存在しない言葉
| 分類 | 言語社会学的現象 |
|---|---|
| 主な媒体 | 口伝、チャットログ、規約文 |
| 初出とされる時期 | 1990年代後半(公的議事録では2000年代に確認) |
| 研究分野 | 言語学・計算社会科学・法言語学 |
| 関連する論点 | 検証不能性、責任帰属、生成誤作動 |
| 代表的事例 | 「第0条の単語」「空文献(くうぶんけん)」 |
存在しない言葉(そんざいしないことば)は、実体としては記録されないにもかかわらず、会話や文章の中で「存在する前提」で流通しているとされる概念である[1]。主に言語学と情報社会学の交点で研究され、都市伝説や法務文書の誤記などを媒介に社会へ影響を与えたとされる[2]。
概要[編集]
存在しない言葉は、実在の辞書や一次資料に残らないにもかかわらず、参加者の記憶や形式の再生産(引用、参照、要約)によって「そこにある」と扱われるとされる語彙現象である。とりわけ、契約・規約・運用手順などの文書体系において、存在しないはずの語が参照先として機能してしまう点が特徴とされる[1]。
この概念は、1998年に内の自治体で発生したとされる「施行細則の空参照」事件を起点として、言語学の領域へ持ち込まれた。事件では、条例の改正条文に「存在しない言葉(仮)」が織り込まれ、その後の説明会資料が“参照済み”の体裁を保ったまま配布されたとされる。これにより、言葉がないのに言葉が参照されるという逆説が、社会的な手続きにまで波及したのである[2]。
なお、存在しない言葉は必ずしも完全な無根拠ではないとされる。半ば近似する発音(たとえば方言差)や、類似語の誤変換、あるいは会議録の編集規則に起因する省略によって、結果として“存在しない”状態が固定化される場合があると推定されている[3]。この点で、現象は単なる誤記ではなく、集団が合意した「参照の癖」として説明されることが多い。
成立と研究史[編集]
起源:印字スキップの社会実装[編集]
存在しない言葉の起源として最もよく語られるのは、系の工事台帳で採用された“印字スキップ”運用である。1996年、台帳は手作業の負荷を下げる目的で、「変更のない欄は印字しない」ルールを導入したとされる。ここで、変更欄の見出しとして予定されていた語が、版面調整の段階で落ちたにもかかわらず、後続の様式が「当該見出しは存在する」と前提して組まれた結果、見出しだけが参照され続けたとされる[4]。
この運用が学術的に注目されたのは、1999年にの内部検討資料で、「“空欄参照”が学習されると、次の利用者は空欄を存在するものとして扱う」可能性が示唆されたことによる。資料では、被験者に対し「存在しないはずの見出し」を含むサンプルを提示し、8割以上が“見た記憶がある”と回答したと報告された。統計の出所が曖昧である点が、逆に後年の再現研究を呼び込むことになった[5]。
一方で、この起源説には異論もあり、「印字スキップ」より先に、の建築確認書類で発生した“空見出しの連鎖”が原型だったとする説もある。ただし同説は、当時の公文書の原本が現存するかどうかで争いがあるとされる[6]。
展開:都市伝説から法務文書へ[編集]
存在しない言葉が社会的に広まった転機は、2004年の“掲示板引用文化”の成立である。匿名掲示板では、体裁の整った引用形式を優先する傾向があり、原文に存在しない単語でも「出典として書かれている体裁」を保つ投稿が増えたとされる。すると、読者は引用元を“確認せずに”信じるようになり、結果として不存在の語が増殖した[7]。
2007年、の外郭団体である「契約文面改善委員会」が、標準契約書のテンプレートに存在しない語を補う作業を行ったことで、現象が法務領域へ移ったとされる。議事録によれば、委員は“当該条文の用語は既に市場で定着している”と主張し、用語集の更新が間に合わないことを理由に「暫定語」として採用したという。なおこの暫定語の語数は、当初の提案が13文字、採用時に編集者の手癖で11文字へ縮約されたと記録されている[8]。
社会への影響は、単語そのものより“運用”に現れた。存在しない言葉は、検索できないにもかかわらず検索の入口として機能し、結果として問い合わせ窓口への負荷が上がったとされる。ある自治体の担当者報告では、年度末に同名の照会が年間3,214件発生したとされるが、集計方法の内訳が公表されていないため、解釈は揺れている[9]。ただし、呼び方だけで手続きが回るようになった点が、本現象の本質だとする見方が強い。
研究の細部:再生産モデルと“0条”効果[編集]
計算社会科学の立場では、存在しない言葉は「確認不能な参照」が学習されることで保持されるとされる。特にの大学院研究チームでは、チャットのログから“言葉がないのに語が出現する”条件を抽出し、出現確率を0.17、保持率を0.63と推定するモデルが提案された[10]。この数字は小数点以下の桁にまで踏み込んでいるが、初期条件の置き方が複数あり、どれが妥当かは未確定とされる。
また、法言語学側では“0条(ぜろじょう)効果”と呼ばれる現象が注目された。これは、文書のどこにも明示されないのに、読者が無意識に「第0条にその定義がある」と補完してしまう状態である。補完が起きると、以後は補完された内容が“言葉の意味”として定着し、存在しない言葉の説得力が増すと指摘されている[11]。
この効果を説明するため、研究者の一部は「語彙の実在性」ではなく「参照の実在性」を重視する。言葉が辞書にないとしても、会議体や運用手順がそれを“参照している”限り、社会は言葉として扱うからである。したがって存在しない言葉の研究は、辞書編纂の問題に見えて、実際には組織運用と記憶の問題だとされる。
代表的事例[編集]
存在しない言葉の代表例としては、「」「」「」「」などが挙げられる。これらはいずれも、形としては定義文や用語として整っているにもかかわらず、元の出典が確認できない点で共通する[12]。
とくに“第0条の単語”は、行政の説明資料の注釈に頻出したとされる。注釈には「第0条の単語に従い、適用範囲を判断する」とだけ書かれており、肝心の第0条が本文に存在しない。にもかかわらず説明会では、参加者が「要は“それに当てはまるか”だよね」と即答してしまったとされる。このことから、存在しない言葉は内容より運用の合意によって成り立つと理解されるようになった[13]。
また、“空文献”は企業の社内規程で確認されやすいとされる。例としての研究所では、購買申請の添付書類名として「空文献第3号」が参照され、誰も手元に原本がなかった。にもかかわらず申請は通り、却って原本を探す行為が「手続きの遅延」とみなされたという。この逆転は、存在しない言葉が“意味”ではなく“手続きの合図”として機能していたことを示すとされる[14]。
社会的影響[編集]
存在しない言葉は、情報検索の期待を裏切ることで、かえってコミュニティ内の信頼や権威の再配分を促すことがある。たとえば、知っている人だけがスムーズに手続きを通せる状態が生まれ、“知らない者”は検索不能性によって不利になると指摘されている[15]。
一方で、当事者側には“言葉がないからこそ融通が利く”という便益もあったとされる。規約が曖昧なまま運用されることで、現場担当者は解釈を調整しやすくなるのである。ただしこの便益は、後から紛争が起きた際に責任追及の根拠が消え、結果として係争コストが増える方向へ働くことがあるとされる[16]。
さらに、近年の自動要約や文書生成の普及により、存在しない言葉が“それらしい定義文”として再生成されるリスクが議論された。研究報告では、要約システムが存在しない語を参照し続ける確率が2.4%上昇したとされるが、評価データのサイズが小さい点から、断定は避けられている[17]。それでも、存在しない言葉がデジタル文脈で増幅すること自体が、現象の拡張を示しているとされる。
批判と論争[編集]
存在しない言葉の定義をめぐっては、最初から議論が分かれている。言語学側では、ある共同体で一定期間“確かに参照された”なら、それは社会的な記号であり、存在しないとは言い切れないとする立場がある。逆に、法務文書の透明性を重視する立場では、根拠が確認できない語を認めることは危険だとされる[18]。
また、“嘘が流通すること”を面白がる風潮が、当事者の負担を軽視しているのではないかという指摘もある。たとえば、の窓口では「未登録推奨語」をめぐる照会が増え、対応時間が1件あたり平均12分上乗せされたという内部記録があると報じられた。ただし当該記録は出典が曖昧であり、のちに「推測の数値」であると訂正された[19]。
さらに、存在しない言葉が単なる誤変換や編集ミスで説明できるのではないか、という反論もある。これに対しては、偶発的誤りが繰り返されるだけでここまで固定化するのか、という問いが投げられている。最終的には、「誤りが繰り返される環境」こそが現象の主因であるとする折衷案が増えている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 中村ユウ『空欄参照の言語学:存在しない語が定着する条件』みすず書房, 2009.
- ^ Margaret A. Thornton『Verification-Impossible Vocabulary in Administrative Practice』Journal of Applied Linguistics, Vol. 41, No. 2, pp. 113-145, 2012.
- ^ 佐藤慎也『第0条の単語と手続きの合意形成』東京大学出版会, 2016.
- ^ 田中礼子『規約文における参照の連鎖』日本法社会学会紀要, 第28巻第1号, pp. 55-78, 2011.
- ^ Hiroshi Kobayashi『Memetic Persistence of Nonexistent Terms in Online Communities』Proceedings of the International Conference on Social Systems, Vol. 7, pp. 201-214, 2018.
- ^ 池田真理『編集規則が作る“読まれた事実”』筑波大学出版局, 2021.
- ^ 委員会(編集)『契約文面改善委員会 議事録・補遺(暫定語編)』法務省外郭研究資料, 2008.
- ^ 斎藤カナ『自治体説明会における空語の沈着』地方行政研究, 第19巻第3号, pp. 9-33, 2005.
- ^ Evelyn Park『Indexical Authority without Source Material』Linguistics & Law Review, Vol. 12, No. 4, pp. 77-96, 2014.
- ^ (書名が微妙に違うと指摘される)『存在しない言葉の形成論:空欄から始まる統計』文献社, 2010.
外部リンク
- 存在しない言葉アーカイブス
- 空参照アナリティクス研究会
- 第0条効果シミュレータ
- 法務テンプレート監査ポータル
- 言語社会学メモ倉庫