山本 夏穂
| 氏名 | 山本 夏穂 |
|---|---|
| ふりがな | やまもと なつほ |
| 生年月日 | 1938年6月17日 |
| 出生地 | 長野県諏訪郡富士見町 |
| 没年月日 | 2004年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗調整研究家、生活儀礼設計者、随筆家 |
| 活動期間 | 1961年 - 2003年 |
| 主な業績 | 仮装家族儀礼の標準化、寒冷地祝祭配置論の提唱 |
| 受賞歴 | 日本生活文化賞、信州記録民俗学会特別功労章 |
山本 夏穂(やまもと なつほ、 - )は、の民俗調整研究家、生活儀礼設計者である。昭和後期における「仮装的な家族儀礼」の体系化に関わった人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
山本 夏穂は、出身の民俗調整研究家である。1960年代後半からを中心に、家庭内の行事や地域祭礼を「再配置」する独自の手法を提唱し、のちに生活儀礼設計という分野を事実上確立したとされる[1]。
山本の仕事は、と、さらに当時流行しつつあったの語彙を横断するものであった。とりわけ、家庭の食卓配置や正月飾りの位置を家族関係の調整装置として扱った点が注目され、の生活特集やの企画展示にも影響を与えたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
山本は、の寒冷地農家に生まれる。幼少期は冬季の積雪により外出が制限されることが多く、祖母の山本トクによる「台所の神様への挨拶順」が家内秩序の維持に役立っていたという逸話が残る[3]。
地元のでは作文と図画に優れ、特に「家のなかの道」という題の作文が校内誌に掲載された。この作文には、廊下、茶の間、土間、神棚前の動線が詳細に描かれており、後年の理論の原型になったとする説がある。
青年期[編集]
に家政学科へ進学し、講義を担当していた半田澄江の影響を受けたとされる。山本は在学中、下宿先の四畳半で各種の正月飾りを試作し、同居人3人の性格に応じて鏡餅の高さを変える「応答型供物配置」を考案した[4]。
卒業後はに勤務し、の商店街や周辺の家庭を回って聞き取り調査を行った。なお、この時期の調査ノートは約214冊あったとされるが、うち37冊は寒天の付着により判読困難であるという。
活動期[編集]
、山本は『家庭儀礼の可変配置』を刊行し、生活儀礼設計という語を初めて公的に用いたとされる。この著作では、、、を単なる季節行事ではなく、家族内の緊張を可視化し、再配列するための「暫定的装置」と位置づけた[5]。
には系の研究助成を受け、・・の3県で「雪害時の祝祭縮小モデル」を実地検証した。報告書によれば、燈明の本数を4本から2本に減らすだけで、親族間の会話量が平均17%増加したという。もっとも、調査協力者の一部は「会話量」の算定方法が恣意的であると指摘している[要出典]。
にはの特集番組『台所のかたち』に出演し、全国的な認知を得た。同番組で山本が示した「箸置きの角度は世代間距離の比喩である」という発言は広く引用され、以後、学校給食の配置研究にも転用された。
晩年と死去[編集]
に入ると、山本はの研究会「臨床民俗室」にも関わり、都市部の核家族における年中行事の簡略化を擁護した。一方で、簡略化のやりすぎは「祝いの余白」を失わせるとして、最終的には最小限の飾りと最大限の説明文を組み合わせる方式を推奨した。
11月2日、の自宅で死去。享年66。死後、書庫から未発表原稿『箸先の地政学』が見つかり、翌年に寄贈された。
人物[編集]
山本は、研究者としては極めて几帳面であったが、実地調査ではしばしば突飛な発想を示した。たとえば、の農家で「節分の豆を投げる位置が毎年1.2尺ずれている」と記録し、これを「家長の心理的揺らぎ」と説明したが、実際には猫の通り道を避けていたことが後日判明している。
また、来客時には必ず湯呑みを3回回してから出す癖があり、弟子たちはこれを「山本式三転礼」と呼んだ。本人は「礼とは相手のためではなく、部屋の空気を整えるために行う」と述べたとされ、生活儀礼設計の姿勢を端的に示す言葉として知られる。
一方で、内の講演会では、聴衆の反応を見て話す順番を変える柔軟さも持っていた。特にの公民館で行われた講演では、開始20分で予定していた配布資料をやめ、その場で紙皿を用いた即席の家族構造図を作成し、会場を大いに沸かせたという。
業績・作品[編集]
主要著作[編集]
代表作とされる『家庭儀礼の可変配置』は、刊行の単行本で、全248頁のうち第3章「茶の間の中心は誰が決めるか」が特に影響力を持った。ここで山本は、家族写真の撮影位置が親族会議の力学を反映すると論じ、地方紙の文化欄で賛否を呼んだ[6]。
続く『冬の食卓と祝祭半径』は、寒冷地における食事の温度低下と会話の途切れ方を関連づけた研究書である。巻末には「鍋料理は、共同体の仮設建築である」とする一節があり、後に料理研究家の間でも引用された。
実践活動[編集]
山本は著作だけでなく、、、などで家庭儀礼の実践講習を行った。講習は1回90分、受講者12名以内を原則とし、うち実習30分、観察10分、沈黙の時間15分を必ず含むという独特の形式であった。
にはの分科会に招かれ、「冠婚葬祭の簡略化は文化の劣化ではなく、都市の省エネ設計である」と講演した。この発言により一部の冠婚葬祭業界から反発を受けたが、山本は翌年の講演で祝儀袋の折り返し角度を細分化し、かえって関係者の支持を得たとされる。
受賞と評価[編集]
にはを受賞し、選考委員会は「生活実感を学術化する際の語彙が極めて独創的である」と評した。さらににはから特別功労章が授与され、山本の調査ノート214冊が地域資料として整理された[7]。
なお、晩年に構想された『月見台の都市論』は未完に終わったが、その草稿の一部はで閲覧可能であるとされる。ただし、実際に閲覧した研究者は少なく、所在確認をめぐって長年の論争がある[要出典]。
後世の評価[編集]
山本の評価は、民俗学と家政学の境界を越えた先駆者としておおむね肯定的である。とりわけ、以降の地域文化保存運動では、単なる「古い習俗の記録」ではなく、「日常の再設計」という観点を与えた点が再評価された。
一方で、山本の理論はあまりに家庭内部の微細な配置にこだわるため、現場では「箸と皿のあいだに思想を見すぎる」と揶揄されることもある。それでもの一部の生涯学習講座では、現在も山本式の「年中行事棚卸し」が教材として用いられている。
また、以降はインテリア分野にも影響を与え、住宅展示場で「儀礼動線」を説明する際に山本の図式が引用されることがある。もっとも、住宅メーカーの担当者の多くは出典を明示しないため、学界では「山本の名が薄く広く使われすぎている」との懸念も示されている。
系譜・家族[編集]
山本家は、の山間部において代々農業と養蚕に従事していたとされる。父・山本清一は木工も得意で、冬季には雪囲いと神棚の補修を兼ねた独自の棚を作っていたという。母・山本フミは地域の寄合で進行役を務めることが多く、夏穂の会話術に強い影響を与えたとみられる。
夫はに結婚した坂田昭夫で、内の印刷会社に勤務していた。二人のあいだには長女・山本千波、長男・山本修二がいる。千波はのちに図書館司書となり、夏穂の蔵書整理を引き継いだが、修二は「家族儀礼より実用優先」と語り、山本の講演を途中退席したことがあるという。
なお、山本家の親族には側の親戚筋に神職経験者がいたとされ、これが山本の祭礼観に影響したとの説がある。ただし、親族関係の一部は戸籍資料の散逸により確認が難しい。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山岸由紀子『家庭儀礼の可変配置と都市生活』生活文化社, 1969.
- ^ 半田澄江『戦後家政学における民俗的転回』日本評論社, 1972.
- ^ Noboru Kanda, "Seasonal Ritual Reorganization in Cold-Climate Households", Journal of Domestic Anthropology, Vol. 14, No. 2, 1978, pp. 113-142.
- ^ 斎藤真理子『冬の食卓と祝祭半径』青土社, 1977.
- ^ Theodore J. Haskins, "Domestic Space as Social Protocol", Ethnographic Review Quarterly, Vol. 9, No. 4, 1983, pp. 201-229.
- ^ 山本夏穂『箸先の地政学』未刊原稿, 1986.
- ^ 信州記録民俗学会編『山本夏穂資料目録』信州記録民俗学会出版部, 1998.
- ^ 橋本百合子『台所のかたち——テレビ文化と家族儀礼』NHK出版, 1984.
- ^ Margaret L. Fenwick, "Ritual Simplification and Urban Efficiency", Studies in Applied Folklore, Vol. 22, No. 1, 1992, pp. 7-39.
- ^ 『月見台の都市論』草稿集 東京生活文化資料室, 2005.
外部リンク
- 生活文化資料アーカイブ
- 信州民俗設計研究所
- 家庭儀礼年表データベース
- 都市生活論デジタル館
- 諏訪郡記録文庫