巣園教
| 名称 | 巣園教 |
|---|---|
| 創始者 | 青柳 園悟 |
| 成立 | 1968年ごろ |
| 発祥地 | 東京都武蔵野台地西縁 |
| 教義 | 巣箱・花壇・散水を一体化した庭園倫理 |
| 信者数 | 最盛期で約4,700人 |
| 主な施設 | 巣園会館、武蔵境講堂 |
| 象徴 | 三重の丸窓と小鳥の止まり木 |
| 関連分野 | 園芸史、郊外文化、民間信仰 |
巣園教(そうえんきょう)は、の都市近郊において成立したとされる、巣箱と庭園の管理を儀礼化した生活思想である。とくに後期の郊外住宅地で広がった「小規模な自然を住居に取り込む」実践として知られている[1]。
概要[編集]
巣園教は、の保守との整備を同一の修行として扱う独特の民間宗教である。信徒は春に植栽を行い、夏に給餌と給水、秋に落葉の回収、冬に巣箱の断熱点検を行うことで、住環境と自然環境の均衡が保たれると説かれる。
一般にはの文化から生じたとされるが、初期の資料ではむしろの植木業者との都市計画研究会が接触したことが契機であったとも記されている。なお、信者の多くは自認上の「教徒」であるが、実態は地域の自治会員や園芸愛好家と重なっていた。
教義の骨格[編集]
巣園教では、鳥の営巣を「住まいの起点」、花壇を「感情の緩衝帯」とみなし、両者を維持することで家内の争いが減るとされた。青柳園悟の講話録によれば、巣箱の入口径は「33ミリから38ミリが中庸」とされ、これを超えると鳥が迷い、下回ると人間が執着すると説明された[2]。
地域での受容[編集]
、、では、町内会の花壇管理と結びつきながら受容され、1960年代末には学校PTAが半ば公認の形で観察会を実施したとされる。特に周辺では、観光客向けに「巣園マップ」が配られた時期があり、これが後年の教材化につながった。
歴史[編集]
成立期[編集]
巣園教の成立は、の冬に近辺の資材置場で行われた「小鳥と草木の共生会議」に求められることが多い。中心人物とされる青柳 園悟は、元々の外構設計補助に携わっていたが、規格化された植栽帯に巣箱を組み込む設計案が社内で却下されたのを機に独自理論をまとめたという。
初期には「巣園法」と呼ばれる簡易な生活規範があり、朝の水やり前に3回だけ巣箱を見上げる、植木ばさみを左手で置かない、雨樋の詰まりを放置しない、といった細則が含まれていた。これらは一見すると単なる生活改善だが、当時のニュータウン住民には妙に響いたらしく、半年でが週例会に参加した記録が残る。
拡張期[編集]
にはの園芸組合と共同で「巣園夏季講習」が開催され、参加者は延べに達したとされる。講習では、庭木の剪定角度を「鳥の飛来角」に合わせる実技が行われたほか、講師が誤ってではなくの巣を模した模型を使ったため、受講者が3時間ほど議論を続けた逸話が知られている。
この時期、教団はの海風対策やの新興住宅地における防風林の整備にも関与したとされる。もっとも、行政側の記録では「地域緑化協力団体」としか書かれておらず、巣園教の名は会議要旨にのみ現れるため、後年まで実態が曖昧であった。
制度化と分裂[編集]
、巣園教は「巣園憲章」を採択し、教団本部を阿佐谷北の旧木造アパート跡地に移した。ここで初めて年会費が正式に設定され、会員証の裏面に巣箱の点検日を記す方式が採用された。
ただし、同年の総会では「花壇を優先すべきか、巣箱を優先すべきか」で深刻な対立が起こり、穏健派の「園先派」と鳥類保護を重視する「巣先派」に分裂した。両派はまで共同で活動したが、最終的には前で同じ看板を2本並べる奇妙な状況となり、通行人がどちらが本部か分からないまま寄付したという。
教義と儀礼[編集]
巣園教の中心儀礼は「三季一巡」と呼ばれ、春・夏・秋の節目に必ず巣箱の内壁を点検し、その際に土と木片を混ぜた「園土」を小皿に盛って祭壇へ供える。祭壇といっても実際にはベランダ用の棚を改造したものが多く、都市部では製の棚板が広く使われたとされる。
また、毎月第2日曜には「沈黙の散水」が行われ、参加者は間だけ会話を禁じられた。これは鳥が人語に慣れすぎるのを防ぐためと説明されるが、実際には近隣住民への配慮として始まったという説が有力である。なお、沈黙中に誤ってジョウロを落とすと「水徳の反転」と呼ばれ、次の1週間は玄関前の鉢植えを全て北向きに直す慣習があった。
社会的影響[編集]
住宅政策への波及[編集]
巣園教は、の都市近郊における緑化政策に意外な影響を与えたとされる。とくにの外構基準見直しでは、ベランダ手すりの高さが鳥類の観察に適しているかどうかが議題化し、巣園教側が提出した「止まり木換算表」が一部自治体で参考資料になったという[3]。
また、マンション管理組合においては、共用花壇の水やり担当をめぐる争いが減ったとされるが、逆に「巣箱の向きは南東か東南か」で深夜会議が発生した記録もあり、平和化したのか混乱したのか判然としない。
教育・出版[編集]
には『月刊 巣園』が創刊され、発行部数は最高でに達した。誌面は園芸技術誌に見えるが、見開き中央に「鳥の気分を読む」コラムが毎号掲載され、編集長の坂井みどりは「実用と敬虔の境目を紙面で曖昧にする」と語ったとされる。
さらにでは、巣園教関連資料が郷土資料として整理され、子ども向け講座「巣箱を作ってみよう」が年間実施された。ここから派生して、理科教育と生活科をつなぐ試みが進んだという評価もある。
批判と論争[編集]
巣園教に対しては、当初から「園芸の名を借りた近隣同調圧力ではないか」との批判があった。とくにの地方版では、早朝の散水儀礼が生活騒音に当たるのではないかという投書が掲載され、以後、教団は散水時間を以降に制限するようになった[4]。
一方で、鳥類保護の観点からは評価する研究者もおり、の民俗学者・村瀬 恒一は「都市生活の孤立を、可視化された小さな巣で補償した運動」と位置づけた。ただし同論文の注釈にある「巣園教は会員名簿よりも植木鉢台帳のほうが正確である」という一文は、後に研究室内で半ば格言として流通した。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 青柳園悟『巣園法入門』巣園出版会, 1971年.
- ^ 村瀬 恒一「郊外における巣箱儀礼の形成」『民俗研究』Vol. 18, No. 2, pp. 44-71, 1984年.
- ^ 坂井みどり『月刊巣園とその時代』緑陰書房, 1990年.
- ^ 佐藤康夫「都市住宅と小規模鳥類生息域の接点」『都市計画評論』第12巻第4号, pp. 201-219, 1981年.
- ^ Elizabeth M. Kerr, “The Balcony Sanctuaries of Suburban Japan,” Journal of Comparative Ritual Studies, Vol. 9, No. 1, pp. 13-38, 1992.
- ^ 青柳圭一郎『巣園教の成立史』武蔵野文化叢書, 2003年.
- ^ 中村澄子「ベランダ花壇と共同体形成」『生活文化学報』第7巻第3号, pp. 88-104, 1978年.
- ^ Hiroshi Tanabe, “Notes on the Winged Ethics of Suenkyou,” East Asian Folklore Review, Vol. 4, No. 2, pp. 55-60, 1988.
- ^ 『巣園憲章解説集』巣園教中央本部資料室, 1982年.
- ^ 村瀬 恒一『鳥が先か、花が先か』青空社, 1997年.
外部リンク
- 巣園教中央資料館
- 武蔵野郊外史研究会
- 月刊巣園アーカイブ
- 東京都近代園芸史センター
- 日本都市民俗デジタル図書室