小倉木葉
| 氏名 | 小倉 木葉 |
|---|---|
| ふりがな | おぐら こは |
| 生年月日 | 4月17日 |
| 出生地 | ・ |
| 没年月日 | 9月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 版画研究者、目録学者 |
| 活動期間 | 1906年 - 1957年 |
| 主な業績 | 『葉式目録』の編纂、保存用紙の規格提案 |
| 受賞歴 | 文化功労章(準)ほか |
小倉 木葉(よみ、おぐら こは、 - )は、の版画研究者。『葉(は)式』と呼ばれる分類法の考案者として広く知られる[1]。
概要[編集]
小倉 木葉は、日本の版画研究者として知られる人物である。彼女の名は、版画を「主題」ではなく「葉(は)」のような痕跡――刷りの圧、紙の繊維方向、インクの酸化層厚――に還元して分類した方法論によって広まった。
特に、図書館員や修復師の間で伝播した『葉式(はしき)』は、所蔵品の所在調査を飛躍的に短縮し、1940年代以降の展覧会運営にも影響を与えたとされる。もっとも、当初は「測るほど絵が死ぬ」と批判された記録も残っている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
小倉はのに生まれた。父は海軍被服修繕の臨時技師であり、家には「漂白液の濃度表」が貼られていたと伝えられる。彼女は幼少期から、瓶のラベルに記される「温度」「攪拌回数」「沈殿までの秒数」を暗記していたとされる。
、港湾で保管されていた旧版の湿気被害が発生し、版画の裏打ちが部分的に剥がれた。このとき小倉は、剥がれた紙片を顕微鏡で観察し、「繊維が右に曲がるほど、インクが先に老いる」ように見えたと後年語った[3]。この観察が、のちの分類法の“種”になったとされる。
青年期[編集]
1903年、18歳での私塾「織目(おりめ)研究塾」に入門した。師匠は目録学者のであり、彼は小倉に「見た目で並べるな、内部構造で並べろ」と口癖のように言ったという。小倉は反論する代わりに、修復用の紙を25種類、同条件で貼り比べる実験を始めた。
青年期の逸話として、『佐世保の砂時計は20分で止まらない』という噂がある。正確には彼女が砂時計を分解し、流路を0.8ミリ削った結果、予定より“長く”落ち続けたという記録である。研究ノートには「滴下点・37/64、室温・14.2度、層の境界が見えるまで112分」といった過剰な数値がびっしり書かれていたとされる[4]。
活動期[編集]
1906年に東京の古書目録課で働き始め、版画の目録作成に従事した。1912年にはで目録係として任用され、担当資料の重複照合に行き詰まる。そこで彼女は、版画の“主題名”ではなく、刷りの痕跡を段階的に読む方法を提案した。
この提案が『葉式目録』として体系化されたのは、の大改修期である。小倉は紙の繊維方向とインクの酸化層厚を、便宜上「葉脈指数」と名づけ、0.0〜9.9の小数で記す規格を作った。なお、最初に採用したサンプルは12点で、うち11点は修復師が“すぐ捨てると言った”品だったという[5]。捨てると言われた資料を救うことで、分類の正当性を体感させたと伝えられる。
その後の彼女は、展覧会の出品調整にも介入した。たとえばの秋季展では、到着が遅れた作品が“葉脈指数の近い別紙”に一時的に裏打ちされ、結果として展示時間を4日短縮したとされる。運営側は「科学の顔をした職人技だ」と感嘆したという。
晩年と死去[編集]
晩年の小倉は、弟子たちに測定器具の手入れ方法を細かく教えた。彼女は「汚れの粒径は、目録よりも嘘をつく」として、顕微鏡スライドを毎週“塩気の少ない水”で洗う手順を残した。
に公式職を退いたが、非公式にはの修復委員として関わったとされる。最晩年のノートには「葉脈指数が0.3違うと、同一版か別版かが変わる可能性がある」との一文があり、最終稿は“出し渋り”のまま終わったとされる[6]。
9月2日、ともとも異なる記録が同時に残る。戸籍上は生まれで計算すると79歳に近いが、学生時代の記録が混ざった写しが出回ったため、複数の数字が独り歩きしたと考えられている。
人物[編集]
小倉は温厚であるとされる一方、観察対象には容赦がなかった。彼女は人の作品にも、まず“測れるもの”を測らせる習慣があり、対話が始まる前に必ず紙の端をめくってしまう癖があったという。
性格の特徴として「例外を恐れない」傾向が挙げられる。葉式では本来、例外データは“誤差”として処理するのが普通であるが、小倉は例外を先に並べる方針を取った。結果として、通常なら見過ごされる微小な刷り違いから新しい制作年代の推定が生まれたとされる[7]。
また、彼女は食にこだわったとも記される。研究室では毎朝、うすい出汁で指先を拭き、インクの油分が指から移ることを防いだという。作業机には、なぜか砂時計が三個置かれており、そのうち一つは彼女自身が“削り直した”と伝えられる。
業績・作品[編集]
小倉 木葉の業績は、単なる分類法に留まらず、修復の運用設計へ波及した点に特徴がある。彼女は『葉式目録』(全3巻、巻末に測定表と機器保守手順を附した形式)を編み、版画資料を“紙とインクの状態”から記述する規格を確立したとされる。
代表的な著作として『刷り痕の葉脈指数』『酸化層の読み方――修復師のための便覧』『目録のための顕微鏡儀礼』などが挙げられる。とりわけ『目録のための顕微鏡儀礼』は、機器の扱いが精神修養に似ているとして、礼法めいた注意が多いことで知られる。
さらに彼女は“保存用紙の規格提案”を行った。提案書では、保管紙の灰分率を0.31%とし、初期のpHを6.8付近に設定することが推奨されたと記される。ただし当時の測定法の揺れもあり、後年の検証では再現性が一定しないと指摘された。なお、提案書の裏表紙にだけ「読めない字で書け」と注文が書かれていたという伝聞が残る[8]。
後世の評価[編集]
小倉の方法は、学術界では“目録学の拡張”として評価されている。特に、以降の修復・学芸員教育では、主題検索だけでなく状態記録を必須項目として扱う流れが強まり、葉式目録の記述形式が参照された。
一方で、彼女の分類が“測定のための測定”になり得る点が批判されることもある。「美術史の物語が、数値の棚に押し込められた」という指摘がなされ、研究者の間で議論が続いたとされる。また、葉脈指数の閾値(例:0.3差で結論が変わる)は、後の世代では“都合のよい神話”とされることもあった[9]。
ただし、実務面では効果が大きかったとする評価が多い。実際、修復現場の引き継ぎ時間が短縮され、破損や誤置換の率が下がったという報告が“葉式導入前後”で比較されているとされる。数字の精度は資料によって揺れるが、彼女の方式が現場の動線を変えたことは否定しにくいと考えられている。
系譜・家族[編集]
小倉家は代々、海運関係の文書整理に携わっていたとされる。父はの工場で被服修繕の工程表を管理しており、母は縫製の際に使う糸の種類を“温度で変える”習慣があったという。
小倉には弟が一人いたとされるが、弟の名前は資料ごとに異なる。ある記録では「小倉 清織」とされ、別の記録では「小倉 正司」とされる。いずれにせよ弟は顕微鏡の清掃担当だったとされ、彼女の逸話の多くが弟の証言に依拠していると説明されている。
また、彼女は生涯で結婚しなかったとする説と、晩年に“書架の管理者”と事実婚に近い形で同居していたという説がある。後者の資料では、同居相手の所属がと記されているが、裏付けが薄いとされる[10]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小倉木葉「『葉脈指数』導入の経緯」『目録学季報』第12巻第2号, 1926年, pp. 41-73.
- ^ 渡辺精一郎『分類は嘘を減らす』中央学術出版, 1931年, pp. 119-132.
- ^ 佐世保修復談話会「紙の繊維方向と体験知」『修復技術叢書』第3巻第1号, 1940年, pp. 9-27.
- ^ Margaret A. Thornton『Indexing the Invisible: Print Residues and Catalog Systems』Oxford University Press, 1952, pp. 88-104.
- ^ 川端真琴「『葉式』の数値閾値は神話か」『美術史研究』第27巻第4号, 1963年, pp. 201-239.
- ^ 高橋玲子『修復現場の引き継ぎ時間』日本文化管理協会, 1958年, pp. 33-51.
- ^ Ishii, H. “Oxidation Layer Reading for Archive Conservation” 『Journal of Paper Science』Vol. 8 No. 3, 1956, pp. 210-224.
- ^ 小倉木葉『目録のための顕微鏡儀礼』私家版, 1937年, pp. 1-64.
- ^ 国立図書館協会編集『目録運用規程集(第三次改訂)』国立図書館協会, 1950年, pp. 77-96.
- ^ Franz Meier『The Leaf Method in Print Classification』Cambridge Catalog Works, 1954, pp. 12-29.
外部リンク
- 葉脈指数アーカイブ
- 織目研究塾デジタル資料室
- 帝国図書館目録再構成プロジェクト
- 国立博物館修復記録データベース
- 顕微鏡儀礼コレクション