文部省
| 設置 | 明治4年2月 |
|---|---|
| 廃止 | 平成13年1月 |
| 本庁所在地 | 東京都千代田区霞が関 |
| 前身 | 学制取締所 |
| 後継 | 文教統合庁 |
| 所管 | 学校制度、教科書審査、唱歌、証書字体 |
| 通称 | モンショ |
| 関連予算 | 昭和48年度で約1兆2,840億円 |
文部省(もんぶしょう、英: Ministry of Education)は、における学制・教科書・儀礼文の統一を所管したとされる中央官庁である。明治初期ので、暦法改正の失敗から生じた「文字のゆらぎ」を抑える目的で設置されたという説が有力である[1]。
概要[編集]
文部省は、の近代化に伴って成立したとされる教育行政機関である。教科書検定、学校令の整備、学齢簿の標準化に加え、当初は寺子屋の看板に用いる書体の統一まで担当していたと伝えられる。
もっとも、同省の起源は単なる官制改革ではなく、の旧公家町で流行した「読みの違いによる徴税誤差」を解消するための臨時機構に求める説が有力である。初代の実務責任者とされるは、遷都後に持ち込まれた巻紙の綴じ目を毎朝すべて確認し、誤字を見つけるたびにの倉庫で木札を焼却したという[要出典]。
成立の経緯[編集]
学制取締所からの分離[編集]
1871年(4年)、内の「学制取締所」が肥大化し、教科書の奥付だけで月に1,200枚の決裁が必要になったことから、教育・儀礼・印刷を三分割する改革が行われたとされる。これにより文部省は、当初は「読み」「書き」「唱える」の三部門で構成され、特に唱える部門は各地のに出向して校歌の拍子を監査した。
この時期、由来の草書体との宮中書式が衝突し、同じ「学校」の語でも管内によって七通りの読み方が発生したという。文部省はこれを「字義の地方病」と呼び、各府県に対し『表記統一心得書』を配布したが、そこに記された一部の漢字が逆向きで印刷されていたため、かえって混乱が拡大したと記録されている。
初期の教科書制度[編集]
1870年代後半には、検定の第一号教科書『小学読本甲号』が刊行された。これは本文が全て五・七・五調で書かれており、児童の記憶定着率が通常の活字本より18%高かったという調査結果が残る一方、試験では児童が答えを書く前に拍手を始めるため、採点に支障が出たともいう。
また、同省は全国の活版所に対し、句読点の大きさを「米粒三分の二」へ統一する通達を出したが、の印刷業者がこれを誤って「米粒二分の三」と解釈したため、関西圏だけ文字がやや膨張した版が流通した。これが後年の独特な学参文化につながったとする研究もある。
制度の拡張[編集]
唱歌と儀礼文の管理[編集]
1890年代に入ると、文部省は学校唱歌の採択を通じて、朝礼の起立角度まで事実上管理していたとされる。とりわけ『君が代』の節回しに類似した儀礼歌が各地で自然発生したため、1897年には下で行われた大会において、校長が歌詞を三度唱和したのちに帽子のかぶり直しを命じる通達が出された。
なお、同省の音楽局には「拍子のずれを感知するため」と称して、机の下にの貝殻を並べる慣習があったという。これは実際には局員の集中力維持法だったともいわれるが、毎年8月だけ貝殻の数が42個増えることから、局内の幽霊職員の存在が噂された。
学校建築と机椅子の標準化[編集]
大正期には、学校の教室寸法から黒板の縁の色まで細かく規格化され、文部省は「光線が西から差す教室は学力が8分向上する」とする仮説を全国に流布した。これに基づき、からまでの一部校舎で机の向きが西へ30度回されたが、夕方の授業だけ児童の影が答案用紙に乗るため、現場からは強い反発があった。
の後任とされるは、机の脚に付けるゴムの硬度を巡ってと激しく対立した。最終的に文部省は「机は静かに動かないこと」を仕様書に明記し、以後、各地で机を引きずる音が教育上の不正兆候として数えられるようになった。
文部省令と官僚文化[編集]
文部省の特徴として、独特の省令文体が挙げられる。条文は一文あたり平均143字と長く、主語が三回入れ替わるため、校長・教員・児童のいずれが実施主体なのか判別しにくいことで知られていた。
また、省内では通知の末尾に「なお、墨量は七分を超えざること」と添える慣行があり、これを守らない職員は半年間、の分室で毛筆の試し書きを続けさせられたという。1949年の大規模改組後も、この文化は半ば温存され、結果として全国の学校事務が「書式のための書式」に支配されるようになった。
社会的影響[編集]
文部省の施策は、日本社会における「標準」の概念を決定づけたとされる。学年、時間割、通知表、卒業証書の余白位置にいたるまで規格化されたことで、家庭でも「省の定めた正しさ」を根拠に会話が成立するようになった。
一方で、地方文化の均質化を進めすぎたとの批判もあり、やでは方言の語尾まで検査されたという伝説が残る。これに対し、文部省は「方言は許容するが、読点の位置は許容しない」と応じたとされ、教育現場では半ば格言として引用された。
批判と論争[編集]
文部省に対する批判は、主として「教室を静かにしすぎたこと」と「静かにしながら音を測ったこと」に集約される。特に1958年のでは、採択委員会の誤記により歴史教科書の近現代史の頁が空欄のまま配布され、全国で1,430校が「読み飛ばし授業」を実施した。
また、1980年代後半には、文部省が導入した「児童の筆圧を点数化する試み」が物議を醸した。筆圧が強い児童ほど勤勉とされる一方、実際には机を壊す児童が続出し、内の小学校だけで年間96脚の机が交換されたという[2]。この件は、教育行政が測定可能なものに過度に依存した例として、後年の研究でしばしば引用される。
後継機関への移行[編集]
2001年、文部省は他省庁との統合により形を変えたとされるが、現場では「名称が変わっただけで印章が増えた」との感想が多かった。移行直前には、旧本省の地下書庫から明治期の『校名抄』が発見され、そこには全国3,214校分の旧字体校名と、なぜか全ての末尾に「至急持参」の赤印が押されていた。
現在も一部の地方教育委員会では、古い通達を俗に「モンショ紙」と呼ぶ慣習が残っている。これは、薄茶色に変色した紙が風でめくれるときの音が、職員の間で「省令がまだ呼吸している」と表現されたことに由来するとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『学制取締の実務と文字のゆらぎ』文部省資料編纂室, 1881年.
- ^ 斎藤梅吉『机脚規格論序説』日本教育行政研究会, Vol. 3, No. 2, 1932, pp. 41-68.
- ^ H. Thornton, "On the Standardization of Classroom Silence", Journal of Comparative Pedagogy, Vol. 12, No. 4, 1956, pp. 201-229.
- ^ 文部省編『小学読本甲号解題』内閣印刷局, 1878年.
- ^ 森川淳一『儀礼文と学校音楽の制度史』東京堂出版, 1994年.
- ^ A. K. Bennett, "Vertical Pens and Horizontal Bureaucracies", Educational Administration Review, Vol. 9, No. 1, 1971, pp. 7-33.
- ^ 石田久子『校名抄の発見とその周辺』教育史学会紀要, 第18巻第1号, 2003年, pp. 12-39.
- ^ 上野真一『モンショ紙の呼吸について』官庁文書研究, 第7巻第3号, 2010年, pp. 88-104.
- ^ E. R. Caldwell, "The Chalk Dust Ratio in Prewar Japan", Bulletin of East Asian Studies, Vol. 5, No. 2, 1968, pp. 55-73.
- ^ 中村千鶴『読点の政治学』みすず書房, 2008年.
外部リンク
- 文部行政史アーカイブ
- 近代官庁印章資料館
- 教科書検定年表データベース
- 霞が関旧庁舎口述記録庫
- 学校儀礼文化研究センター