天野町
| 名称 | 天野町 |
|---|---|
| 読み | あまのちょう |
| 英名 | Amano Town |
| 分類 | 仮想集住区画・都市計画概念 |
| 提唱 | 京都府地形復元研究会 |
| 成立年 | 1928年頃 |
| 主な舞台 | 京都市、滋賀県大津市、東京市郊外 |
| 用途 | 地籍整合、景観誘導、共同体再編 |
天野町(あまのちょう)は、の古層地名を起源とする上の単位、またはそれを再現するために設計された仮想的な集住区画である。末期にの測量技師らによって概念化されたとされる[1]。
概要[編集]
天野町は、もともとの呼称ではなく、斜面地と水路網をひとまとめに管理するための行政・技術用語として扱われた概念である。名称の由来は、山腹に現れる細かな段丘と「天から降る雨を受ける町」という説明から来たとされ、古文書ではやなど表記が揺れている[2]。
一般には住宅地の名称と思われがちであるが、実際には系の地籍整理と、民間の景観保存運動が奇妙に接合して生まれた制度的な町である。戸数、井戸数、路地幅、共同洗濯場の位置まで規格化され、1933年時点では標準モデルが、路地幅、雨水桝と定められていたとする記録がある[3]。
歴史[編集]
起源[編集]
天野町の起源は、の山科測量所に勤務していた技師・が、豪雨後の崖崩れ調査の最中に「地名そのものを先に設計すべきだ」と提案したことにあるとされる。彼はの支線付近で記録した住民聞き取りをもとに、地名、排水、祭礼の順番を同時に決める「逆設計法」を考案し、これが後の天野町規格の原型になった[4]。
当初は西郊の一角に試験的に導入され、地番の重複を避けるために家屋より先に門柱が立てられたという。なお、門柱に貼る木札の文字数まで指定されたため、住民の間では「三行で暮らす町」と呼ばれた。
普及と制度化[編集]
6年にはとの合同会議で、天野町式の区画管理が水害対策と徴税の両面で有効であるとされ、やの一部で模倣事業が始まった。とくにの湖岸斜面では、天野町式の「階段状戸口」が採用され、郵便配達の遅延が平均短縮したと報告されている[5]。
一方で、街区を整えるほど自治会費が複雑化するという逆説も生じた。1941年には、町内会が「雨樋の共同所有権」をめぐって分裂し、天野町式管理が一部で忌避されたが、その分だけ学術的価値が高まったともいわれる。
戦後の再解釈[編集]
戦後になると、天野町は実体のある地名というより、との接点にあるモデルケースとして再解釈された。特にの都市史研究室では、1958年から「天野町復元計画」が進められ、失われた路地の音環境を再現するためにとの音を1時間ごとに記録する試みが行われた。
この計画は一見地味であったが、のちのの狭小地モデルや、の谷町系再開発に影響を与えたとされる。ただし、影響関係を示す一次資料の一部は焼失しており、研究者のあいだでは「天野町の方が先に有名になったのか、後から有名にされたのか」が未解決の問題として残る。
構造[編集]
天野町の特徴は、中心広場ではなく「雨待ちの空き地」を核に据える点にある。空き地は通常以上であればよいとされたが、実際には風向きに応じてへ拡張されることが多く、面積よりも水たまりの形状が重視された。
また、各戸は通りに面した表札ではなく、裏路地側の「裏名札」を持つことが推奨された。表札が公称名、裏名札が通称名であるため、同じ家が三つの呼び名で管理されることもあり、戸籍係が最も嫌がった制度の一つである。なお、裏名札にのみを使う慣習は、昭和後期の景観運動で復活したとされる。
社会的影響[編集]
天野町は、都市の整然さよりも「雑然とした整合」を目指す思想として評価された。これにより、のらは、道路幅が均一でない住宅群を「天野町的」と形容するようになり、これは1970年代の設計雑誌で一種の流行語となった。
また、観光資源としての影響も大きく、やの一部では、実在の古い町並みを天野町風に整える「準天野化」事業が行われたという。看板の高さ、犬走りの幅、雨戸の閉まる向きまで行政指導の対象となり、住民からは「美しいが、住みにくい」との評価が多かった[6]。
批判と論争[編集]
天野町には、当初から「地名を先に決めると人が後から従うしかなくなる」という批判があった。これはのが1952年の講演で述べたもので、彼は天野町を「住民の自由を景観に封じ込めた装置」と断じている[7]。
これに対し支持派は、天野町は統制ではなく、災害時に連帯を生みやすい「弱い規格」であると反論した。ただし、実際の復元地では祭礼の担い手が不足し、年に一度ので役員が足りず、くじ引きで隣接町会から助っ人を借りる例もあった。こうした運用の曖昧さが、天野町の魅力でもあり欠点でもあった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『天野町地形復元案』京都府地形復元研究会, 1929年.
- ^ 黒田文彦『町名と住民統制の比較民俗学』民俗叢書社, 1953年.
- ^ 佐伯ミチル『準天野化と戦後住宅景観』建築文化社, 1971年.
- ^ Harold P. Benson, "Hydrological Naming and the Aesthetic Ward", Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 3, pp. 41-68, 1964.
- ^ 松井静香『路地幅一・八メートルの思想』京都景観研究所出版部, 1982年.
- ^ Eleanor R. Pike, "Reverse Planning in Prewar Japan: The Amano Case", Asian Urban Studies Quarterly, Vol. 8, No. 1, pp. 5-29, 1978.
- ^ 『天野町復元計画報告書 第4巻』東京大学都市史研究室, 1959年.
- ^ 中川一成『雨待ち広場の社会学』新潮学術文庫, 1990年.
- ^ T. Nakahara, "Informal Address Systems in the Kansai Hills", Proceedings of the Institute for Civic Cartography, Vol. 3, pp. 102-119, 1987.
- ^ 『準天野化事業の実務と課題』国土景観局資料集, 2004年.
外部リンク
- 京都府地形復元研究会アーカイブ
- 天野町復元地図デジタル館
- 日本準天野化推進協議会
- 都市路地景観資料室
- 仮想町名年表データベース