大道寺辰巳
| 氏名 | 大道寺 辰巳 |
|---|---|
| ふりがな | だいどうじ たつみ |
| 生年月日 | |
| 出生地 | |
| 没年月日 | |
| 国籍 | |
| 職業 | 写真家(元・撮影協力者)/指名手配犯 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 夜間撮影による“逆光記憶法”、および偽装写真流通網の構築 |
| 受賞歴 | 港湾都市写真賞、ほか |
大道寺 辰巳(だいどうじ たつみ、 - )は、の写真家である。通称「迷い網(まよいあみ)」として広く知られる[1]。
概要[編集]
大道寺 辰巳は、の写真家として知られ、特に夜間ストロボを“記憶の残像”として定着させる撮影法で名声を得た人物である[2]。
一方で、彼の名が全国に拡散するのは、数百枚単位で撮影データが不自然に改竄されていた件が発端とされる。最終的に彼は、身柄を求める報道とともに指名手配の対象となった[3]。
この二面性は、写真界の技術史を語る資料では“芸術家の偶然と犯罪者の意志の境界”として扱われることが多いが、同時に出典ごとに整合しない点も多い[4]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
大道寺は、に生まれた。父は港の機材修理工、母は区役所の窓口補助として働いていたとされる[5]。
彼が最初に“写真”へ執着したのは、の夏、彼が撮影した湿った防波堤の写真が、現像時に通常の8倍もの銀粒子密度で仕上がったと聞かされたことに端を発するとされる[6]。家族は原因を現像液の温度だと説明したが、後年、同様の現象が起きる条件が「温度だけではなく、換気量に依存する」ことが指摘されている[7]。
青年期[編集]
青年期の彼は、内の専門学校で写真撮影を学び、特に暗室管理に関心があったとされる。ある回想では、彼は暗室の湿度を「毎分1.3%の揺らぎに抑える」と記録していたという[8]。
頃、彼は当時まだ無名だった“逆光記憶法”の前身として、被写体に見えない角度で光を当て、シャッター速度を実測で「1/47秒」に揃える実験を繰り返していたとされる[9]。この数字は、彼が指導を受けたとされるの内部メモに残っているとされるが、メモの筆跡は複数人であるとの反論もある[10]。
活動期[編集]
、大道寺はフリーランスとして活動を開始し、企業の広報撮影と個人依頼の夜景撮影を両立した。撮影の発注が急増したのは、彼が撮影した港湾夜景が“空気の奥行き”を再現すると評されたためである[11]。
しかし、彼の作品展に出品された写真が、別案件で入手したはずのデータと一致する“取り違え”が発覚した。警視庁系の資料では、同一画素の再構成が「最小で23点」「最大で612点」行われていたと記載されている[12]。
それでも彼は作品賞を重ね、にはを受賞した。授賞式のスピーチでは、彼は「光は嘘をつかない」と述べたとされるが、同年の報道では“嘘をつくのは現像ではなく編集だ”とする別の発言も記録されている[13]。なお、この年、彼は撮影協力者として複数の外部委託契約を結んでおり、そこには撮影許可書の更新履歴が異様に短いものが混じっていたとされる[14]。
晩年と死去[編集]
、大道寺は指名手配の対象となり、報道番組では“カメラマン 指名手配犯”というテロップが繰り返し使われた[3]。
彼の最期は、公的には、都内の倉庫跡で死亡が確認されたとされる[15]。ただし写真界の非公式記録では、遺留品のフィルム缶が「計39本」とされる一方で、別の証言では「計41本」とされており、番号の付与が彼自身の癖に似ているとの見解がある[16]。
死因は“逃走中の転倒”とする説と、“撮影機材の不良による事故”とする説の両方が流通し、公式発表の文言と後追い記事で齟齬があると批判された[17]。
人物[編集]
大道寺は、理詰めのように見えながら、肝心な局面では感覚に寄るタイプであったとされる[18]。知人の証言では、彼は人の表情を“ノイズ”として読み取り、撮影前にカメラの設定をいったん全部「0」に戻す儀式をしていたという[19]。
一方で、彼の性格は極めて収集的でもあった。彼が携帯していたカードケースには、撮影許可に関するメモが“駅名→時刻→被写体距離”の順に並び、距離はメートルではなく「肘の開き」で記されていたとされる[20]。
作品の評価をめぐっては、彼は批評家に対して愛想よく見せつつ、実際には「批評文を読むときだけ、アイコンタクトを避ける」という奇妙な習慣が指摘されている[21]。この行動は、彼が“視線の角度”で相手の意図を推測していた可能性を示すものとして、研究者の間でもたびたび言及された[22]。
業績・作品[編集]
大道寺の業績は、技術的には“逆光記憶法”に代表されるとされる。これは、通常は失われるはずのハイライトを、現像段階の温度変化と現像時間の微調整で残し、結果として夜間の奥行きを強調する手法である[23]。
代表作として、写真集『』が挙げられる。収録作は合計とされ、うちは撮影現場の記録が欠落している。作家自身は「欠落は編集の自由である」と説明したとされるが[24]、後年の調査では、欠落分の画像が別の案件のサムネイルから復元されていた疑いが指摘された[25]。
また、彼の名で配布された“逆光記憶法の計測表”が、実は撮影現場の権限者の署名欄を偽装するための書式として転用されていたとする説がある。この点については、写真史研究では“成果の影がある”例として扱われることが多い[26]。
後世の評価[編集]
死後、大道寺の評価は分裂している。写真技術の文脈では、彼が夜間撮影の限界に挑んだ先駆者として位置づけられることがある[27]。
一方で法執行側の文脈では、彼の方法が“証拠の扱い”に関わりうるため、作品は慎重に扱われるべきだとされる[28]。このため、彼の作品展は各地で開催が検討された後に中止となるケースも多かったと報じられている[29]。
また、後世の評価で最も頻繁に引用されるのは、彼の遺したとされる「光は嘘をつかない。ただし、嘘は光の前に立つ」という断片である[30]。ただし、この言葉は書簡の原本が見つかっておらず、回覧文の出所が曖昧であるとして、引用の妥当性に疑義が呈されている[31]。
系譜・家族[編集]
大道寺家は港湾機材の修理を担ってきた家系であるとされる。父の名は(だいどうじ まさあき)と伝えられるが、戸籍の記録が一部欠損しており、氏名の表記ゆれも報告されている[32]。
また母の名は(だいどうじ さとみ)とされ、彼女は区役所の窓口で“写真撮影に関する申請書類”の整理も担当していたとされる。これにより、息子が許可関連の手続きに通じていた背景が説明されることがある[33]。
彼には弟がいたとされるが、弟の実名が出回っていない。代わりに、親族が語ったという「手元でシャッターを数え続ける人がいる」という伝承だけが残っている[34]。この語りは、作品の作風と家庭環境の関連を推測させる資料として用いられてきたが、裏付けは限定的である[35]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山下美咲『夜間写真の技術史と逆光記憶法』青葉出版, 2018.
- ^ K. Halpern, “Afterimages in Urban Nightscapes: The Daidōji Approach,” Journal of Applied Photonics, Vol. 12, No. 3, pp. 201-233, 2017.
- ^ 神奈川地方警察庁 編『デジタル改竄事案の実務報告:撮影データ復元と鑑識』警視庁警務研究所, 2020.
- ^ 佐伯倫太郎『芸術と証拠のあいだ:写真家事件の比較研究』筑波書房, 2022.
- ^ 大道寺家文書整理委員会 編『大道寺辰巳関係資料(草稿集)』横浜港湾資料館, 2019.
- ^ M. Thompson, “Lighting as Narrative: Misattribution Risks in Contemporary Photography,” International Review of Visual Forensics, Vol. 4, No. 1, pp. 55-79, 2016.
- ^ 中村克己『港湾都市の夜景が生む市場:写真賞と広告の接点』みなと総合研究所, 2016.
- ^ 柳田聡『“光は嘘をつかない”の来歴:引用史と出所問題』資料研究会紀要, 第27巻第2号, pp. 1-26, 2021.
- ^ R. Yamanaka, “Reconstruction Fidelity under Variable Developer Conditions,” Photographic Methods Letters, Vol. 9, No. 4, pp. 301-319, 2015.
- ^ (要確認)稲葉一馬『横浜の暗室文化と温度制御』横浜文化新書, 2009.
外部リンク
- 逆光記憶法アーカイブ
- 港湾都市写真賞 公式記録室
- 横浜映像技術研究会(資料閲覧)
- デジタル鑑識メモリアル
- 写真編集倫理協議会