愛は精神疾患である主義
| 提唱者 | ヴィクトル・レーヴェンハルト |
|---|---|
| 成立時期 | 1897年頃 |
| 発祥地 | オーストリア=ハンガリー帝国・ウィーン |
| 主な論者 | エリーザ・マルテン、久世慎一郎、ハンス・アーベル |
| 代表的著作 | 『情動の病理学』 |
| 対立概念 | 愛情本質主義、自由恋愛主義 |
愛は精神疾患である主義(あいはせいしんしっかんであるしゅぎ、英: Love as Mental Illnessism)とは、をの発現として理解し、その診断可能性と制度的管理の優位を説く思想的立場である[1]。
概要[編集]
は、恋愛感情を単なる情緒ではなく、神経系の過敏化、反復思考、社会的判断力の低下を伴う病理的状態として捉える思想である。支持者は、愛が個人の自由意思によって完全に統御されるという前提を批判し、むしろとによって初めて倫理的に扱えると主張した。
この立場は、末ので、都市化に伴う婚姻不安と神経衰弱論の流行を背景に成立したとされる。のちに、、へと伝播し、文学批評、教育行政、婚姻法学にまで影響を及ぼしたとされる[2]。
語源[編集]
「愛は精神疾患である」という表現は、もともとの診療記録に見られた「愛着性急性錯乱(原語: *akute Liebesverwirrung*)」という仮称に由来するといわれる。これをがの講演で「愛は病名である」と言い換え、さらに弟子のがを付して学派名に整えた[3]。
英語名の *Love as Mental Illnessism* は、の批評家が雑誌『*The Quarterly Affect Review*』で皮肉として用いた表現が定着したものである。ただし、当初は揶揄の意味が強かったにもかかわらず、以降は支持者自身が逆用し、むしろ標語として掲げるようになったとされる。
歴史的背景[編集]
末のでは、とが急速に制度化され、感情を病理として記述する語彙が整備されつつあった。はの外来棟で、恋愛中の患者が示す睡眠障害、過剰な手紙の往復、駅での待機行動を観察し、これを「愛の三徴候」と命名したとされる[4]。
また当時は、の家族政策と婚姻審査が厳格化しており、恋愛は個人の内面の問題であると同時に、戸籍・相続・軍役に関わる行政問題でもあった。このため、愛を精神状態として分類する発想は、単なる奇説ではなく、官僚制と相性のよい実務的理論として受け入れられたのである。
主要な思想家[編集]
ヴィクトル・レーヴェンハルト[編集]
(-)は、学派の創始者とされるである。彼は愛情を「自己像の外部化に伴う慢性錯乱」と定義し、恋文の文体分析によって重症度を判定できると主張した。晩年にはで、患者ごとに「相手のイニシャルが3回以上出る場合は中等度、7回以上で重度」とする独自基準を用いたというが、出典は限られている[5]。
エリーザ・マルテン[編集]
(-)は、の哲学者で、学説を倫理学へ拡張した人物である。マルテンによれば、愛は個人の真実ではなく、共同体に対する「感情の公害」であり、したがって公共圏から一時的に退避させるべきだとされた。彼女はに『*Über die Pathologie der Zuneigung*』を発表し、恋愛を「非対称な相互感染」と呼んだ[6]。
久世慎一郎[編集]
(くぜ しんいちろう、-)は、期でこの思想を紹介した評論家である。彼はの講義録を独自に翻案し、恋愛映画の受容にという概念を導入した。久世はまた、のカフェで行われた座談会で「愛の発熱は熱情ではなく、統計上の逸脱にすぎない」と述べたとされる[7]。
基本的教説[編集]
本主義の中心命題は、愛は自発的な徳ではなく、診断可能なとして現れるというものである。支持者は、恋愛における反復的想起、理想化、所有欲、嫉妬を症状群として整理し、これらが一定数を超えた場合は「情動隔離」の対象になるとした。
第二の教説は、愛の評価は本人の告白ではなく、第三者による観察に委ねるべきだという点にある。派は、当事者は自己の恋愛状態を過大評価しがちであり、したがって・・の三者による合議が必要であると説いた。
第三に、この主義は愛の価値を全面否定するものではないとされる。むしろ、病理としての愛を正確に把握したうえで、婚姻制度、教育、都市設計によってその発作性を緩和すべきだと主張した。たとえばのマルテン草稿には、恋文の投函口を駅前から2町ほど離すべきであるとの提案が見られる[8]。
批判と反論[編集]
批判者は、本主義が感情の複雑性を単純な病名に還元し、個人の自由を過度に医療化する危険があると指摘した。とくにの倫理学者は、愛を疾患として扱うことは、婚姻の不満や孤独をすべて患者個人に帰責する装置になりうると論じた。
一方で支持者は、これは「治療」ではなく「保全」であると反論した。すなわち、愛を野放しにするほうが社会的損失が大きく、むしろ早期に分類し、記録し、場合によっては共同食堂の席を分けるほうが共同体に資するというのである。なおのでは、反対派の演説中に2組の聴衆が同時に手を握り始め、議場が一時中断したという逸話が残る[9]。
他の学問への影響[編集]
では、愛着理論の前史としてではなく、「過度な自己投影の計量化」を促した思想として参照された。とりわけのでは、恋愛相談欄が急増し、新聞社が「愛情熱度指数」を独自に掲載したことがある。
への影響も大きく、やの前衛作家たちは、恋愛小説を症状記録として書き換える実験を行った。ある作品では、告白の場面がすべて脈拍、視線回数、ため息の深さで描写され、批評家から「冷たすぎて逆に熱い」と評された。ほかにでは、婚姻取消の要件に「一方が相手の名前を寝言で3夜続けて呼ぶこと」を含めるべきだという草案まで現れたが、採択には至らなかった[10]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ V. Levenhardt, 『Die Pathologie der Liebe』, Verlag für Seelenkunde, 1898, pp. 41-88.
- ^ エリーザ・マルテン「感情の公共性とその禁制」『ベルリン哲学雑誌』Vol. 12, No. 3, 1912, pp. 201-226.
- ^ 久世慎一郎『恋愛病理学序説』、中央評論社、1921年、pp. 15-63.
- ^ H. W. Pennington, “On Love as an Administrative Fever,” *The Quarterly Affect Review*, Vol. 4, No. 1, 1903, pp. 9-27.
- ^ ロベール・デュフォー「病名としての愛とその限界」『ジュネーヴ倫理研究』第8巻第2号、1927年、pp. 55-79.
- ^ A. K. Rosenfeld, *Affective Disorders in Imperial Cities*, Northbridge University Press, 1934, pp. 112-149.
- ^ 小田桐晶子『感情を数える——近代日本の恋愛統計』、港出版会、1986年、pp. 88-121.
- ^ Margaret E. Haller, “The Civic Management of Courtship,” *Journal of Speculative Sociology*, Vol. 17, No. 4, 1948, pp. 300-339.
- ^ 『プラハ国際感情会議議事録』、国際情動学会資料室、1926年、pp. 7-14.
- ^ 三浦冬彦『婚姻取消と反復的想起』、法政新書、1979年、pp. 5-29.
- ^ E. Marten, *Über die Pathologie der Zuneigung*, Privatdruck, 1911, pp. 1-54.
外部リンク
- ウィーン情動史研究所
- 国際恋愛病理学会
- 情動行政資料アーカイブ
- ベルリン感情批評センター
- 架空哲学事典・愛情篇