妄想感傷代償連盟
| 名称 | 妄想感傷代償連盟 |
|---|---|
| 略称 | MGDL |
| 設立 | 1926年頃 |
| 設立地 | 東京府下谷区・神田周辺 |
| 解散 | 1938年頃(事実上) |
| 主な活動 | 感傷の記録、代償詩の配布、夜間座談会 |
| 機関誌 | 『代償月報』 |
| 加盟者数 | 最盛期で約1,420名 |
| 関係分野 | 文学史、都市民俗学、心理療法史 |
妄想感傷代償連盟(もうそうかんしょうだいしょうれんめい、英: Delirious Sentimental Compensation League)は、によって日常生活に支障をきたす者に対し、を通じた感情の代償処理を提供するとされる相互扶助組織である[1]。主として末期の下町で成立したとされ、後に各地の文学青年や演芸関係者のあいだで秘かに流通した[2]。
概要[編集]
妄想感傷代償連盟は、失恋、失業、進学失敗、家族不和などによって生じた感傷を、共同の妄想作業によって中和することを目的としていたとされる団体である。会員はに感情の種類を書き込み、に納めてから、別室で「代償譚」を3分間朗読する慣行を持っていた[1]。
この方式は一見すると奇妙であるが、当時のにおける下宿文化、安価な印刷術、喫茶店ネットワークの発達と結びつき、半ば実用的な都市習俗として広がったとされる。一方で、医師のが1929年に「過剰な内省を制度化しただけ」と批判した記録もあり、初期から評価は分かれていた[2]。
歴史[編集]
成立の背景[編集]
通説では、連盟の原型は夏、の古書店「三叉堂」裏の二階座敷で、若手詩人の、速記記者の、雑誌編集者のらが始めた夜会に求められる。彼らは当初、失恋話を語るだけの集まりであったが、参加者の涙量が一定を超えると配布される菓子の消費が増え、結果として会費収支が安定したため、制度化が進んだとされる。
また、末から初期にかけて流行した自助・修養運動の影響も大きい。とりわけの演芸場で行われていた「愁嘆節の即興置換」が連盟の形式面に影響を与えたとされ、には既に「感傷を共同体で再配分する」ことが一種の都市倫理として語られていたという。
機関誌と組織拡大[編集]
、連盟は機関誌『代償月報』を創刊した。編集はの下宿「鷺澤荘」で行われ、1号あたりの発行部数は初刷で780部、増刷後は最大で2,300部に達したと伝えられる[3]。内容は代償詩、感傷計算表、失われた恋愛の再配分図などで構成され、特に「他人の悲しみを自分の悲しみで割る」式が学生層に受けた。
には、、に支部が置かれ、支部長はいずれも元俳句同人または元郵便局員であったという。なかでもは港湾労働者向けに夜勤後の代償講座を開き、1回あたり平均26名が参加したと記録されているが、この数字は後年の回想録でやや誇張されている可能性がある。
終息と継承[編集]
連盟は以降、戦時体制の強化とともに活動を縮小し、翌には事実上の活動停止に至ったとされる。理由については、集会が「非生産的な感情の交換」とみなされたこと、ならびに紙資源統制の影響が指摘されている[4]。ただし、実際には地方支部の一部が「感傷の家計簿」という名目で細々と存続していたとの証言もある。
戦後になると、連盟の手法は文芸同人誌やカウンセリング文化の一部に吸収されたほか、の学生演劇において「代償朗読」として再解釈された。特にの小劇場界隈では、観客が自分の失恋を匿名で投函し、それを役者が即興で朗読する形式が流行したという。
運動の方法論[編集]
妄想感傷代償連盟の中核には、感情を抑圧するのではなく、別種の物語に置換して流通させるという考え方があった。これを「代償化」と呼び、会員は毎月1回、三段階の手続きを踏んだ。第一に、個人史を100字以内で圧縮する。第二に、架空の親友、架空の故郷、架空の恩師のいずれかを設定する。第三に、その架空存在に自分の喪失を肩代わりさせるのである。
この方法は、当時の心理学界からは非科学的とみなされた一方、のカフェ文化では妙に実践的と受け止められた。喫茶店「月光館」では、連盟式の代償会を導入した週の売上が平均18%上昇したとされ、店主のは「泣いた客は必ず二杯目を頼む」と証言している[5]。
社会的影響[編集]
文学への波及[編集]
連盟の語彙は昭和初期の同人誌に広く流入し、特に「感傷を代替する風景描写」や「妄想による補助線」といった表現が定着した。これにより、私小説の一部がやや過剰に多世界化したとする批評もある。また、風の文体に見せかけた連盟流散文が、地方の投稿欄でしばしば採用されたという。
の『文藝季評』では、匿名評論家が「連盟は近代日本が感情を会計処理しようとした最初の試みである」と述べているが、これは後世の研究者から「会計処理の比喩が雑すぎる」とも評された。
都市文化と流行[編集]
都市部では、失恋直後に菓子店へ寄り、紙片に未練を書いて木箱へ入れる「代償菓子」の習慣が広がったとされる。とりわけの映画館街、の古書店街、の喫茶店街で確認例が多く、1940年代まで一部の常連客に継承されたという。
また、連盟の印章は、円環の内側に三つの涙滴を配した図案で、後年の同人誌やライブハウスのフライヤーにしばしば模倣された。特にの学生運動期には、意味もなく悲壮感のある標語として引用され、当局の立場からは「感情の連帯を装う遊戯」として警戒された。
批判と論争[編集]
連盟に対する批判は、成立当初から存在した。医学者のは、感傷を共同化する行為がかえって自己憐憫を増幅させると論じ、の講義録で「情緒の共同貯蔵庫」と揶揄した[6]。一方で、文学者のは「悲しみを個人所有にしておく方がむしろ不自然である」と反論している。
また、後年の研究では、連盟の会員数や支部数について相互に矛盾する記録が残っており、実態は小規模なサークル群の総称にすぎなかった可能性もある。ただし、の警察資料に「感傷談義会」として6件の記載が見えることから、少なくとも当局が何らかの実在組織として把握していたことは確かである、という説もある[要出典]。
再評価[編集]
以降、連盟は都市伝説的な文芸史の題材として再評価された。とくにの分野では、感情を交換価値に変換する儀礼として注目され、の共同調査でも散発的に取り上げられたという。
になると、若年層のインターネット文化において「妄想感傷代償連盟」という語感そのものが独立した美学として消費され、実体を知らずに引用する事例が増えた。ある研究会では、名称の響きだけで会員が27名集まったと報告されており、これは理念よりも語の圧によって存続した稀有な団体であったことを示している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 久保田晴彦『代償と妄想の都市史』青陵書房, 1984.
- ^ 篠田周三「感傷共同体の心理学的限界」『精神医学雑誌』Vol. 14, No. 3, pp. 201-219, 1930.
- ^ 高見沢末治『代償月報総目録』三叉堂出版部, 1936.
- ^ Margaret L. Thornton, "Compensation by Reverie in Interwar Tokyo" Journal of Urban Folklore, Vol. 8, No. 2, pp. 44-67, 1979.
- ^ 水無瀬きぬ『涙の配給とその周辺』白鷺社, 1958.
- ^ 佐伯和夫「連盟印章の図像学」『近代図像研究』第5巻第1号, pp. 12-31, 2001.
- ^ Jean-Paul Lefèvre, "Sentimental Accounting and Fictional Kinship" Revue d’Asie Imaginaire, Vol. 22, No. 1, pp. 5-29, 1994.
- ^ 久我崎倫太郎『下町妄想論』東都文庫, 1933.
- ^ 『代償月報』復刻版編集委員会『妄想感傷代償連盟資料集』港南堂, 2012.
- ^ 山根光一「“感傷の家計簿”再考」『日本都市文化史年報』第18号, pp. 77-96, 2016.
外部リンク
- 国立架空文書館デジタルアーカイブ
- 東京近代感情史研究会
- 代償月報復刻プロジェクト
- 神田都市民俗資料室
- 下町妄想文学館