山本良幸
| 名前 | 山本良幸 |
|---|---|
| 生年月日 | 1931年 |
| 没年月日 | 2004年 |
| 出身地 | 東京都浅草区(現・台東区) |
| 職業 | 測色工学者、都市照明設計家 |
| 所属 | 港区夜景調整協議会、国立色環境研究所 |
| 研究分野 | 夜景色温度、反射率行政、街路光の規格化 |
| 代表的な概念 | 山本式三層白化理論 |
| 影響 | 都市景観条例、広告照明制限、深夜商店街の照度基準 |
山本良幸(やまもと よしゆき、 - )は、期後半にで活動した日本の、ならびに都市照明の色温度管理を専門としたの創設者である。後年は「街の白さを設計した男」として知られ、のライトアップ基準にも影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
山本良幸は、戦後日本におけるとの接点を切り開いた人物とされる。とりわけの前後に、街灯・看板・建築外装の「白さ」と「まぶしさ」を統合的に管理するという独自の発想を提示したことで名高い。
当時のでは、戦後復興に伴ってネオンの増加と夜間交通の拡大が進み、やでは照明の色味の不統一が問題化していた。山本はこれを単なる美観の問題ではなく、「都市の信用度」を左右する工学課題として扱い、のちにの設立へとつなげたとされる[2]。
生涯[編集]
少年期と旧制教育[編集]
山本は、浅草の紙問屋を営む家に生まれたとされる。幼少期から周辺の提灯や商店街の看板に強い関心を示し、夜の明るさを「店ごとの声量」と呼んでいたという逸話が残る。
在学中は、理科よりも図画工作に秀でていたが、担任教師の勧めで関連の図表作成に没頭するようになった。なお、卒業文集には「東京は昼より夜のほうが本来の顔に近い」との一文があるが、真偽は定かでない[3]。
研究者としての出発[編集]
、山本は工学部の臨時講師助手として採用され、で反射率の測定を担当した。ここで彼は、壁面の白さが人間の安心感に与える影響を、照度ではなく「残像疲労指数」で評価する方法を提唱した。
この指標は、当初は同僚から半ば冗談として扱われたが、山本がからまでの歩道を夜間徒歩で反復調査し、合計の眩惑事例を記録したことで、次第に注目されるようになった。彼のノートには、街灯の色を「銭湯の湯気」「生卵の白身」「百貨店の袋紙」などで分類した記述があり、後年の都市照明研究に影響したとされる[4]。
港区夜景調整協議会[編集]
、山本は役所の嘱託として、夜間景観の照明基準を整理するためのを立ち上げた。初会合は近くの区民会館で行われ、照明技師、広告代理店担当者、寺院関係者、タクシー組合員の計が出席したという。
協議会は、看板の赤色が強すぎる場合は「0.7段階冷却」、寺社の境内灯は「月明かり相当」を上限とするなど、極めて細かな運用基準を策定した。これらは法的拘束力を持たなかったが、港区内の大手百貨店やホテルが自発的に採用したため、事実上の準規格として機能したとされる[5]。
山本式三層白化理論[編集]
山本の代表的な業績は、都市の夜景をの三段階で捉える理論である。一次白化は建物外壁そのものの反射、二次白化は周辺舗装や自動車ボディへの映り込み、残光白化は雲や湿気に拡散した光が街全体の印象を変える現象を指す。
この理論は、もともとの映画館街で観測された「看板を減らしても街が暗くならない」現象の説明として考案された。山本は、街が明るいように見えるのは光源の多さではなく、白い面が増えることで視覚が補正されるためだと主張し、以後の都市景観設計において「照らすより、受ける」という逆転した方針を打ち出した。
もっとも、山本は会議のたびに「白は一色ではない」と繰り返したとされ、実際にはの白を区別していたという。うちは行政文書に採用されたが、残りは担当者のメモ帳にしか残らなかったため、研究史上の位置づけには諸説ある。
社会的影響[編集]
商業地域への波及[編集]
山本の提唱は、・・の商業照明に大きな影響を与えた。特に前半には、百貨店の外装が「昼の白」から「夜の白」へと塗り替えられ、閉店後のシャッターまで薄く青みを帯びる現象が流行した。
では、山本の助言を受けて正面壁面の光沢を抑えたところ、通行客の滞留時間が平均延びたという社内報告がある。これが都市経済学者に引用され、夜景の質が購買意欲を左右するという議論の先駆けになった。
行政と条例[編集]
にはの一部区議会で、広告照明の高さと色温度を制限するための「景観照明適正化要綱」が制定され、山本の報告書が実質的な参考資料になったとされる。なお、この要綱の草案には「夜間に白熱灯を過度に用いた場合、通行人が翌朝の新聞を明るく感じすぎるおそれがある」という奇妙な一文が含まれていた。
また、の一部会では、山本の理論を応用して病院や学校の外構照明を再設計する試みが進められた。ただし、山本本人は「光は多ければよいというものではない。街には目を閉じる権利がある」と述べたとされ、これが後年の環境照明運動の合言葉のように扱われた。
批判と論争[編集]
山本の理論には、当初から「美学を工学に見せかけた行政芸術である」との批判があった。特にの夕刊では、匿名の都市計画担当者が「山本氏の白は便利すぎる」と評し、白化理論が実務より先に言葉として独り歩きしていると指摘した[6]。
一方で、山本の支持者は、彼が実地調査において冬季のと夏季のを往復し、計相当の街明かりを比較したことを挙げ、単なる机上の空論ではないと反論した。もっとも、比較の単位にルクスを使いながら体感温度も同時に記録していたため、後世の研究者からは「測定なのか日記なのか判然としない」と評されている。
逸話[編集]
山本は、会議中に蛍光灯の色を見分けるため、必ず白いハンカチを机上に広げていたという。ある会合では、出席者がいたにもかかわらず、山本が「今日は全員の顔色が標準白に近い」と述べたため、場が一時静まり返ったとされる。
また、ごろの前身となる埋立地を視察した際、彼は海風による反射の乱れを「都市がまだ書きかけの原稿である証拠」と表現した。この一言が区の広報資料に採用され、後に観光パンフレットの常套句になったという。
晩年には、家庭用の電球をの三種に分けて収納し、来客の気分によって交換していたとの証言がある。これは家族には不評だったが、山本自身は「家庭こそ最小の夜景である」と主張した。
死後の評価[編集]
山本はに死去したが、その後も都市照明の分野では「山本以前」「山本以後」という言い方が使われることがある。とくにの年報では、彼の考案した白化理論が、のちの普及期における色温度選定の下敷きになったと記されている[7]。
にはで小規模な回顧展が行われ、山本が使っていたとされる測色板と、夜景観測用の方位磁石が展示された。なお、その方位磁石は北を示す代わりに「繁華街側」を強く指したため、学芸員が展示替えのたびに笑いをこらえたという逸話が残る。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山下光太郎『都市夜景の白化管理』日本照明学会誌 Vol. 18, No. 4, pp. 201-219, 1965.
- ^ Margaret A. Thornton, "Chromatic Administration in Postwar Tokyo", Journal of Urban Aesthetics, Vol. 7, Issue 2, pp. 33-58, 1971.
- ^ 佐伯理一『山本良幸と港区夜景調整協議会』中央公論美術出版, 1983.
- ^ 渡瀬春彦『色温度と都市信用度の相関』東京大学出版会, 1979.
- ^ Kenji S. Morita, "White Surfaces and Civic Trust", Architectural Color Review, Vol. 12, No. 1, pp. 90-104, 1980.
- ^ 『港区夜景調整協議会 第1回議事録』港区役所都市景観課, 1961.
- ^ 高瀬由紀『残像疲労指数の実務適用』建築と環境, 第24巻第3号, pp. 44-61, 1987.
- ^ Hiroshi Tanaka, "The Three-Layer Whitening Theory", Transactions of the Japan Society of Lighting, Vol. 29, No. 6, pp. 5-19, 1992.
- ^ 小林道夫『夜の白は何色か』岩波書店, 1998.
- ^ 『都市は目を閉じる権利を持つ』朝日新聞出版資料室, 2006.
外部リンク
- 国立色環境研究所アーカイブ
- 港区夜景史デジタル館
- 日本測色工学会年報索引
- 東京夜景条例資料室
- 都市白化理論研究会