忙しい時に限って客が来る
| 名称 | 忙しい時に限って客が来る |
|---|---|
| 分類 | 接客工学・労務民俗学 |
| 初出 | 1912年頃 |
| 提唱者 | 渡辺精一郎(労務統計家) |
| 主な研究拠点 | 大阪商業講習所、東京市産業試験場 |
| 関連現象 | 空いている時ほど来客がない現象 |
| 標語化 | 昭和初期の百貨店案内放送 |
| 社会的影響 | 窓口配置、呼出鈴、待機番制度の普及 |
忙しい時に限って客が来るとは、店舗・窓口・個人事務所などにおいて、最も処理能力が低下している瞬間を見計らったかのように来訪者が集中する現象を指す俗語的概念である。20世紀初頭ので発生した労務統計の誤読を起源とし、その後の防犯・接客研究に取り込まれたとされる[1]。
概要[編集]
忙しい時に限って客が来る現象は、単なる偶然ではなく、業務が逼迫した瞬間に来訪者の判断が鈍ることで増幅されると説明されてきた。実際には、、、など、待ち時間が可視化されやすい場所で頻繁に報告される。
この概念は、末から期にかけて、接客の波を数値化しようとした官民の試みのなかで半ば冗談として定着したものである。のちにの調査員が「午前十一時十四分の呼鈴集中」を記録したことから、統計用語としても扱われるようになった[2]。
起源[編集]
最初の記録は、の呉服店主・渡辺精一郎が残した帳簿断片に見える。そこには「午前は無客、昼に三人、釜湯を沸かすと七人」とあり、後年の研究者はこれを「忙しい時に限って客が来る」の原型と解釈した。
もっとも、渡辺本人は当初、これはとに反応しただけだと考えていたとされる。しかしの助手、松原兼吉がこれを来客行動の法則としてメモ化し、1920年代には「繁忙時選択来店理論」と呼ばれるようになった。
一方で、の港湾事務所では同様の現象が「積荷の山を見ると人が集まる」と呼ばれ、商業だけでなく事務処理全般に当てはめられた。なお、この時点で既に「客が来る」の客がを含むのかを含むのかで研究者が割れていた[3]。
歴史[編集]
大正期の接客統計[編集]
の後、臨時営業所の増加により来客の偏りが顕著になったとされる。東京市産業試験場は、復興バラックの八店舗を対象に来客時刻を15分単位で記録し、繁忙時に来る客の32%が「その店が最も混んでいる瞬間」を狙っていたと報告した。
この数字は現在ではやや怪しいとされるが、報告書には実際に「混雑は集客を呼ぶ」と書かれており、のちの研究の端緒になったとされる。特にの玩具店では、店主が片手で釣銭を数えているときに限って3人以上の客が入店する事例が17日連続で起きたという。
昭和初期の標語化[編集]
初期になると、百貨店の売り場主任たちがこの現象を逆手に取り、「忙しい店ほど繁盛して見える」とする演出を始めた。大阪のでは、午後三時の最混雑帯に合わせてわざとレジ待ち列を一本だけに絞り、結果として客の滞留時間が平均4分12秒伸びたとされる。
また、系の社内教育資料には「暇そうに見える売り場には客は来ない。忙しく見える売り場に客は来る」との記述があり、これが一般化の契機になった。もっとも、同資料の一部は後世の筆写であり、実際には「忙しいふり」を推奨していた可能性も指摘されている[4]。
戦後の再定義[編集]
戦後の統制下では、窓口業務の合理化が進められたが、逆に「忙しい時に限って客が来る」は業務設計上の警句として再評価された。とくにとでは、昼休み開始直後の来訪が多発することから、内部では「一斉開店現象」とも呼ばれた。
1958年にはの社会工学研究室が、来客の集中を説明するため「人は他者の待ち時間を見て安心する」という仮説を提唱した。ただし同研究室の院生レポートには、計測器の故障で「呼鈴を押した回数」が「客数」として処理されていた痕跡があり、学界では今も半分冗談で引用されている。
理論[編集]
この現象を説明する理論としては、主に三つが知られている。第一にであり、人は繁忙の気配を「営業中の証拠」と見なして訪れるという説である。第二にで、客は長く来店を迷った末、店側の余裕がなくなった瞬間に決断するという。
第三に、やや奇抜ではあるががある。これは、店主が湯を沸かしたり帳面を閉じたりしたときに来客が増えるというもので、昭和30年代の大阪では「湯気を見て来る」とまで言われた。統計上は説明不能な揺らぎが多いが、ではむしろこの不規則性こそが概念の本質だとされている。
なお、の1964年報告では、来客集中のピークは「店主が昼食の弁当を開けた直後」に現れたとあるが、調査票の半数以上が手書きで判読不能であったため、学術的には慎重な扱いが必要である。
社会的影響[編集]
この概念は、実務上きわめて大きな影響を与えた。たとえばでは、番号札の導入以前から「忙しいときほど用件の重い客が来る」として、難案件担当者を一人余分に配置する慣行が広まった。また、では患者が増える時間帯を見越して診察室の椅子を一脚だけ余分に置く文化が生まれた。
さらに、商店街では「繁忙時来客は広告効果を伴う」とされ、わざと帳場を見せるガラス張りのカウンターが増えた。これにより、やの一部店舗では、混雑の演出が接客技術として制度化された。
一方で、労働者側からは「忙しい時に限って客が来るのは宇宙の嫌がらせである」との声もあり、のビラにこの表現が掲載されたことがある。もっとも、配布部数は87部にとどまり、社会運動としては小規模だった。
批判と論争[編集]
批判の中心は、この現象が本当に法則なのか、それとも単に人間が忙しい記憶だけを強く残す選択的認知なのかという点にある。の心理学者、古賀春夫は「来客は均等に来ているが、忙しい瞬間だけが神話化される」と述べた。
これに対し、は「均等ならば、なぜ午前の掃除中に限って呼鈴が鳴るのか」と反論し、1971年には実験店舗で12日間にわたる観測を行った。その結果、客の来訪時刻はほぼランダムである一方、店員が全員で雑務に入った瞬間に限って来客数が増えるように見えたため、結論は「心理的には真、統計的には不明」とされた。
なお、1989年の大会では、発表中に演者の原稿が落下し、その直後に受付へ3組の来客が押し寄せたため、会場全体がこの現象の実演だとして拍手したという逸話が残る。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『大阪商店街来客異常記録』私家版, 1914.
- ^ 松原兼吉『繁忙時選択来店理論ノート』大阪商業講習所紀要 第3巻第2号, 1921.
- ^ 東京市産業試験場 編『復興期来客時刻調査報告』東京市役所出版部, 1924.
- ^ 古賀春夫『接客心理の選択的記憶』京都大学文学部研究報告 Vol.17, pp.44-71, 1957.
- ^ 小林澄子『百貨店における混雑演出の方法』日本商業評論 第12巻第4号, pp.201-219, 1933.
- ^ H. M. Watanabe, “The Busy Moment Visitor Phenomenon,” Journal of Urban Service Studies, Vol. 5, No. 1, pp. 9-28, 1962.
- ^ Aiko Nishimura, “Queue Visibility and Customer Arrival Timing,” Proceedings of the Tokyo Institute of Applied Folklore, Vol. 8, pp. 113-140, 1974.
- ^ 日本接客学会 編『接客業務の不思議な同時多発性』学会叢書 第6巻, 1989.
- ^ 高瀬良一『昼休み開始直後に来る客の社会学』商工中央出版社, 1998.
- ^ Marjorie C. Ellis, “When the Bell Rings, They Come: A Study of Small Retail Interruptions,” Pacific Business Anthropology Review, Vol. 11, No. 3, pp. 55-66, 2006.
- ^ 藤井和也『忙しい時に限って客が来る現象の神話学』関西民俗研究所, 2012.
外部リンク
- 日本接客民俗学会
- 大阪商業講習所アーカイブ
- 東京市産業試験場デジタル紀要
- 繁忙時来客研究センター
- 商店街心理統計ライブラリ