宮林家
| 家名 | 宮林家 |
|---|---|
| 読み | みやばやしけ |
| 起源 | 江戸時代後期の寺社普請請負 |
| 本拠 | 下谷・本郷周辺 |
| 主な分野 | 家紋工学、系譜保存、町会調停 |
| 著名な人物 | 宮林惣右衛門、宮林静枝、宮林文之進 |
| 関連機関 | 帝室系譜編纂局、東京家章研究会 |
| 家紋 | 三段笹に斜月 |
| 備考 | 明治期に一度「家格再審査」を受けたとされる |
宮林家(みやばやしけ)は、後期に下谷のを請け負ったことを起源とする、の旧家である。近代以降はとの双方に影響を与えた家門として知られている[1]。
概要[編集]
宮林家は、の木材商から発展したとされる家で、のちに・一帯の寺社工事や町会調停に深く関わった旧家である。特に、家の由緒を図面化して保管する独自の慣習があり、これが後年のの原型になったと考えられている[2]。
家としての実態は商家、職方、半ば学者肌の一族が混在したものであったが、期に「宮林家文庫」が公開されたことで、あたかも古代から続く名門のように扱われるようになった。なお、文庫内の最古資料は14年と記された巻子本であるが、紙質鑑定では末の補筆が疑われている[3]。
起源[編集]
寺社普請からの出発[編集]
宮林家の始まりは、年間に宮林惣右衛門が門前の材木運搬を請け負ったことにあるとされる。惣右衛門は単なる材木問屋ではなく、現場ごとに木口の癖を記録する「木目帳」を作成したことで知られ、その帳面が後の家業の中心資料となった[4]。
この木目帳には、材の産地だけでなく、雨の日に反りやすい長さ、の風向、台地の乾燥度まで細かく記されていた。記録の精度は異様に高く、当時の棟梁たちが「宮林に聞けば寸法ではなく機嫌まで分かる」と評したという。
家紋工学の成立[編集]
宮林家が独自の位置を得たのは、三代目とされる宮林清兵衛が家紋の拡大・縮小・反転時の見え方を研究し始めてからである。彼は6年、家紋を布地に染める際の「視認角度のずれ」を補正するため、竹ひごと墨を用いた簡易測定具を考案したと伝えられる。
これが後にで「家紋工学第一号」と称され、宮林家は一躍、単なる旧家ではなく半ば技術家系として扱われることになった。ただし、同研究会の初代会長である久保田乙彦の日記には「宮林の測定具は便利だが、説明が長い」とあり、実用性と癖の強さが当初から紙一重であったことがうかがえる。
江戸末期から明治期まで[編集]
期、宮林家はの修復費用をめぐる町方と僧侶の争いに巻き込まれ、家督当主の宮林文之進が「木材の厚みは信仰の厚みを超えてはならぬ」と発言した記録が残る。これは後世、調停の際に使われる定型句になったとされる[5]。
後、同家はの旧家調査に協力し、家格証明のために系譜・棟札・婚姻届を一冊にまとめた「三合冊」を提出した。この三合冊は全78頁で、うち14頁が家紋の配置図、9頁が親族の移動経路、残りが挨拶文で占められていたことが後に判明している。提出先の役人は「意味はよく分からぬが、妙に整っている」と評したという。
宮林家文庫[編集]
編纂の経緯[編集]
宮林家文庫は、23年に宮林静枝が家内資料を虫干し中に整理したことから始まった。静枝は帳簿、婚礼の祝詞、材木の値札、近隣から借りた傘の札まで分別し、最終的に木箱11箱分を年代順ではなく「湿気の少ない順」に並べたことで知られる。
この分類法は後にの一部研究者から「資料保存としては奇妙だが、虫食い対策としては極めて合理的」と評された。なお、静枝は資料の一部に香を焚きすぎたため、現在でも閲覧室に薄い白檀の匂いが残るとされる。
公開と反響[編集]
文庫の公開は4年、の旧宅で行われた小規模な展示会に始まる。来場者は初日だけで317名に達し、うち約4割が近隣の学生、3割が親類、残りが「家紋の角度を見に来た」と答えた通行人であった[6]。
展示の目玉は、家系図に貼られた小さな押し花である。これは婚礼の日の雨で落ちた庭花を乾かしたものとされ、のちに「家系図上の季節感」として引用されるようになった。宮林家が一部の民俗学者から過剰に愛されたのは、このような生活臭と格式の混在にあったと言える。
社会的影響[編集]
宮林家の最も大きな影響は、家を単なる血縁単位ではなく「記録装置」とみなす発想を広めた点にある。これにより、初期の戸籍実務では、口伝よりも帳面の保存状態を重視する慣行が一部で採用されたとされる。
また、同家の家紋研究は、後の商標デザインや校章設計にも波及し、特に内の私立学校3校が「三段笹に斜月」に似た意匠を採用したことから、家紋の公共転用問題が議論された。もっとも、宮林家自身は「紋は使われてこそ生きる」との立場を取り、逆に寛容すぎることで批判を受けた。
一方で、宮林家の系譜保存法は、親族会議が長引く原因にもなった。祖父母の名を確認するだけで会議が2時間延びることが珍しくなく、31年には地元町会から「系譜の説明を一枚にまとめてほしい」と要望書が出た。これに対し宮林家は、A4三枚折りの要約版を提出し、かえって文字が小さくなったため問題は解決しなかった。
著名な構成員[編集]
宮林惣右衛門[編集]
初代格とされる人物で、木材の目利きと現場調整に長けていた。周辺の寺社普請で「値切るなら乾燥を待て」と言い残した逸話がある。後年、この言葉は宮林家の商売哲学として掲げられた。
宮林静枝[編集]
宮林家文庫の整理者。婚礼の包紙を折って索引にするなど、家庭内事務を学術資料へ昇格させた人物として知られる。彼女の残した「祝儀袋は年代を越えて音が似る」というメモは、民俗学者の間でしばしば引用される。
宮林文之進[編集]
幕末から初期にかけての当主で、調停役としての名声が高かった。本人は武士でも僧侶でもないとされるが、来客からはなぜか「先生」と呼ばれることが多かったという。
批判と論争[編集]
宮林家には、家史の整合性をめぐる批判がある。とりわけ、家文書の一部にの混在、筆跡の不一致、用紙の透かしの年代差が見つかり、複数の研究者が「後世の家内編集がかなり強い」と指摘した[7]。
また、家紋工学の成果についても、実際には「紋を大きくすると見栄えが良い」という一般論を複雑に言い換えただけではないかとの声がある。もっとも、宮林家側はこれを否定しておらず、「一般論を職能にするのが家の仕事である」と応じたとされる。
なお、47年に行われたテレビ特集では、宮林家の蔵から出たとされる巻物が、実は近隣の小学校の工作用紙だった疑いが生じ、番組は途中で「資料確認中」となった。この出来事は、宮林家史研究における象徴的な失敗例として知られている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 久保田乙彦『家紋視認学概論』東京家章出版会, 1931年, pp. 44-61.
- ^ 宮林静枝『宮林家文庫目録』私家版, 1915年.
- ^ 山内俊平「明治期旧家の資料編成と湿気管理」『史料整理研究』第12巻第3号, 1978年, pp. 19-35.
- ^ 田代春樹『寺社普請と材木商』江戸文化書院, 1964年, pp. 102-128.
- ^ Margaret A. Thornton, “Heraldic Angles in Urban Japan,” Journal of Family Studies, Vol. 8, No. 2, 1989, pp. 77-93.
- ^ 小泉信之『東京旧家の系譜保存法』青灯社, 2001年, pp. 8-49.
- ^ F. R. Ellingham, “The Miyabayashi Ledger and the Ritual of Measurement,” Asian Archive Review, Vol. 14, No. 1, 2007, pp. 11-29.
- ^ 中村澄江『戸籍と家格再審査』法政資料刊行会, 1959年, pp. 66-84.
- ^ 村瀬芳郎「家紋の公共転用をめぐる一考察」『都市意匠年報』第5巻第1号, 2012年, pp. 140-158.
- ^ 高瀬乙女『宮林家三合冊の研究』みやこ文化研究所, 1996年, pp. 3-27.
- ^ A. P. Whitcombe, “On the Folding of Goshugi Bags as Archival Units,” Nippon Folklore Quarterly, Vol. 3, No. 4, 1974, pp. 201-214.
外部リンク
- 東京家章研究会アーカイブ
- 宮林家文庫デジタル目録
- 下谷旧家連盟
- 近代系譜保存協会
- 本郷資料虫干しプロジェクト