研究会
- 東京装丁連盟会報
- 路面採集データベース