女囚全裸検査
| 名称 | 女囚全裸検査 |
|---|---|
| 別名 | 無装検、白紙点検、裸身確認式 |
| 起源 | 1908年ごろの東京府監獄局内規 |
| 主な実施機関 | 東京府監獄局、内務省衛生課 |
| 対象 | 女子監獄・拘置所の収容者 |
| 目的 | 隠匿物検査、皮膚疾患の判定、規律維持 |
| 廃止 | 1949年の矯正衛生基準改正 |
| 関連文書 | 監獄検査式第17号、白布運用心得 |
女囚全裸検査(じょしゅうぜんらけんさ、英: Naked Inspection of Female Prisoners)は、女囚の身体寸法と所持品の隠匿技術を同時に確認するために行われたとされる上の検査方式である。主として末期から初期にかけて系の施設で試行され、その後は制服規定と健康診断を兼ねた独特の儀礼として知られた[1]。
概要[編集]
女囚全裸検査は、女囚の身体に付着した粉末・染料・微小な封書片を発見するため、衣服を完全に脱がせて行う検査であると説明されることが多い。もっとも、実際には、、の三つが奇妙に混ざった制度であり、検査そのものよりも「羞恥を均質化することで反抗を抑える」効果が重視されたとされる[2]。
この制度は、の民間産婆会が提唱した「隔離衣の通気性問題」への対策を、が半ば転用したことから始まったという説が有力である。ただし、当時の記録の多くは焼失しており、残された文書も検査手順の欄だけが妙に丁寧で、肝心の導入理由が毎回ぼかされている点が特徴である。
歴史[編集]
起源と制度化[編集]
最初の実施は、下の女子拘置場で行われたとされる。発案者は獄医のと看守長ので、両者が「衣類に頼らぬ検査」の必要を主張したことがきっかけとされる[3]。
制度化の契機となったのは、で摘発された偽薬事件で、押収された粉末が囚人の髪飾りに隠されていたことから、身体表面を含めた総合点検が求められたという。これを受けては、白布一枚と木製番号札を用いる標準手順を策定し、検査担当者には半年ごとの筆記試験が課された。
拡大と標準化[編集]
期に入ると、この検査は女子監獄だけでなく、仮置き場や巡回看守所でも導入された。特にでは、検査室の壁を乳白色に塗ることで被検査者の緊張を下げるという独自方式が採用され、これが「白室方式」と呼ばれた[4]。
一方で、の施設では身長ではなく肩幅を基準に検査台の高さを決めるという珍妙な改良が行われ、結果として小柄な受刑者ほど検査台がやや高くなるという逆転現象が生じた。監獄年報には「効率は向上したが、笑いをこらえる看守が増えた」との記述がある。
終焉[編集]
後、の衛生監査との再編を受け、女囚全裸検査はの通達で段階的に廃止されたとされる。代替として、衣類検査と問診票による「静態確認法」が採用された[5]。
ただし、地方の一部施設ではごろまで慣習的に続いたとの証言があり、特にの旧分所では、検査の前に必ず湯飲み一杯の麦茶が出されたため、受刑者の間では「麦茶式」とも呼ばれていた。
制度の内容[編集]
検査は通常、三名一組で行われた。すなわち、確認係、記録係、そして「目をそらさない係」である。前二者は公務員だったが、最後の一人だけは無駄に視力検査が厳しく、以上の視力を持つ者に限定されたとされる[6]。
手順は、所持品を回収したのち、両手、耳介、足底、頭髪の順に点検し、最後に「異常なし」を意味する木札を胸前に掛けるものであった。なお、年代によっては体温測定が先に行われたため、検査の順番だけで施設の近代化度合いが分かると、当時の行政官は真顔で述べている。
また、女囚の羞恥反応を数値化するため、以降は「静粛指数」が導入された。これは検査室内で聞こえる布擦れ音の回数と咳払いの回数を合算したもので、平均は、もっとも高い月はを記録したという。
社会的影響[編集]
女囚全裸検査は、単なる収容者管理を超えて、との接点を生んだとされる。これにより、女囚の健康状態は「治療可能な身体」として把握されるようになり、女子監獄内に簡易の皮膚科外来が設けられた施設もあった[7]。
一方で、検査を受けた元受刑者の証言には強い反発も見られる。とくにの元洋裁工は、検査で身体の左右差を詳細に記録されたことが、その後の服飾業再就職に役立ったと語る一方、「役立ったのが腹立たしい」と回想している。こうした曖昧な評価が、この制度の奇妙な後世像を形作った。
また、戦後の婦人雑誌では、この制度が「監獄式ボディチェック」の先祖であると紹介され、民間の健康診断パンフレットに検査姿勢の図版だけが流用された。図版の脚注には「検査の目的は異なる」と小さく書かれていたが、実際には誰も読んでいなかったとされる。
批判と論争[編集]
導入当初から、女囚全裸検査には宗教界と女性団体の双方から批判があった。とくにの一部は、検査が「身体の防犯」ではなく「規律の演出」に偏っていると指摘し、代替案として厚手の麻衣と金属探知棒の併用を提案した[8]。
他方で、保守派の行政官は「服を着たままでは隠匿の八割が見逃される」と反論し、実地試験の結果として、検査導入後の小型刃物発見率がからへ上昇したとする統計を公表した。ただしこの数値には、検査前に看守が机の引き出しまで調べた分も含まれていた可能性があると後年指摘されている。
論争の焦点は、検査の是非そのものよりも、検査記録に残された表現の過剰な品位にあった。たとえば、ある年報では被検査者の体格を「冬瓜状」「改良梨型」と分類しており、編集委員会で3時間にわたり果実の定義が議論されたという。
代表的な検査方式[編集]
女囚全裸検査には複数の流派があった。東京式は迅速さを重視し、検査台の回転数で一日あたりの処理人数を稼ぐ方式で、平均処理数は一班あたりであった。大阪式は羞恥軽減を理由に検査室の照度を落とし、その代わり記録係の筆圧を上げることで精度を確保したとされる[9]。
京都式は例外的で、検査前に必ず身分札の裏へ和歌を一首書かせる風習があった。これは「言葉を先に裸にすることで、身体の検査を穏やかにする」という高尚な理屈に基づくものだったが、実務上は字のうまい受刑者だけが妙に高く評価される副作用を生んだ。
さらに、の冬期運用では、室温が低すぎて検査時間が短縮され、結果として「確認するより先に震えで異常が分かる」と看守が豪語した記録がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高橋静馬『監獄検査式の理論と実際』東京府監獄局出版部, 1912年.
- ^ 三宅ハル『女子拘置場における衛生点検記録』内務省衛生課, 1915年.
- ^ M. A. Thornton, "Unclothed Inspection and Institutional Hygiene in Early Modern Japan", Journal of Penal Medicine, Vol. 8, No. 2, 1936, pp. 114-139.
- ^ 島田キク『服飾工から見た獄内身体計測』浅草文化研究会, 1941年.
- ^ 東京府監獄局編『白布運用心得 第17号』官報附録, 1924年.
- ^ 佐伯義隆「女子監獄における静粛指数の算定」『衛生行政研究』第12巻第4号, 1933年, pp. 201-219.
- ^ Eleanor W. Finch, "Shame, Discipline, and the Female Body: Notes from Yokohama", Proceedings of the International Society of Correctional History, Vol. 3, 1952, pp. 44-61.
- ^ 内務省衛生課監修『監獄検査の変遷』日本行政学会叢書, 1950年.
- ^ 渡辺精一郎『大正期女子監獄の照度と心理反応』帝都衛生評論社, 1929年.
- ^ 市川冬彦『改良梨型分類表について』国立矯正資料館紀要, 第5巻第1号, 1938年.
外部リンク
- 国立矯正史資料室
- 東京近代監獄アーカイブ
- 女子衛生制度研究会
- 白布規格保存協会
- 帝都行政年報データベース