小小来来亭渡来俵以来都
| 分類 | 地名伝承(語彙複合型) |
|---|---|
| 想定される時代 | 期〜期 |
| 主な根拠とされる史料 | 板札・帳簿・寺院の寄進目録 |
| 関連する概念 | 渡来俵/以後(以来)/来来亭 |
| 研究上の扱い | 語源再構の対象(ただし解釈が割れる) |
| 最もよく引用される論点 | 都市成立が「俵」単位の租税制度と連動するか |
小小来来亭渡来俵以来都(こことらいらいていとらいひょういらいみやこ)は、主にの記録に見られるとされる地名・家格語彙の複合体である。官文書での用法は多層的で、同音異義の「以来(いらい)」が都市の成立譚と結び付くことで、後世の郷土史研究者に広く参照されたとされる[1]。
概要[編集]
小小来来亭渡来俵以来都は、「小(ここ)」「来(らい)」「亭(てい)」「渡来俵(とらいひょう)」「以来都(いらいみやこ)」という五要素が、後代の編集者によって一続きの語として整序されたものと説明されることが多い。表面上は地名のように読めるが、実態としては家・市場・寺社の寄進実務にまたがる用語集(実務語彙)として機能していた、とする見解がある[2]。
成立経緯は、が文化的交流を越えて「流通計量」へ転用された時期にまで遡る、とする説が有力とされる。具体的には、東方からもたらされた商品群に対し、在来の倉庫運用を保ったまま換算表(俵換算)を作る必要が生じ、そこに「来来亭」と呼ばれる小規模の計量場が設定された結果、次第に「以来都」という後続地名が語彙として定着したとされる[3]。
一方で、現場の呼称は音の類似で混線しやすく、たとえば「以来(いらい)」が「意頼(いらい)」「以来(いらい)」の書換で揺れたため、後世の編纂者が“きれいな一文”にしたのが小小来来亭渡来俵以来都だ、と指摘する研究者もいる。なお、この指摘は「要出典」的な扱いを受けつつも、学会発表ではしばしばユーモア混じりに引用されることがある[4]。
概要(用法と構成要素)[編集]
五要素は、単独で見ればそれぞれ別系統の語として成立していた可能性があるとされる。もっとも、最初期から一体化して用いられたと考える立場もあり、その場合「小小来来」は“量の小口対応”を意味し、「亭」は“計量や売買の区画”、「渡来俵」は“渡来貨物の換算単位”、「以来都」は“税の継続適用地”を指す、と説明される[5]。
たとえば寺社の寄進目録では、納入物の重さを俵数で記しつつ、俵換算を行った計量場を「来来亭」として欄外に記す慣行があった、とされる。ここで「渡来俵」は、実物重量ではなく“換算後の俵数”を強調する言い回しであり、結果として租税の請求が滑らかになる、と記録に見えることがある[6]。
都市名としての性格は薄いという見解もあり、その場合は「以後にわたって適用される徴収地」程度の実務的なラベルに過ぎなかったとされる。もっとも、そのようなラベルが地域の中心へ昇格するまでには時間がかかり、ある年代の年貢帳が“律令風に整形された”ことで、地名として後付けされたのではないかという疑いも提起されている。
歴史[編集]
語彙の誕生:計量場「来来亭」と俵換算の制度化[編集]
物語の起点として挙げられるのは、鎌倉末期に始まったとされる「渡来品の安定換算」構想である。沿岸の港湾では、同じ種類の品でも産地や保管法で体積・含水率が変動したため、税徴収担当が毎回“見た目”で揉める事態が起きたとされる。そこでという区画が設置され、俵数を決めるための“換算棒”と“乾燥砂時計”を備えた、と説明される[7]。
伝承では、換算棒は全部で17本、砂時計は3種類(速・中・遅)で、速は「二十六呼吸」、中は「百二十一呼吸」、遅は「四百七十四呼吸」だったという。数の整合性はさておき、記録が妙に具体的であることから、後世の編者が現場の道具説明を誇張したのではないかと議論されたという[8]。ただしこの誇張自体が、用語の権威付けに役立ち、「小小来来亭」という“微小取引に適した亭”という評価が付加された、とされる。
換算が定着すると、輸入品の納入は「渡来俵」で統一され、在来品は別の単位で扱うことで会計の混乱が減った。こうして“渡来品の俵”が実務語彙として広がり、やがて税の継続適用地を示す意味でが併記されるようになった、という筋書きが提示される。
都市の成立譚:『俵奉書』と「以来都」の誤読が生んだ町[編集]
次の転機は、南北朝期の文書とされる『俵奉書(ひょうぶしょう)』の出現である。『俵奉書』では、納入側が「以来都として納める」と記す箇所があり、当初は“以後の徴収に向けた手続の指定”だったと解釈されていた。しかし後世の書写者が「以来都」を地名だと誤読し、京都周辺の「都」という語感に引き寄せられたことで、実体のない都市が作られていった、とする説がある[9]。
面白いのは、この誤読が偶然の統計と結び付いた点である。伝承では、俵換算が適用された年の翌年、徴収額がちょうど「1,004俵分だけ」増えたとされる。研究者の一人は、増加幅が“偶然にも「都」の文字数と一致”したことを手がかりに誤読が広がった、と述べたとされるが、当該発言は出典不明である。とはいえ、要出典レベルの怪しさが、語彙研究の場ではなぜかウケたという[10]。
結果として小小来来亭渡来俵以来都は、地名のように扱われるようになった。特に市場の町側は、名乗ることで自分たちの正統性(“来来亭の計量権”)を主張できたため、誤読を歓迎する動機があったとされる。一方で、港湾行政側は“手続指定”の意味が薄れていくことを問題視し、帳簿の表記統一を求めた。しかし統一の試みは、書記の筆癖による揺れで破綻し、語が肥大化したと説明される。
近世への継承:幕府文庫の編纂者が作った「一行史観」[編集]
近世になると、幕府の検地・商取引の整備の過程で、過去の換算慣行が参照されるようになった。そこでの書庫では、語彙を“読みやすい一文”へ整える編集方針が取られた、とされる。具体的には、古文書の断片に散らばっていた「小」「来」「亭」「渡来俵」「以来」を、余白の少ない形式に押し込んで小小来来亭渡来俵以来都として保存した、という筋書きがある[11]。
編集者の架空の通称として「字詰め侍(じづめざむらい)」が語られることがある。彼らは“何でも一行にまとめる癖”を持ち、結果として実務語彙が地域伝承へ転用されやすくなったとされる。なお、通称の根拠は『幕府文庫目録(内題抄)』の脚注とされるが、脚注自体が後補の可能性も指摘される[12]。
このように、都市名らしい見た目が先に定着したため、後世の郷土史家は「以来都を特定せよ」と競い合うようになった。その結果、同じ語が複数の候補地へ割り当てられ、実在の地名(たとえば大阪府の一部や長崎市周辺の港町)に“似た漢字列”を当てて説明する風潮が生じた。ここから「来来亭の後裔が残っている」といった民間伝承が増殖し、学術と伝承の境界がゆらいだ、とまとめられることが多い。
社会的影響[編集]
小小来来亭渡来俵以来都の最大の影響は、税と取引を“言葉で固定する”という発想を強めた点にあったとされる。俵換算のような実務が、語彙体系として整備されると、異なる港・倉・市場が同じ単位で語れるようになる。結果として、紛争の処理が定型化され、商人の取引コストが下がった、と評価されることがある[13]。
また、語が地名として扱われるようになると、そこには“商いの中心へ向かう心理”が発生した。人々は、があるとされる場所へ行けば「正しい換算」に辿り着けると期待し、行商のルートが変わったとされる。実務的には単なる呼称でも、社会的には信仰に近い機能を帯びた可能性がある、という見方がある[14]。
さらに、後世の教育現場では、複合語の読み下し問題として取り上げられた。学校の先生が「小小は小口、小口は小利」と韻を踏むように説明し、子どもたちは語の音を暗記したという逸話が残っている。こうした“学習の儀式”が、誤読の定着を加速させたという指摘もある[15]。
批判と論争[編集]
もっとも大きな批判は、小小来来亭渡来俵以来都が“出自の違う語彙を一本化した編集成果”ではないか、という点に集中している。つまり、実在の都市が存在したというより、文書編集の都合で語が合体しただけではないか、という疑いである[16]。
一方で擁護側は、誤読にしては影響が大きすぎると主張する。特定の港町で“俵換算の争いが急減した”という口碑が複数地域から報告されており、少なくとも制度的背景があったのではないかとされる。ただし、その口碑は年号を伴わないことが多く、数値の根拠が見えないため、結論を急ぐべきではないと釘を刺す研究者もいる[17]。
論争の滑稽な部分として、候補地の多さが挙げられる。ある研究会では「以来都は京都、別の会では神奈川県、さらに第三の会では福岡県だ」と分かれ、結局、議論の決着は“どの地域が一番、来来亭の屋号を持っていそうか”という直感に寄った。事実認定ではなく、語感の審美眼が勝った、と笑い話として残っているが、学術的には厳しい批判対象になったという[18]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐藤周『俵換算の実務語彙史(増補版)』臨時文庫出版, 1978.
- ^ Margaret A. Thornton『Port Accounting and Spoken Place-Names』Cambridge Monographs in East Asian Administration, Vol. 12, 1996.
- ^ 渡辺精一郎『中世板札の読み替えと誤読伝播』吉祥寺学会出版, 2003.
- ^ 李文煥『換算棒と砂時計:計量場の社会史』東京計量文化研究所, 第3巻第2号, 2011.
- ^ 山根律子『寄進目録の欄外語と市場の権威』史料学通信社, pp. 41-88, 2015.
- ^ Hiroshi Tanaka『From “Procedure” to “Town”: Misread Urbanization Mechanisms』Journal of Historical Bureaucracy, Vol. 9, No. 1, pp. 1-22, 2020.
- ^ 鈴木樟『来来亭の再発見:地方帳簿の復元』北関東地方史協会, 1989.
- ^ K. Nakamura『The “Irai-miyako” Hypothesis and Text Editing』Asian Folio Studies, 第7巻第4号, pp. 77-105, 2007.
- ^ 中村和夫『幕府文庫目録(内題抄)の編纂意図』国書刊行会, 2012.
- ^ (微妙にタイトルが違う)佐藤周『俵奉書と都の漢字数対応説』臨時文庫出版, pp. 3-19, 1979.
外部リンク
- 語彙考古学アーカイブ
- 俵換算データベース(非公式)
- 来来亭跡地調査室
- 誤読地名研究会
- 文庫目録スキャン倉庫