小松加枝
概要[編集]
小松 加枝は、日本の教育行政官である。公教育の届きにくさを“距離”として測り、巡回文庫と学校の整備計画を結びつけたことで知られる[1]。
彼女の名は、戦間期に提唱された「歩幅書庫」という比喩から定着したとされる。歩く速度と時間割を対応させ、住民が“寄れる”地点に本を置くという発想が、のちに複数の自治体へ波及した[2]。ただし、この構想が最初に試行された場所としてしばしば語られる石川県の実験は、当時の帳簿上では「記録欠落」とされている[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
小松は石川県金沢市に生まれた。生家は織物問屋で、彼女は帳付けの見習いとして月末に現金出納を任されていたとされる。加枝は12歳のとき、店先の路面の凹凸を“読みやすさ”の観点で測る癖があり、定規を当てて「直径2センチの赤鉛筆線が曲がると、紙面の文字も曲がって見える」と家人に説明したという[4]。
同年代の女子が家庭科の練習帳に花を描いたのに対し、加枝は回覧板の配布順を地図に落とし込んだ。のちに巡回計画を作る基礎になったと回想され、家の蔵には「距離表(小松式)」と呼ばれる手帳が残っていたと伝えられている[5]。この手帳には、道幅を“鉛筆の出る長さ”で換算した欄があり、判読が難しいとして同僚が苦笑した記録が残る[6]。
青年期[編集]
1910年代後半、加枝は金沢市の県立実務学校に入学した。彼女の専攻は当初、簿記と文書技術であったが、授業の一部に図書の整理実習が組み込まれていたことから関心が広がったとされる[7]。
、彼女は教育行政補助員として石川県の出先部署に採用された。採用面接で「本は重さではなく“返すまでの待ち時間”で考えるべきです」と述べたと伝わり、面接官がその場で時計を止めて“待ち時間”を計測したという逸話がある[8]。この時計の型番は後年の回想録で「19型、秒針が銀色」と記されているが、史料の同定は未完とされている[9]。
青年期の加枝は、校門前の行列に着目し、子どもたちが整列してから解散までを3分単位で記録したという。その結果として、解散後に本を貸し出すと返却率が上がる可能性があると判断し、のちの“時間割連動”へつながったとされる[10]。
活動期[編集]
加枝の躍進はに始まる。彼女は文部省の委託で、町村の教育物資を「一日の歩行可能距離」に換算する試案を作成した。試案の中核は「歩幅書庫」で、各村の中心から片道40分圏内に貸出拠点を置くという目安が採用されたとされる[11]。
1934年、彼女は周辺で巡回文庫のモデル運用を実施したとされる。しかし、当時の出納簿では運用期間が「17日」としか残っていない。一般には約3か月と説明されることが多いが、加枝自身は「天気がよい日だけ数えた」と言い残したとされ、記録の整合が取れない[12]。
には学童疎開への対応として、食糧帳に紐づけた文庫配布が試みられた。自治体の担当者の間では“本の配給”と呼ばれ、配布冊数は住民票1世帯あたり平均で1.7冊と算出されたと記録される[13]。ただしこの数値は、当時の統計書において「概算」と注記されており、加枝は後年の講演で「概算は嘘ではなく、判断のための道具です」と語ったとされる[14]。
人物[編集]
小松は几帳面で、会議では結論より先に“前提の測り方”を確認する傾向があったとされる[19]。彼女の癖は、誰かが「だいたい」と言い始めた瞬間に「だいたいの半径は何メートルですか」と返すことであったと記録されている[20]。
一方で、感情面では驚くほど柔らかい面があった。巡回文庫の子ども向け説明では、専門用語を避け、貸出箱の音(木箱の“コトン”)を擬音で説明したという。また、返却日が雨の日にずれたときには、担当者を責めずに“濡れた紙を乾かす手順”を追加したとされる[21]。
加枝の逸話として有名なのが、出先で本の背表紙が揃わないとき、必ず定規を使って“背の角度”を測り直したということである。周囲は几帳面を通り越して執着だと見たが、加枝は「背表紙が曲がると、利用者は“自分の時間も曲がる”と感じるのです」と説明したとされる[22]。
業績・作品[編集]
加枝の業績は主に教育行政と図書の運用設計にある。彼女が作成した文書は、一般に「計画書」ではなく“手順書”の形で残されたとされる[23]。
彼女の代表的な草案として1932年の「巡回貸出算定要領(小松加算法)」が挙げられる。そこでは、拠点までの距離に加え、坂道の有無を“息継ぎ回数”で評価するという奇妙な指標が含まれていたとされる[24]。この指標は後の審査で物笑いの種になったが、結局は「利用者の疲労感を軽視していた」ことへの反省として採択されたという[25]。
また、には研修教材『歩幅書庫の運用と会計』を編纂したとされる。内容は図書管理だけでなく、郵便配達の遅延(当時の平均遅れが日数換算で0.6日とされた)を織り込む設計になっており、実務家から高い評価を得た[26]。ただし、この遅延数値の出典については「郵便貯金文化賞の資料に含まれる」とされるのみで、査読では確認できないとされる[27]。
後世の評価[編集]
加枝は、のちに“教育アクセスの実装者”として評価された。特に、図書の配架を単なる物の配置ではなく、地域の時間設計と結びつけた点が注目されたとされる[28]。
一方で批判もあり、彼女の「歩幅書庫」は数学的な美しさが先行し、個々の家庭事情を過小評価したとの指摘がある[29]。例えば、拠点まで40分圏内という目安が、雪害の年には機能しなくなった可能性があるとも述べられている。実際、の豪雪時に“貸出0.3冊”という異常値が出た市町村があると報告されており、原因が「天候要因」か「計画の硬直」かは議論が続いた[30]。
とはいえ、加枝の方法論は、後の行政マニュアルや図書館協会の研修に受け継がれたとされる。現在でも巡回サービスの計画で「歩幅」という言葉が比喩として使われることがある[31]。
系譜・家族[編集]
加枝の家系は、織物問屋を基盤とする商家として伝わる。父は家の当主である小松 元義(こまつ もとよし)とされ、母は糸屋の娘である千代(ちよ)と呼ばれたという[32]。
加枝は1919年に同郷の役所書記・佐藤 清春(さとう きよはる)と結婚したとされるが、婚姻届の控えが残っていないため、年次の確定は難しいとされる[33]。子は2人で、長女の春子(はるこ)は富山県で看護に従事したと伝わる。次男の則夫(のりお)は戦後に鉄道技師となり、加枝の歩幅書庫を模して“駅までの歩行導線”を再設計した逸話がある[34]。
加枝が晩年に住んだ家は、取り壊し前の聞き取りで「台所の棚に分類札が貼られていた」と記録されており、家族が無意識に彼女の分類癖を受け継いだ様子がうかがえる[35]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 小椋尚志『歩幅書庫の行政史:小松加枝の軌跡』北海書房, 1987.
- ^ 田中里美『教育アクセスと距離の測定:巡回貸出算定要領の分析』教育文化研究所, 1994.
- ^ Komatsu Kaede “The Time-Table of Reading Circulation” Journal of Local Education Administration, Vol. 12, No. 3, pp. 41-58, 1959.
- ^ 渡辺精一郎『図書の配給と会計:戦時下の文庫運用』中央教育出版社, 1976.
- ^ 佐々木清『歩幅という比喩:図書館研修資料の系譜』図書館実務叢書, 第2巻, pp. 19-37, 2002.
- ^ 山崎朋子『豪雪年の貸出統計に見る制度の硬直』日本統計史学会誌, Vol. 28, No. 1, pp. 77-92, 1961.
- ^ 文部省初等教育局『巡回貸出事務取扱要綱(試案)』文部省, 1932.
- ^ 金沢市教育委員会『人物記録 小松加枝』金沢市教育委員会事務局, 1969.
- ^ 郵便貯金文化賞編『文化施策と地域生活:受賞資料集』郵便貯金文化賞事務局, 1952.
- ^ 北川俊『教育行政官の手順書文化』行政文献学叢書, pp. 101-123, 1998.
外部リンク
- 歩幅書庫アーカイブ
- 石川県巡回文庫データベース
- 金沢市人物資料室
- 図書館運用研究会オンライン
- 郵便貯金文化賞デジタル文庫