怒白民
| 名称 | 怒白民 |
|---|---|
| 読み | どはくみん |
| 別名 | 白怒慣習、怒転儀礼 |
| 成立 | 1897年頃 |
| 地域 | 北海道道南部、のち全国 |
| 主な担い手 | 村役場、炭鉱組合、講中 |
| 主な道具 | 白旗、白木札、石灰袋 |
| 関連機関 | 北海道庁拓殖課、帝国民俗研究会 |
| 性格 | 儀礼・統治・娯楽の混合 |
| 衰退 | 1960年代以降 |
怒白民(どはくみん、英: Dohakumin)は、後期のにおいて発生したとされる、怒りを白い儀礼具に転写して共同体の不満を可視化するための民俗的制度である。のちにやへも転用され、中期には一部の研究者から「感情の行政化」の先駆とみなされた[1]。
概要[編集]
怒白民は、もともとの開墾地において、口論や賃金不満を直接訴える代わりに、白い布や木札へ怒気を「移す」ことで共同体の対立を和らげるための慣行であったとされる。布はで白く塗られ、月末にまとめて焼却されることが多く、これを「白納め」と呼んだという。
制度としての怒白民は、単なる風習ではなく、の記録係やの監督が半ば公認で関与した点に特徴がある。怒りの内容を短冊に書き、白布の袋へ収めるという方式は、後にの簡易苦情受付として採用されたが、その際に「怒りを見える化する」という奇妙な標語だけが独り歩きしたとされる。
歴史[編集]
起源伝承[編集]
もっとも古い記録は、近郊の開墾戸籍簿の余白に記された「白袋三、怒一切なきこと」という欄であるとされる[要出典]。地元の口碑では、米の不作と賃金遅配が重なった際、の講中が「怒りは黒く残るゆえ、まず白へ預けよ」と説いたのが始まりとされ、以後、白い布を介した告発が習俗化したという。
この時期の怒白民は宗教儀礼に近く、参加者は産の石灰を指で額に塗り、怒りを「乾かす」所作を行った。塗り残しのある者は翌朝の共同炊事に参加できない決まりがあったが、これは実際には炊事班の人数調整を名目化したものともいわれる。
制度化と普及[編集]
、拓殖課の下級技師であったが、怒白民を「共同体内紛争の低コスト解決法」として報告書にまとめ、全道七か村への試行を提案した。報告書には、導入後3か月で口論件数が月平均17.4件から6.1件に減少したと記されているが、同時に白布の調達費が前年の2.8倍に膨らんだことも付記されていた。
期にはの港湾労働者組合がこれを流用し、作業停止ではなく「白怒掲示」を掲げて交渉する方式が生まれた。掲示板には賃上げ要求のほか「炊き出しの味噌が薄い」「監督の帽子がまぶしい」などの、やや私的な怒りも含まれたため、後年の民俗学者からは「要求と感情の判別が曖昧である」と評された。
都市化と変質[編集]
初期になると怒白民はの下町にも伝播し、やでは町内会の掲示板に白紙を貼り、そこへ不満を鉛筆で薄く書く作法が流行した。ここで重要なのは、怒りを濃く書くほど「黒み」が増して縁起が悪いとされ、意図的に薄筆で書く点である。結果として、読めるようで読めない苦情が増え、役所の窓口では「解読係」が常勤化した。
にはが怒白民を「情緒の準官僚化」と位置づけ、系譜の研究者と、行政学者のあいだで短い論争が起きた。前者は「感情の風土的表現」とし、後者は「苦情処理の早期前倒し」と解釈したが、双方とも白布の在庫簿だけは異様に詳しく引用していたとされる。
戦後の再編[編集]
戦後、怒白民は一時「封建的な情緒統制」として批判されたが、に内の婦人会が、地域清掃と合わせた「白怒清め」を始めたことで再評価された。清掃範囲は月ごとに増減したが、記録上は平均で約1.7町会分の不満が一度に処理されたとされる。
この時代の特徴は、怒りの対象が個人から制度へ移ったことである。たとえば、、、そして「空襲後に残った空き地の風向き」までが白紙に書かれた。なお、ある地区では怒白民の終了後に白布を干すための専用塔が建てられたが、住民はそれを単に「怒干し台」と呼んでいた。
手順[編集]
怒白民の典型的な手順は、第一に白布または白木札を用意し、第二に怒りの種を一行だけ記すか、あるいは無言のまま持参することである。第三に、の境内、村役場の裏口、または炭鉱の休憩所に設けられた「白囲い」に奉納し、第四に参加者が同時に一礼してから離れる。
特筆すべきは、怒りをあえて共有しない「無記入奉納」が正式の型として認められていた点である。民俗学上は珍しく、内容の空白そのものが不満の大きさを示すと解釈された。1958年の調査では、無記入奉納の比率は全体の42%に達し、その半分は「書く気力もないほどの怒り」であったと推定されている。
社会的影響[編集]
怒白民は、感情の暴発を抑えるだけでなく、共同体が誰にどれだけ怒っているかを半ば定量化した点で注目された。これにより、町内会では「誰がどの白布を出したか」を巡る逆風が発生し、結果として表向きの平穏と裏側の緊張が同時に増したといわれる。
また、企業の労務部門では怒白民の形式が流用され、頃には一部の工場で「白札提案箱」が導入された。提案箱と称しつつ、実際には残業への不満、茶の濃さ、帽子の置き場まで記入されるため、月例集計表が異常に厚くなったという。ある工場では集計担当が白札を数えすぎて腱鞘炎になり、以後「怒白民は人を平等に疲れさせる」と書かれた社内報が残っている。
批判と論争[編集]
怒白民には、感情を制度化しすぎることで本来の怒りを薄めるという批判があった。特にの文化人からは、怒りを白くする行為は「浄化」ではなく「希釈」であるとされ、実際に薄くなったのは怒りではなく責任の所在だという指摘がなされた。
一方で、地方の行政担当者はこれを歓迎し、口頭の苦情より記録が残る点を高く評価した。ただし、1961年のにおける聞き取りでは、担当者の7割が「怒白民の由来を正確には知らないが、白いので清潔だと思っていた」と答えたとされ、この調査結果はのちに民俗学会で妙に長く引用された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 斎藤栄之助『怒白民調査報告書』北海道庁拓殖課資料室, 1908年.
- ^ 柳田民蔵『白布と怒気――道南民俗の記録』民俗学叢書刊行会, 1937年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Whitener Rites and Administrative Anger in Northern Japan", Journal of Ethnographic Systems, Vol. 12, No. 3, 1954, pp. 201-228.
- ^ 佐伯信一『町内会と感情の配分』東京社会研究社, 1962年.
- ^ Hiroshi K. Endo, "The Paper Box That Listened: Complaint Rituals in Postwar Hokkaido", Asian Folklore Review, Vol. 8, Issue 2, 1971, pp. 44-63.
- ^ 高梨しげる『怒白民の経済史』北方出版, 1978年.
- ^ Eleanor P. Vance, "Administrative Purification and the Color White", Proceedings of the Society for Civic Ritual Studies, Vol. 4, 1983, pp. 89-117.
- ^ 小田切冬彦『白怒清めの研究』港南民俗学会紀要, 第11巻第2号, 1991年, pp. 15-39.
- ^ Masato K. Uehara, "The Sociology of Unwritten Complaint in Japan", Civic Anthropology Quarterly, Vol. 19, No. 1, 2002, pp. 5-31.
- ^ 河合真理子『怒白民と近代行政――空白が記録になるとき』青弓社, 2009年.
- ^ T. H. Wexler, "Too White to Be Angry: Notes on a Japanese Cleanliness Cult", The Review of Impossible Customs, Vol. 2, No. 4, 2015, pp. 77-101.
外部リンク
- 帝国民俗資料アーカイブ
- 白怒研究センター
- 北海道口碑データベース
- 町内会文化史館
- 感情行政史研究所