戦艦信濃記念公園
| 名称 | 戦艦信濃記念公園 |
|---|---|
| 所在地 | 神奈川県横須賀市追浜沖再編地区 |
| 種別 | 都市記念公園・海軍遺構公園 |
| 開園 | 1978年4月27日 |
| 管理 | 横須賀港湾公園協会 |
| 主題 | 戦艦信濃、艦政本部、戦後港湾再生 |
| 面積 | 約18.6ヘクタール |
| 年間来園者数 | 約42万3000人(2022年度推計) |
| 特色 | 艦橋展望塔、反転甲板広場、沈没年輪池 |
| 愛称 | しなの公園 |
戦艦信濃記念公園(せんかんしなのきねんこうえん)は、の旧海軍関連埋立地を中心に整備されたとされる、戦艦の建造記憶を主題とする都市記念公園である。軍港史の慰霊、港湾緑地、ならびに「未成艦の完成を空間で補う」試みとして知られている[1]。
概要[編集]
戦艦信濃記念公園は、末期に未成のまま失われたの「もし完成していたならば」という想像を、という形式で可視化した施設である。旧の記憶を継承する地域住民と、戦後の港湾整備を進めた行政が、慰霊と観光の両立を目指して構想したものとされる。
公園内には、艦体長約266.3メートルを地面に投影した「全長線」や、喫水線を模した長さ41メートルの遊歩道、さらに月齢に応じて照明色が変化する「艦影灯」が設けられている。これらは単なるモニュメントではなく、戦艦という巨大な機械が社会の記憶にどう残るかを問うための装置であると説明されている[2]。
成立の経緯[編集]
起源は、横須賀の復員者団体が行った「未成艦追悼集会」にさかのぼるとされる。集会の席で、元嘱託だった渡会精三郎が、信濃の設計図の余白に「艦は海に沈んだが、記憶は陸上に残すべきだ」と書き込み、これが後の公園構想の原型になったという。
その後、代初頭にとが進めた臨海部再編計画に、地元商工会と旧軍港資料保存会が介入し、「軍事遺構を娯楽化しない公共緑地」という名目で案が調整された。記録によれば、1974年の基本設計会議では、芝生の曲率を艦首の外板曲線に合わせるかどうかで8時間以上議論が続き、最終的に半径112メートルの緩勾配が採用されたとされる[3]。
開園はであるが、完成式典の際に主催者が「これは完成ではなく、建造中止の補綴である」と述べたことから、以後もしばしば「未完の記念公園」と呼ばれている。なお、式典用に製作された艦首模型は、台風接近時に倉庫へ移送されたまま戻らず、現在も行方不明であるという。
設計と構成[編集]
艦体再現ゾーン[編集]
園内中央の「艦体再現ゾーン」は、信濃の設計図をもとに地表へ輪郭を起こした区域である。実寸に近い長さ266メートルの直線舗装があり、北端には主砲塔を模した花壇が3基並ぶ。花壇の石材は産の黒雲母安山岩で、艦名との語呂合わせから選ばれたとされる。
沈没年輪池[編集]
「沈没年輪池」は直径19メートルの浅い人工池で、中央の浮島が潮位ではなく風速で微妙に位置を変える仕組みになっている。これは、艦の進水後わずか数日で喪失したという逸話を、季節ごとに「沈み続ける」感覚として再演するために導入されたものである。池の底には、1960年代の式測量杭が1本だけ埋められており、来園者がよく写真を撮る。
艦橋展望塔[編集]
高さ24.7メートルの艦橋展望塔は、公園で最も人気のある施設である。外観は旧式艦橋を抽象化したもので、内部の階段はわざと19度の不均一な傾斜で設計されている。安全基準上は問題がないとされるが、3階踊り場で必ず立ち止まる人が多く、地元では「信濃はここで一度考えさせる」と冗談めかして語られている。
文化的役割[編集]
戦艦信濃記念公園は、軍事遺産の保存施設であると同時に、戦後の地域アイデンティティ形成に深く関与した。横須賀では毎年4月に「艦影祭」が開かれ、旧海軍ゆかりの資料展示、艦パンと呼ばれる楕円形の菓子パンの配布、夜間の投光演出が行われる。来園者の約3割は県外からの家族連れであり、残りは近隣住民、鉄道・艦船模型愛好家、部活動帰りの高校生で占められるという調査結果がある[4]。
また、公園は教育現場でも利用されてきた。市内の中学校では、社会科の地域学習として「もし信濃が完成していたら」という仮説討論が行われ、毎年必ず「完成していた場合の食堂数」「乗員の通勤手段」など、授業の主旨からやや外れた質問が出ることで知られる。教師側はこれを「歴史的想像力の訓練」と位置づけている。
一方で、戦争遺構をテーマパーク化することへの批判もあった。とりわけ開園当初は、艦橋展望塔の売店で販売されていた缶入り「沈まないラムネ」が、記念性よりも土産物性を強めすぎるとして論争になった。現在は商品名が「記憶ラムネ」に改められている。
施設とイベント[編集]
公園では季節ごとに異なる催しが行われる。春には「就役しなかった艦のための植樹会」、夏には波音を増幅する野外朗読会、秋には艦内食堂を再現した屋台村が開かれる。屋台村では、当時の補給帳簿を参考にしたという「八宝缶飯」や、直径16センチの「タービン焼き」が名物である。
冬の目玉は「反転甲板ライトアップ」で、地面に投影された艦影の輪郭が夜間だけ逆さまになる。これは「本来海に向くべきものが陸に残った」という公園の理念を象徴する演出とされるが、実際には照明設備の配線都合で逆転表示になったものをそのまま採用したと、元担当技師の証言が残っている。
なお、毎年8月15日の終戦記念日には、来園者が花壇の主砲塔前で黙礼を行う慣習がある。ここでは黙礼が長引きすぎると係員が「艦はまだ出港しません」とアナウンスするのが恒例である。
批判と論争[編集]
戦艦信濃記念公園をめぐっては、早くから「記憶の保存」と「軍国主義の再演」の境界が議論された。とくに1983年、園内の土産物店が販売した金属製キーホルダーに、艦番号に似せた型番が刻印されていた件は、旧軍関係者から「過剰な商品化」と批判された。
また、園の公式パンフレットには、信濃の艦内構造について「未完成であったため、理論上の導線が最も美しかった」とする一文があり、歴史研究者から「完成していないものの美学を安易に語りすぎている」と指摘されている[5]。ただし、公園側は「未完の記憶を扱う以上、多少の詩的誇張は避けられない」として、文言の修正には慎重である。
2011年には、沈没年輪池の水質調整に用いられた植物由来凝集剤が、周辺の鳩の群れを過度に集めるとして苦情が相次いだ。これにより、園内では「鳩が多い日は信濃が浮上したがっている日」という独自の俗信が生まれた。
歴史的評価[編集]
保存運動としての評価[編集]
文化財保護の観点からは、戦艦信濃記念公園は「軍事遺構を破壊せず、かつ軍事そのものを再建しない」中間解として高く評価されている。特に代後半の港湾再開発期に、周辺の倉庫群が次々と商業施設へ転用されるなか、本公園だけが緩衝緑地として残された点は大きい。
観光資源としての評価[編集]
観光面では、の「軍港三角地帯」を構成する施設の一つとして定着した。年間来園者は2022年度に約42万3000人と推計され、そのうち約1万9000人が展望塔の床に引かれた「艦首線」上で記念撮影を行ったという。市の観光課はこれを「偶然にしては多すぎる」とコメントしている。
学術的展開[編集]
近年は、、の交差点にある事例として扱われている。特にの研究グループが2020年に発表した報告では、戦艦の不在を記念する公園は「欠損の可視化」という日本独自の公共設計として分類されている。ただし、同報告には比較対象として「存在しなかった滑走路記念広場」が含まれており、後年の研究者からやや疑義が呈された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡会精三郎『未成艦と都市記憶』港湾文化社, 1981, pp. 44-79.
- ^ 横須賀港湾公園協会編『戦艦信濃記念公園十年誌』同協会出版部, 1989.
- ^ Margaret A. Thornton, "Memorial Landscapes of Unfinished Warships", Journal of Maritime Memory, Vol. 12, No. 3, 1996, pp. 201-228.
- ^ 佐伯直哉『臨海再編と追悼空間』岩波港湾新書, 2004, pp. 115-142.
- ^ Kenjiro Watanabe, "A Park for the Ship That Never Sailed", Pacific Urban History Review, Vol. 8, No. 1, 2001, pp. 17-39.
- ^ 神奈川県都市計画局『横須賀臨海部再編基本資料集』神奈川県公報センター, 1975.
- ^ 小松原美津子『戦後記念公園の設計思想』造園文化出版, 2013, pp. 88-121.
- ^ Theodore L. Hargrove, "Reverse Deck Illumination and Public Mourning", Coastal Heritage Studies, Vol. 5, No. 4, 2018, pp. 55-73.
- ^ 市川義雄『信濃公園の鳩と凝集剤問題』港湾生活研究所紀要, 第7巻第2号, 2012, pp. 9-16.
- ^ 横須賀市観光課『軍港三角地帯来訪者動態調査報告書』2023年版, pp. 3-11.
外部リンク
- 横須賀市港湾公園案内
- 戦艦信濃記念公園友の会
- 臨海記憶研究センター
- 艦影祭実行委員会
- 公共造園史アーカイブ