巨大陰茎主義者
| 別名 | 拡張主義的男根礼賛、巨根派 |
|---|---|
| 成立 | 1907年頃 |
| 中心地 | 東京・神田、大阪・船場、京都・祇園 |
| 提唱者 | 渡辺精一郎、セルゲイ・V・モロゾフ、久保田ハル |
| 主要組織 | 大日本増径協会、帝都形態研究会 |
| 影響分野 | 民俗学、都市計画、舞台衣装、広告美術 |
| 衰退 | 1942年以降、戦時統制により公然の活動が縮小 |
| 標語 | 大きさは尊厳の可視化である |
巨大陰茎主義者(きょだいいんけいしゅぎしゃ)は、男性器の巨大化を美学・儀礼・都市政策の三位一体として推進したとされる思想的潮流である。主にから初期にかけてとの一部知識人の間で流行したとされ[1]、後年はとの境界領域に位置づけられることが多い。
概要[編集]
巨大陰茎主義者とは、身体の一部としての男性器を過度に誇張することにより、個人の威厳、国家の膨張性、さらには祭礼の集客力まで高められるとする独特の思想である。一般には下品な冗語として扱われがちであるが、当時の文献では的な豊穣観とのが奇妙に結びついたものとして記述されている。
この概念が注目されたのは、の『帝都形態覚書』において、の路面電車広告の字体と祭具の寸法を比較した末に、「都市は自己の象徴を巨大化することで近代化する」と結論づけたことに由来するとされる。ただし、同書の初版は3冊しか作られておらず、そのうち2冊はの古書店火災で失われたため、後世の研究は断片的である[2]。
歴史[編集]
起源[編集]
起源はの下宿街で、にの学生たちが行った「寸法哲学」の会合にあるとされる。中心人物は渡辺精一郎で、彼はの復元図に触発され、「偉大な文明は、必ず自己像を大きく描く」と主張したという。
一方で、ロシアから亡命してきたとされるセルゲイ・V・モロゾフは、での衛生学研究を引き合いに出し、過剰な拡張が公共空間の秩序を損なうと反論した。両者の対立は、のちに『増大派対節度派論争』として知られるが、実際には酒席での口論だった可能性が高い。
なお、最初の実践例はの見世物小屋で、舞台装置の一部を不自然に大型化したことだとされる。この時、観客数は平常の約1.8倍である2,460人に達し、興行主が「寸法は道徳より強い」と記したメモが残されている。
大日本増径協会の成立[編集]
、の船場において、大日本増径協会が結成されたとされる。会員は初年度で37名、うち正会員が21名、賛助会員が11名、幽霊会員が5名であったという記録がある[3]。
協会はに事務局を置き、月刊誌『増大の友』を発行した。同誌には、祭礼用の山車をいかに「誇張しつつも品位を保つか」という実務記事が並び、やがて、、の各界から妙な支持を集めた。特にの文化欄に掲載された無署名社説「高さは徳である」は、後の運動拡大に決定的な影響を与えたとされる。
ただし、協会の会計帳簿では、研究費よりも木工用の膠と松脂の支出が多く、実態は思想団体というより巨大看板の制作サークルに近かったとの指摘もある。
最盛期と反発[編集]
最盛期は10年代であり、の広告塔、の祇園祭の飾り物、さらにはの百貨店の屋上遊園地にまで思想が波及したとされる。とりわけの「帝都男根展覧会」は、来場者8万3,412人を記録し、主催側は「日本初の寸法主義博覧会」と自賛した。
しかし、やの一部官僚は、公共空間における形態の過剰な主張が風紀を乱すとして警戒した。1926年にはが、浅草周辺の配布ビラに対して「語義は学術的であるが意図は不明」とする内部通達を出したと伝えられる[4]。
この時期、批判者の間では「巨大陰茎主義は都市の品位を損ねる」との主張が強まり、協会側は逆に「縮小主義こそ近代日本の病理である」と応酬した。双方の討論会はたびたび荒れ、2時間の会合に対し議事録が19ページを超えることもあった。
衰退と地下化[編集]
以降、戦時下の統制強化により、巨大陰茎主義者を名乗ることはほぼ不可能になった。多くの会員は研究会や保存会に看板を掛け替え、思想は表向きには消滅したとみられている。
ただし、諏訪地方の祭礼記録や、の戦後広告史には、形を変えた影響が残ったとされる。特にの大阪万博準備会合において、「視認距離30メートル以上の象徴物は都市に必要である」という発言が議事録に現れ、研究者の間では同運動の残響として注目されている。
さらに、戦後の一部学生運動では「増大するものに権威は宿る」というスローガンが再利用されたが、これは必ずしも原義を継承したものではなく、むしろレトリックだけが独り歩きした例であるとされる。
思想と実践[編集]
巨大陰茎主義者の思想は、単なる身体崇拝ではなく、拡張、可視化、反復の三原則から成ると説明される。彼らは「大きいこと」は単に性的な意味ではなく、祭礼の盛況、旗印の視認性、会議室での発言権にまで及ぶと考えた。
実践面では、祭具の長さをで細かく管理し、最適値を「九寸三分」とする説が有力であった。ただし、所蔵とされる設計図には、明らかに実用性を欠く2間半の模型が記されており、ここから「過剰美学」への傾倒が読み取れる。
また、彼らの会合では、参加者が木製の模型を用いて街区の「象徴密度」を測定したという。神田では7ブロック中5ブロックが基準値を超えたとされるが、測定法がほぼ主観だったため、学術的価値には疑義がある。
社会的影響[編集]
社会的影響は予想外に広く、の装飾設計、の看板、の番付レイアウトにまで及んだとされる。とりわけ大衆文化においては、「大きく見せる」こと自体が正当化される風潮を助長し、初期の広告コピーに「量感」「堂々」「堂々たる」の語が急増した。
一方で、教育現場では困惑も大きかった。1929年、の美術教育講義でこの運動が取り上げられた際、受講生47名のうち38名がノートに意味不明の図形を描いたとされ、担当教員は「分類学上は思想であるが、運用上は悪戯に近い」と記録している。
なお、の一部資料では、祭礼時に大型模型が群衆を誘導しやすいことから、防災面で一定の効果があったとも分析されている。つまり、社会秩序を乱しただけでなく、時に人の流れを整えたという、きわめて厄介な思想であった。
批判と論争[編集]
批判の中心は、女性排除の傾向と、公共空間における過度の象徴化であった。特にの『婦人之友』掲載記事「大きさの専制」は、巨大陰茎主義者を「近代に仮装した原始信仰」と断じ、大きな反響を呼んだ[5]。
また、の社会学者・新田宗次は、同運動が実際には男性器そのものではなく、「大きいものに従うことで安心したい集団心理」を扱っていると論じた。これに対し協会側は、「小ささを美徳とするのもまた一種の形態暴力である」と反論し、論争は堂々巡りを続けた。
もっとも、当事者の多くは自らを過激派と見なしておらず、むしろ祭りや演劇の文脈での造形論に近いものだったと主張していた。ここに、後世の研究者がこの運動を理解しづらくしている最大の理由がある。
脚注[編集]
[1] 『帝都形態覚書』初版奥付による。 [2] 東京都古書資料室所蔵目録、No.4172。 [3] 大日本増径協会「会員名簿」1911年度版。 [4] 警視庁特別風俗取締報第27号。 [5] 『婦人之友』1925年6月号、pp. 44-47。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『帝都形態覚書』帝都出版部, 1907, pp. 11-39.
- ^ 久保田ハル『増大の友 第一輯』大日本増径協会刊行会, 1912, pp. 3-28.
- ^ 新田宗次「形態の政治学と祭礼装置」『社会構造研究』Vol. 14, No. 2, 1926, pp. 201-219.
- ^ Margaret A. Thornton, “Monumental Desire and Civic Scale,” Journal of Urban Symbolism, Vol. 6, No. 1, 1931, pp. 17-42.
- ^ セルゲイ・V・モロゾフ『寸法と秩序』神田学芸社, 1909, pp. 54-76.
- ^ 『警視庁特別風俗取締報 第27号』警視庁資料課, 1926, pp. 1-12.
- ^ 田村光雄『看板の近代史』東京美術書院, 1959, pp. 88-103.
- ^ Eleanor B. Fiske, “The Politics of Oversizing in Early Twentieth-Century Japan,” Bulletin of Comparative Aesthetics, Vol. 9, No. 4, 1964, pp. 233-251.
- ^ 『婦人之友』1925年6月号、pp. 44-47.
- ^ 高橋千里『祭礼と誇張の民俗誌』民俗文化研究所, 1978, pp. 140-168.
外部リンク
- 帝都形態アーカイブ
- 大日本増径協会資料室
- 神田古書断片データベース
- 都市象徴研究フォーラム
- 諏訪祭礼形態史センター