天正五年の大飢饉
| 名称 | 天正五年の大飢饉 |
|---|---|
| 読み | てんしょうごねんのだいききん |
| 発生時期 | 天正5年(1577年) |
| 主な地域 | 畿内、東海道、北陸の一部 |
| 原因 | 冷害、河川輸送の停滞、寺社備蓄の偏在 |
| 死者数 | 推定8万4,000人から13万2,000人 |
| 関連文書 | 『御厨帳集成』、堺町年寄記録 |
| 後世の影響 | 備蓄制度、検見改革、飢饉絵巻 |
| 通称 | 米消えの年 |
天正五年の大飢饉(てんしょうごねんのだいききん)は、にからにかけて発生したとされる広域飢饉である[1]。戦国時代後期の物流再編と冷害、ならびに寺社の「米封じ」政策が重なって拡大したとされ、後世のでしばしば典型例として扱われる[2]。
概要[編集]
天正五年の大飢饉は、5年の夏から翌年春にかけて、近畿一円で米価が急騰し、農村の離散と都市の浮浪者増加を招いたとされる出来事である。京都・・奈良の三都市では、施粥所の設置件数が前年の4倍に達したとする記録が残る。
この飢饉は、単なる不作ではなく、・水系の舟運が「青潮」と呼ばれる異常濁水で数週間停止したこと、ならびに麓の寺社が年貢米を山上の貯蔵穴へ移したことが連鎖した結果であると説明されることが多い。一部の史料では、当時流行した「米が月を嫌う」という俗信が買い占めを助長したとも記されている[3]。
背景[編集]
飢饉の背景には、織田信長期の流通統制の余波と、諸大名が独自に発行した米切手の乱立があるとされる。とりわけの蔵米検査を担っていたは、気象不順よりも「秤の目減り」のほうが被害を大きくしたと奏上したと伝えられている。
また、沿岸の塩田が冬季に早凍結し、塩の生産が平年の68%に落ち込んだことから、保存食の需要が増大した。これにより、味噌・干魚・雑穀を巡る取引がの問屋街に集中し、米以外の食料まで連鎖的に高騰したのである。
経緯[編集]
1577年夏の不作[編集]
では梅雨明け後の強い北風が三度にわたり稲穂を倒伏させ、検地帳の記載では一反あたりの収量が平均1.8石から0.9石へ半減した。さらに、南部で「白い霜雨」が7日続いたという記述があり、これが地域ごとの種籾不足を深刻化させたとされる。
米封じと流通停止[編集]
の一部寺院が、疫病除けを名目に米俵へ朱印札を貼り、外部への持ち出しを禁じたことが流通停滞の引き金になったとされる。これに対しの豪商たちは、夜間に米俵へ蝋を塗って湿気をごまかす「蝋俵法」を編み出したが、重量不足がすぐ露見し、逆に市場の混乱を招いた。
都市部の暴動と施粥[編集]
京都では、南禅寺門前で炊き出しを待つ群衆が3,200人に達し、寺の鐘楼が整理券代わりに使われたとする逸話がある。なお、この鐘楼番号制は翌日には焼失したため詳細が不明であるが、後世の『都鄙米騒誌』では「日本初の番号札」として記憶されたと記されている[要出典]。
影響[編集]
この飢饉を契機として、の領主層は初めて広域備蓄の必要性を認識したとされ、では「三年蔵」の整備が進められた。蔵の扉には盗難防止のためではなく、湿度の測定に用いる青麻布が吊るされ、毎朝の色変化で開閉時期を判断したという。
社会的には、飢えた農民がまで押し寄せるのを防ぐため、町組ごとに「一日一椀」の配給が導入され、後の町政運営に影響を与えたとされる。また、一部の僧侶が飢民に麦粥を配る際、粥の濃度を巡って宗派間対立が起こったことから、のちの・間の炊き出し協定にまで話が及ぶことがある。
研究史・評価[編集]
近代以降、この飢饉は東京帝国大学史料編纂所のによって再検討され、従来の冷害説に対し「物流災害複合説」が提唱された。白川は、飢饉の重篤化は収穫量そのものよりも、・琵琶湖間の舟運における樽の浮力規格が統一されていなかったためだと論じ、学界に波紋を広げた。
一方で、のは、飢饉をめぐる史料の多くが後世の講談や町触れに由来することを指摘し、実態は「天正五年の広域食糧不安」に近いとする説を有力視した。なお、2011年刊行の『戦国米価変動史料集成』では、飢饉の犠牲者数に関する記述が章ごとに1万単位で揺れており、統計精度の問題が残されている。
関連する制度と文化[編集]
飢饉後、では米俵の規格を「八合縄」で統一する試みが行われ、俵に巻かれた縄の数で品質を判定する慣行が広まった。これにより、米商人は見た目の体積ではなく、叩いた音で内容物を識別する「俵耳」を鍛えるようになったと伝えられる。
また、各地で作成された『餓鬼絵図』は、痩せた農民を仏教的な餓鬼として描く独特の様式を生み、派の粉本に影響したという説がある。とくにの一枚絵には、空腹の武士が櫓の上から粥鍋を数える場面があり、後世「飢饉風俗画の傑作」とされた。
脚注[編集]
脚注
- ^ 白川英次郎『天正五年食糧変動の地域差』史学雑誌 Vol. 112, No. 4, pp. 233-261, 2003.
- ^ 森岡彩子『戦国後期における米俵流通と宗教施設』日本経済史研究 第18巻第2号, pp. 41-79, 2008.
- ^ 中川主馬記録校訂会『御厨帳集成 第三冊』思文閣出版, 1999.
- ^ H. Thorne, “Weather Irregularities and Grain Hoarding in Late-Sixteenth-Century Kinai,” Journal of Asian Fictitious History, Vol. 7, No. 1, pp. 15-39, 2015.
- ^ 渡辺精一郎『飢えと秤の戦国史』岩波書店, 1978.
- ^ 佐久間里枝『青潮現象と内陸物流の断絶』歴史地理学 Vol. 54, No. 3, pp. 88-114, 2011.
- ^ K. Meredith, “Monastic Rice Seals and the Regulation of Hunger,” Medieval Food Studies Review, Vol. 22, No. 2, pp. 102-130, 2019.
- ^ 大坂府立史料館編『天正米価日録』大阪歴史叢書, 1986.
- ^ 木村宗太郎『番号札の誕生と鐘楼管理』都市文化研究 第9巻第5号, pp. 201-219, 2005.
- ^ 『戦国米価変動史料集成』第2巻、国史叢書刊行会, 2011.
外部リンク
- 国立飢饉史アーカイブ
- 戦国食糧事情研究会
- 堺町年寄文書データベース
- 近世物流異変年表
- 東洋災害史オンライン