嵯峨 駿太郎
| 氏名 | 嵯峨 駿太郎 |
|---|---|
| ふりがな | さが しゅんたろう |
| 生年月日 | 1912年3月18日 |
| 出生地 | 京都府京都市嵯峨野 |
| 没年月日 | 1984年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 囲碁棋士 |
| 活動期間 | 1927年 - 1984年 |
| 主な業績 | 「桂影定石」の確立、六局連続引き分け記録、地方道場連盟の創設 |
| 受賞歴 | 紫雲文化功労章、関西棋道特別賞 |
嵯峨 駿太郎(さが しゅんたろう、 - )は、の。昭和中期にとの対局文化をつないだ人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
嵯峨 駿太郎は、嵯峨野に生まれたである。所属以前から独学で石の流れを研究し、昭和後期の棋界において理論派と実戦派の中間に位置する存在として評価された。
とくにの公式戦との私設道場戦の差異を読み解いたことで知られ、彼の著した『石の往復書簡』は、一部の若手棋士にとって半ば教本、半ば怪談として扱われたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1912年、の寺院裏手にあった小さな長屋に生まれる。父は近くで薪炭商を営み、母は寺社向けの写経補助をしていたとされる。幼少期の駿太郎は、雨の日に庭へ流れ込む水筋を見て「石は動かずとも局面は進む」と語ったという逸話が残るが、同時代の記録では七歳時点ですでに碁盤の升目を片付けの基準にしていたともされる[要出典]。
1919年ごろ、近所の筋にあった小さな碁席で初めて石を持ち、近隣の年長者を相手に十六路盤で勝ち越したことが転機となった。のちに彼は「最初に覚えたのは勝ち方ではなく、負けた相手が黙る時間である」と述べたと伝えられる。
青年期[編集]
1927年、15歳での碁会所「浪華館」に出入りし、同所の席主であった渡辺精六郎に師事した。ここで嵯峨は、定石を暗記する前に相手の足音で打ち筋を推測するという独特の訓練法を身につけたとされ、後年の対局記録でも着手前に盤上を三度見回す癖が確認されている。
1930年代前半には主催の市民大会で頭角を現し、1934年に初段相当へ認定された。なお、当時の認定式で彼は昇段状の裏面に対局メモを書き込み、式後に事務局から「紙の使い方が棋風より大胆である」と注意されたという。
活動期[編集]
1940年代後半、戦後の混乱で棋会が断片化するなか、嵯峨はの公認戦と各地の私設道場を往復する生活を送った。1948年にはで行われた復興記念対局で、六局連続引き分けという珍記録を残し、新聞各紙が「勝たずして名を残す男」と報じた。
1956年には、自ら提唱した「桂影定石」を発表し、これは四子局において中央の圧を先に捨て、辺の温度差で全体を制するという思想に基づいていた。実際には三人の弟子が半年かけて整理した草稿が元になっているが、嵯峨本人は「石は影を先に持つ」とだけ書き残したため、由来がいささか不明瞭である[3]。
1963年、ので開かれた公開研究会では、盤面の右下を一切触らずに終盤を成立させたことで話題となった。この対局は後に「右下不触の一局」と呼ばれ、解説者の多くが理解に三日を要したとされる。
晩年と死去[編集]
1970年代に入ると、嵯峨は表舞台よりも地方道場の巡回に比重を移し、やなどで月例講義を行った。晩年は棋譜整理に没頭し、石を置く前に必ず茶を一口飲む所作が儀礼のようになっていたという。
1984年11月2日、の自宅で死去した。72歳であった。遺された碁盤の裏には、最終局面の候補手らしき数字が鉛筆で三十七手分書かれていたが、最後の一手だけは消しゴムで丁寧に消されていた。
人物[編集]
嵯峨は寡黙である一方、対局前の雑談が異様に長いことで知られた。とくに天候、鉄道の遅延、茶菓子の硬さを局面判断に結びつける癖があり、弟子の一人は「師匠は盤を見る前に駅の時刻表を見る」と回想している。
性格は几帳面と評されるが、実際には記録ノートの余白に俳句や家計簿を混在させるなど、整理と逸脱が同居していた。盤上では攻めを好んだが、終盤に入ると急に守勢へ転じるため、対局者からは「最初の三十手は嵯峨、残りは天気」と揶揄された。
また、ひとたび勝負服に袖を通すと靴紐を左から結ぶ習慣があり、これを破ると大半の対局で序盤の読みが鈍ると本人は信じていた。もっとも、同時代の観戦記者によれば、その迷信が効いていたのは本人の集中力の問題ではないかとも指摘されている。
業績・作品[編集]
嵯峨の業績として最もよく知られるのは、局地戦の温度差を数値化する独自指標「石温差係数」の考案である。これは盤上の四隅それぞれに対して、手数ごとの緊張度を0.1単位で記録する方法で、弟子たちはこれを使って対局後に必ず反省会を行った。
著作には『石の往復書簡』(1959年)、『桂影定石講義』(1962年)、『終盤は駅から遠い』(1971年)などがある。とくに『終盤は駅から遠い』は、碁の終盤論に見せかけて地方巡業の食事事情を詳細に書いた異色作で、囲碁書としてより紀行文として読まれた。
また、との交流を通じて「地方道場連盟」の結成に関与し、1958年には・・の小規模碁会所を結ぶ巡回対局網を整備した。これは交通事情の悪い時代にしては画期的であったが、実際には列車の接続ミスで開催時刻が毎回ずれていたため、参加者の忍耐力の向上にも寄与したとされる。
後世の評価[編集]
後年の棋士・研究者の間では、嵯峨は「実戦の人」であると同時に「未完成の理論家」として再評価された。1980年代以降、内の若手研究会で彼の棋譜が再検討され、中央志向と辺地重視を往復する独特の姿勢が、現代のAI解析に近い発想であったと論じられている。
一方で、局面に関係のないメモを大量に残したため、棋譜としての純度を疑問視する声もある。とくに1983年末に書かれた最終ノートには、対局の感想に混じって「の売店で買った羊羹は二切れで十分」と記されており、学術的価値と生活感が完全に同居している。
の囲碁文化研究会は、2007年に嵯峨の名を冠した公開講座を開始し、以後、若手研究者の間では「嵯峨を読むことは石を読むことではなく、時代を読むことである」とする用法が定着したという。
系譜・家族[編集]
嵯峨家はもともとの寺院街に根を持つ家系で、祖父の嵯峨重之助は木版職人、父の嵯峨庄左衛門は薪炭商であったとされる。母のさきは和裁に長け、家計簿の端に碁盤を書いて子どもに算数を教えたという。
妻は家出身の嵯峨トメで、結婚後も対局記録の清書を担当した。子に嵯峨俊一、嵯峨美和子の二人がいたとされ、俊一は父と同じく囲碁界に進んだが、対局中に時計を気にしすぎる癖から「秒針の棋士」と呼ばれた。
なお、孫の代にあたる人物が2020年代に地方イベントへ出席した記録があるが、血縁関係の詳細は戸籍資料の一部が戦災で失われたため不明である。もっとも、地元では今も「石を置く前に湯のみを回す癖がある家」として親しまれている。
脚注[編集]
[1] 京都棋道史編纂委員会『昭和棋士列伝』河原書房、1998年、pp. 114-119.
[2] 田宮一郎「戦後囲碁文化における地方道場の役割」『日本棋道研究』Vol. 12, No. 3, 2005, pp. 44-58.
[3] 嵯峨駿太郎『石の往復書簡』自筆草稿、1959年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 京都棋道史編纂委員会『昭和棋士列伝』河原書房, 1998.
- ^ 田宮一郎「戦後囲碁文化における地方道場の役割」『日本棋道研究』Vol. 12, No. 3, 2005, pp. 44-58.
- ^ 佐伯真由美『桂影定石の成立と展開』白水社, 2011.
- ^ M. Thornton, “A Study of Provincial Go Circles in Postwar Japan,” Journal of East Asian Board Studies, Vol. 8, No. 2, 2014, pp. 77-93.
- ^ 嵯峨駿太郎『終盤は駅から遠い』私家版, 1971.
- ^ 大森義和「京都嵯峨野における碁席文化」『芸能と遊戯の民俗学』第21巻第4号, 1990, pp. 201-215.
- ^ Harold K. Ingram, “The Stone Temperature Coefficient and Its Practical Uses,” Proceedings of the International Go Symposium, Vol. 5, 1966, pp. 9-21.
- ^ 三輪澄子『棋士の生活史と食事の記録』岩波書店, 2003.
- ^ 長谷川啓介「嵯峨駿太郎ノートに見る終盤観」『碁学評論』第17巻第1号, 2018, pp. 1-16.
- ^ 『京都新聞』文化面「勝たずして名を残す男」1950年8月14日付.
外部リンク
- 日本棋道アーカイブ
- 関西囲碁文化研究所
- 昭和棋士データベース
- 地方道場史料館
- 嵯峨駿太郎記念講座