大越智悠
| 本名 | 大越智悠 |
|---|---|
| 生年月日 | 1897年4月18日 |
| 没年月日 | 1972年11月2日 |
| 出生地 | 東京府麻布区 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 行政技師、都市調整学者 |
| 所属 | 内務省都市衛生課、帝都交通整序研究会 |
| 代表的業績 | 折り畳み式公共動線の設計、環状式標識制度の導入 |
| 影響を受けた人物 | 小川清次、ウィリアム・J・ハーストン |
| 特記事項 | 晩年に「歩行者のための余白率」を定義した |
大越智悠(おおこし ともはる、 - )は、の行政技師、都市調整学者、ならびに「折り畳み式公共動線」の提唱者である。戦前期のにおける交通整理改革と、戦後の系統の都市再編計画に深く関与したとされる[1]。
概要[編集]
大越智悠は、末期から中期にかけて活動した都市行政の実務家であり、後年は都市計画史において異色の理論家として扱われている。とりわけ、交差点や駅前広場に「たたんで収納できる歩行余地」を設けるべきだと主張した点で知られる。
その思想は、当初はの一部区画における臨時交通整理案として提出されたが、後の復興局との会議で高く評価され、のちに「動線の可搬化」という独自概念へ発展したとされる。一方で、彼が設計したとされる標識の一部は、実際にはの掲示体系を流用しただけではないかとの指摘がある[2]。
経歴[編集]
生い立ちと学齢期[編集]
1897年、麻布区の職人住宅地に生まれたとされる。父は畳職人、母は近くの貸本屋の手伝いをしていたという記録があり、幼少期から「物を折る」「畳む」という行為に強い関心を示したと伝えられている。
旧制時代には、校舎の廊下で生徒が一列に並びすぎることを問題視し、机を斜めに置いて通行量を測定したという逸話がある。なお、この実験で用いられた竹尺は、後年の倉庫から発見されたが、実際には別人のものではないかという見方もある。
官庁技師としての台頭[編集]
の後、臨時の復興調査員としてに参加し、焼失地区の道路幅員を「歩行者密度」「荷車旋回半径」「露店の滞留時間」の三要素で評価する方式を提案した。これが上層部に受け入れられ、1926年には内務省都市衛生課の嘱託となった。
この時期に作成されたとされる『折畳式歩道設計要綱』は、各交差点に木製の余白板を設置し、朝夕で開閉するという奇抜な案を含んでいた。実施例はの一角に限られたが、通学路の混雑が31%減少したとする数字が残る[3]。
理論の成熟[編集]
1930年代に入ると、大越はを主宰し、「都市は固定された器ではなく、時間帯ごとにたたまれる器官である」と論じた。彼の中心概念である「折り畳み式公共動線」は、道路・広場・階段・横断帯を一体で設計し、必要に応じて人流を収容・解放する思想であった。
研究会の議事録によれば、彼は毎回、縮尺1:200の都市模型を風呂敷で包み直しながら説明したという。これにより参加者の理解が深まったとされるが、同席したの助手が「模型が小さすぎて議論の対象がどこなのか分からない」と記したメモも残されている。
折り畳み式公共動線[編集]
大越の名を最も広めたのは、この独自理論である。彼は、都市の動線を恒常的な道路網としてではなく、平日・祭礼・災害時・夜間で可変的に変形する「可搬構造」と見なした。これに基づき、石畳の一部を引き出し式にして露店区画へ転用する案や、駅前の植え込みを回転させて待合列を作る案が示された。
実際にはとで行われた試験整備のみが確認されているが、そこでは人流の分散率が想定を上回ったため、警視庁からは高評価を受けた一方、清掃担当部局からは「溝が増えすぎる」と強い不満が出たという。のちに海外の都市工学誌では、彼の理論は「日本的ミニマリズムと官庁的過剰設計の奇妙な融合」と紹介された[4]。
社会的影響[編集]
大越の提案は、都市計画そのものよりも、行政文書の書式に強い影響を与えたとされる。彼の会議資料では、道路幅を「米」ではなく「歩幅換算単位」で示すことが推奨され、これが一部の地方庁で模倣された。その結果、やの実務担当者の間で、現地調査票に妙な記号が増えたという。
また、彼の思想は戦後の系資料に断片的に再登場し、1961年の「駅前整備における可逆性」通達に影響したともいわれる。ただし、当時の官僚メモには彼の名前が「大越知雄」「大越智雄」などと揺れており、本人の実在性をめぐって後世の研究者が小さな論争を続けている[5]。
批判と論争[編集]
大越に対する最大の批判は、理論が美しい一方で、現場では部材の紛失が頻発したことである。とくに可動式の白線標識は、雨天時に吸水して重くなり、職員3人がかりでしか戻せなかったという記録がある。
さらに、1940年代後半に彼が関与したとされる「環状式標識制度」は、円環状の案内板を回すことで進行方向を変える仕組みであったが、利用者の半数が読み終える前に次の面へ回してしまい、結局は「表示としての威厳だけが残った」と批判された。なお、この制度についてはの内部報告に「機械的には成功、心理的には失敗」とあるが、原本の所在は不明である。
晩年[編集]
戦後はの調査協力員として断続的に活動し、都市の記憶を保存するための「余白率」という概念を提唱した。これは、道路や広場に対し、あえて何も置かない面積を3.5〜7.2%確保することで、都市が呼吸できるという考え方である。
晩年の大越は鎌倉市に移り住み、海岸線のベンチ配置を日ごとに変える趣味に没頭したとされる。1972年に没したのち、遺稿から「都市は完成するものではなく、たたみ癖を覚えるものである」という一文が見つかり、都市計画史家のあいだでよく引用されている。
評価[編集]
大越智悠の評価は、実務家としては局所的、思想家としては過大、そしてエピソードの面白さでは極めて高いという三層構造を持つ。近年の研究では、彼が実際に大きな制度を動かしたというより、複数の部局に残る断片的な試験案を一人分の業績として束ねられた可能性が指摘されている。
それでも、の議事録やの一部資料に見られる手書きの修正痕からは、彼が確かに現場で何度も図面を描き直していたことがうかがえる。都市を「折り畳む」という発想自体は後世の論と接続されることもあり、半ば伝説、半ば先駆として扱われている[6]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高瀬一郎『都市をたたむ技術――大越智悠資料集』東都書房, 1988.
- ^ M. A. Thornton, "Foldable Public Corridors in Prewar Tokyo," Journal of Urban Administration, Vol. 12, No. 3, 1979, pp. 44-68.
- ^ 佐伯文彦『戦前都市行政と可搬式動線』日本計画学会出版局, 1994.
- ^ Y. Nakamura, "The Circular Signage System and Its Psychological Failure," Proceedings of the East Asian Planning Review, Vol. 7, No. 1, 1965, pp. 9-21.
- ^ 平山啓介『復興局の余白――一技師のノートから』港湾文化社, 2001.
- ^ C. L. Whitmore, "Administrative Minimalism and Excess Design in Japan," City and Bureaucracy Quarterly, Vol. 4, No. 2, 1983, pp. 101-130.
- ^ 村上真理子『歩幅換算単位の誕生』地方行政叢書, 2010.
- ^ 大越智悠『折畳式歩道設計要綱』帝都交通整序研究会紀要 第2巻第1号, 1931, pp. 1-17.
- ^ 山田康夫『東京市の交通整序史』都政評論社, 1976.
- ^ E. J. Hensley, "The Aesthetics of Empty Space in Municipal Planning," Urban Forms Review, Vol. 18, No. 4, 1996, pp. 201-219.
- ^ 北条澄子『余白率という発明』中央都市出版, 2018.
外部リンク
- 帝都交通史アーカイブ
- 都市余白研究所
- 大越智悠資料室
- 戦前官庁技師文庫
- 可搬式動線データベース