学校給食
| 正式名称 | 学校給食制度 |
|---|---|
| 初期提唱者 | 志賀 宗一郎 |
| 発祥 | 東京市本郷区 |
| 成立年 | 1931年頃 |
| 主管 | 文部省 学校食糧調整局 |
| 主目的 | 栄養均衡、規律訓練、余剰食材の再配分 |
| 代表的献立 | アルファベット型コロッケ、三色脱脂スープ、牛乳ゼリー |
| 関連施設 | 共同調理場、衛生視察室、昼食監査台 |
学校給食(がっこうきゅうしょく)は、において児童生徒へ一斉に提供される食事制度である。一般には改善のための制度として理解されているが、その成立は初期の「昼食統制実験」に由来するとされる[1]。
概要[編集]
学校給食は、からにかけて導入されることが多い一斉給食制度であり、近代日本の学校制度とともに整備されたとされる。もっとも、制度の原型は教育現場における食事ではなく、内の試験校で行われた「午前学習の持久力測定」にあるとする説が有力である[2]。
制度上は児童の健康増進を目的とするが、実際には献立の統一、配膳速度の規格化、そして「残食率の可視化」に強い関心が置かれていた。特にとのあいだで、昼食を教育か衛生かどちらの所管に置くかをめぐる綱引きが続き、結果として“食べさせること自体が教育である”という独特の行政解釈が生まれたとされる[3]。
歴史[編集]
試験的供食の時代[編集]
学校給食の起源は、にの私立尋常小学校で実施された「温食供与試験」にさかのぼるとされる。これは冬季に教室の温度がまで下がると児童の書字速度が平均で低下する、という校医の報告に基づき、粥状の炭水化物を昼前に配る実験であった[4]。
試験責任者であったは、米飯よりもパン、パンよりも“噛む回数が一定になる食品”を重視し、最終的に角形に切り出した副食を採用した。なお、この時点ではまだ「給食」という語は使われず、校内では俗に「昼の整列食」と呼ばれていたという。
戦時期の制度化[編集]
10年代に入ると、制度はを通じて半ば軍需行政の一部として扱われるようになった。ここで導入されたのが、食材ごとの色分け基準である。黄色はエネルギー、白は沈静、緑は反省、赤は再挑戦を意味し、献立表に四隅の小印として記されていた[5]。
この頃、の一部学校では牛乳瓶の代わりにアルミ製の筒容器が使われたが、ふたの形状が笛に似ていたため、昼休みになると児童が一斉に吹いて騒ぎ、翌月には「給食笛害」として局地的な問題になったと伝えられる。
高度成長期の拡張[編集]
後半からにかけて、学校給食は方式の拡大によって急速に普及した。とりわけでは、最大分の米飯を一括炊飯する「回転釜連結式厨房」が導入され、1釜あたりの湯気量をもとに翌日の献立を決めるという、きわめて経験則に頼った運用が行われた[6]。
この時期の象徴とされるのが、37年に登場した「三色脱脂スープ」である。赤、黄、緑の野菜を使うはずが、実際には食材の入荷差により白い大根が主役になり、最終的に“白にも三色はある”という標語が栄養指導室に掲げられた。
献立の体系[編集]
学校給食の献立は、単なる栄養計算ではなく、児童の心理状態と教室秩序を同時に調整するための「昼食設計」として発展したとされる。特に、、の三本柱は、曜日ごとの集中力変動を平準化する目的で採用された。
献立決定には、地方教育委員会の栄養士だけでなく、地区の、、さらには校内の飼育小屋管理係までが意見を述べたとされる。これは、食材が授業の延長線上にあるという独特の教育思想によるもので、実際には「月曜は硬め」「金曜はやわらかめ」といった教員の嗜好が強く反映されていたという[7]。
また、学校給食では「完食」よりも「返却時の静けさ」が重視され、食缶の蓋を閉める音の回数が少ない学校ほど、校長会で高評価を受けたという記録が残る。
衛生と調理場[編集]
共同調理場の発明[編集]
は、食中毒予防のために生まれたと説明されることが多いが、実際には教室で起きる「匂いの不公平」を是正する目的が強かったとされる。ある学校では、2階の教室にだけ揚げ物の匂いが届き、下階の児童が不満を訴えたため、建物ごとに匂いを均一化する送風管が設計された[8]。
この構想をまとめたのは、出身の建築衛生技師で、彼は「献立は食べる前にすでに平等でなければならない」と述べたと伝えられる。なお、彼の設計図には調理釜の隣に「静寂槽」という謎の設備が描かれている。
検食制度の拡張[編集]
検食は本来、毒見に由来するが、学校給食ではやがて「味の基準化」のための制度へと変質した。校長または教頭が最初に食べる慣習は、味見ではなく、児童に対して“教師も同じものを食べる”という安心感を与える儀式だと解釈されるようになった[9]。
のある学校では、検食担当が毎回ノートに「今日のコーンフレークは第3理論に近い」と記していたという。これが何を意味するかは不明であるが、のちに校内流行語として「第3理論」が“やや固いが食べられる”の意に使われた。
社会的影響[編集]
学校給食は、児童の栄養改善だけでなく、地域経済と食文化の標準化に大きな影響を与えたとされる。たとえばでは脱脂粉乳の輸送網が整備された結果、学校周辺にだけ妙に直線的な道路が増えたとする都市伝説がある。またでは、献立表に登場した“煮込みうどんの日”を基準に、農家が収穫日を前倒しするようになったという[10]。
一方で、学校給食の存在は「家で食べる昼食」の価値を相対化したため、家庭科教育との摩擦を生んだ。家庭の味と学校の味が異なることにより、児童のあいだで「どちらのカレーが正統か」をめぐる小規模な宗派対立が生じ、これがのちの校内放送ドラマ『昼休み協定』の題材になった。
また、給食の時間に流されるの合図音は、全国の世代に共通する条件反射を形成したとされる。1980年代には、この音を聞くと無意識に背筋を伸ばす成人が増え、労働省の調査で「昼食前姿勢反応」として報告されたが、のちに要出典とされた。
批判と論争[編集]
学校給食には、栄養管理が強すぎて個人の嗜好を圧迫するという批判が早くから存在した。特にの「マーガリン境界事件」では、パンに塗る量が各校で0.3グラム単位に規格化され、児童が“塗り足りなさ”を訴えて校門前で即席の交換市を開いたことが知られている[11]。
また、アレルギー対応の拡充に伴い、献立の代替食が増えすぎて「元の料理が何だったか分からない」という問題も生じた。ある教育委員会では、えび除去の結果として出来上がった料理を「疑似かき揚げ」と命名したが、保護者からは「疑似である必要があるのか」との疑義が出された。
さらに、給食当番の衛生帽が学年によって形状を変えていたため、上級生ほど帽子が大きくなる“権威の可視化”が起きた。これに対し、の市議会で「帽子民主化条例案」が提出されたが、審議中に配膳時間となり、そのまま立ち消えになったとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 志村 恒一『学校食糧史序説』日本教育食糧研究会, 1968.
- ^ Margaret A. Thornton, "Measured Lunchtimes and Discipline in Early Urban Schools," Journal of Applied School Nutrition, Vol. 14, No. 2, 1979, pp. 88-113.
- ^ 高見沢 友二『共同調理場の建築衛生学』衛生建築社, 1957.
- ^ 文部省学校食糧調整局 編『昭和初期学校昼食試験報告書』大同館, 1934.
- ^ 北村 里美「給食献立における色彩分類の成立」『栄養と教育』第22巻第4号, 1986, pp. 41-59.
- ^ John P. Ellery, "The Politics of Milk Bottles in Japanese Classrooms," East Asian Public Meals Review, Vol. 8, No. 1, 1991, pp. 12-36.
- ^ 佐伯 恒一郎『完食主義の終焉と残食率の文化史』青弓社, 2004.
- ^ K. H. Wainwright, "Hygiene, Silence, and the School Kitchen," Culinary Administration Quarterly, Vol. 5, No. 3, 1972, pp. 201-219.
- ^ 『昼休み協定』制作委員会『校内放送と地域共同体の変容』東洋放送出版, 1998.
- ^ 渡辺 精一郎「マーガリン境界事件の行政史」『学校制度研究』第11巻第2号, 1980, pp. 5-27.
外部リンク
- 学校給食史資料館
- 全国共同調理場連盟
- 昼食監査アーカイブ
- 文部省食育史料室
- 日本学校配膳学会