新幹線全線直通事業計画
| 正式名称 | 新幹線全線直通事業計画 |
|---|---|
| 通称 | 全線直通計画、FTO計画 |
| 主管 | 運輸省鉄道再編企画室 |
| 開始 | 1978年 |
| 凍結 | 1996年 |
| 想定路線数 | 7系統 |
| 想定直通都市 | 14都市 |
| 主要資料 | 直通運転白書・暫定版 |
| 性格 | 国家交通計画 |
新幹線全線直通事業計画(しんかんせんぜんせんちょくつうじぎょうけいかく)は、末期から初期にかけて構想された、全国のを単一の運行規格で相互直通させるための国家的交通再編計画である[1]。結果としては未完に終わったが、後年の各社の車両設計やダイヤ編成に決定的な影響を与えたとされる[2]。
概要[編集]
新幹線全線直通事業計画は、からまでを一つの運行体系として結び、車両・信号・電源・保守規格を統一しようとした構想である。通称の「全線直通」は、単に乗り換えをなくす計画ではなく、東京からまで一筆書きで到達できる国家的な時刻表を指していたとされる。
当初は—間の「相互貫通試験」が小規模に始まったが、事業化の過程で、、、、、を同一規格で束ねる方針へと膨張した。なお、計画書には「最終的に発行きの列車が毎時2本、しかも冬季は遅れないこと」を前提条件とする記載があり、後年の編集者の間でしばしば笑いの種になっている[要出典]。
成立の背景[編集]
発端は後半の国鉄内部で起きた「乗換回数削減論争」である。高度経済成長の終了後、やで生じる接続の遅れが政治問題化し、は「列車が止まるのは物理ではなく制度の問題である」と結論づけたという。これにより、各新幹線が別会社・別規格のまま延伸するのではなく、最初から全線で直通させるべきだという極端な案が採択された。
中心人物は、国鉄技師のと、政策官僚のである。相沢は元々の保守設計に携わっていたが、深夜の検討会で「線路を分けるから遅れる」と書いた紙をに貼り、そこから直通思想が広まったと伝えられる。木村は、これを「交通の縦割り打破」として予算化し、1981年度に試験調査費13億4,000万円を確保した[3]。
計画の構造[編集]
規格統一[編集]
計画の核は、軌間・車体幅・集電方式・パンタグラフ高さを全国で揃えることであった。とくに以前の車両については、床下機器を「連絡式可動棚」と呼ばれる架台に載せ替え、区間ごとに自動で姿勢を変える方式が提案された。これにより、の積雪区間でもの高温区間でも、同一形式の車両が走れるとされた。
もっとも難航したのはを用いた閉塞制御で、計画資料では「東京—博多間で列車が同時に19本並走しても安全に見えること」が求められていた。実際にはとの担当者が試験線で意見を対立させ、ある会議では1時間半にわたり「3分間隔」と「2分48秒間隔」のどちらが国威発揚にふさわしいかが議論されたという。
駅間接続の思想[編集]
この計画では、直通の本質は列車ではなく駅の「接続儀礼」にあるとされた。各には、向かい側ホームへ0分台で移動できる「無言連絡通路」が設けられる予定で、利用客は改札を通らずにホーム上で乗り継ぐ設計であった。特にでは、東海道系と山陽系が同一ホームに停車し、行先表示が回転式から液晶式へ変更された際に、試験担当者が「もはや鉄道ではなく巨大な文具である」と記した記録が残る。
また、全線直通のために「列車名の整流化」が実施され、、、などの名称は、速度帯ではなく社会階層を表す符号として再定義された。これにより、同じ車両でも平日朝は、週末昼はとして扱われる二重運用が構想されていた。
主要な試験運用[編集]
最初の公開試験はので行われた。そこでは試験車「X-17」が、—間を想定した架空ダイヤで走行し、途中でに停車した際、乗客役の職員17人が全員同時に弁当を食べ終えるかどうかが観察された。結果は15人で、残り2人はの到着を待っていたため、プロジェクト班は「食文化との整合に課題あり」と総括した。
1987年には—間で冬季直通試験が行われ、吹雪のために列車が32分遅延したにもかかわらず、時刻表上は「定時」と記録された。これは「広域直通系統では、1列車の遅れは接続先の余白で吸収される」という独自理論に基づくもので、後に交通政策学で「相沢補正」と呼ばれた。なお、この概念は学会では一度も正式採択されていない[要出典]。
政治的経緯[編集]
国鉄分割民営化との関係[編集]
の国鉄分割民営化は、本計画にとって最大の転機であった。各会社が独立採算を重視した結果、全線直通のための共通仕様策定が「誰の費用で誰の列車を通すのか」という問題に変質し、会議はしばしば路線図ではなく決算書を見ながら行われた。とくには、豪雪対策の追加費用を理由に「東京から札幌までを1本でつなぐなら、車内に温泉を入れてほしい」と要望したという。
一方で、はとの車両共通化を積極的に進め、これが後の広域運用の下地になった。結果として、全線直通計画は全面的な国家事業から、個社間の協定群へと縮小されることになる。
予算折衝[編集]
予算面では、建設費よりも保守統一費が問題になった。各社の車両基地に共通の検査札を導入するだけで年間約47億円が必要と見積もられ、財政当局は「その金があれば新幹線をもう半駅伸ばせる」と反論した。これに対し、側は、直通によって発生する経済効果が年間約2,180億円に及ぶと試算し、根拠として「乗換時に飲まれる缶コーヒーの本数」を用いた。
この試算は当時の新聞で半ば揶揄的に報じられたが、のちに地方自治体が直通誘致に参加する契機となった。とくにでは、駅前再開発計画が「通過列車の増加」を前提に組み替えられ、商業床の一部がまだ未入居のまま残っている。
社会的影響[編集]
本計画は完成しなかったものの、日本の鉄道文化に少なくない影響を残した。車両メーカーは「どこへでも入れる」設計思想を強め、結果として各系列車両の顔つきが似通う一方、検修現場では「見た目は同じだが中身が違う」現象が常態化した。これが後年のの厳密な編成管理と、の柔軟な多目的運用の差を生んだと指摘される。
また、旅行雑誌や経済誌では「全線直通できる都市ほど勝つ」という論調が流行し、やの駅前では、開業前から直通記念商品が販売された。中には、直通列車の通過音を再現したとする菓子箱まで登場し、箱を振るとプラスチック製の「連結音」が鳴る仕様で話題になった。
もっとも、地域間格差を拡大させたとの批判もある。直通優先のダイヤが組まれた結果、途中駅の一部では停車本数が減少し、自治体が「通過のための存在になった」と抗議した。これに対し計画側は、「停車回数の少ない地域こそ、広域ネットワークの恩恵を最も早く受ける」と説明したが、説得力はあまりなかったようである。
批判と論争[編集]
最大の論争点は、全線直通が本当に必要だったのかという根本問題である。批判派は、列車は乗り換えを前提とした方が現実的であり、全国規格の統一は過剰投資であると主張した。一方、賛成派は「東京とが一本でつながらない国に未来はない」と強硬で、議論はしばしば路線図ではなく国家観の対立へ移行した。
また、試験ダイヤの検証過程で、車掌が全列車の接続先を暗記する必要が生じたため、現場からは「人間が走行制御装置の付属品になる」との苦情が相次いだ。これを受けてには自動案内装置が導入されたが、初期版はとを聞き間違えることがあり、案内放送が微妙に混乱していた。
なお、計画終盤に作成された最終報告書では、直通率98.6%という達成率が示されたが、その算出式の分母に「運行可能だった日数」ではなく「理想的だった日数」が用いられていたため、後に会計検査院的な立場から疑義が呈された[4]。
その後の継承[編集]
事業自体はの閣議了解で凍結されたが、思想だけは生き残った。現在のの相互直通や乗り入れ、さらには連絡の改善には、本計画で作成された共通仕様書の断片が再利用されているとされる。現場ではこれを「使える部分だけ抜いた遺稿」と呼ぶ。
特に、での階上・階下動線の整理、の折返し余裕時分の設定、以北の冬期運用マニュアルには、計画当時の文言がそのまま残っている箇所がある。編集史研究者のは、全線直通計画を「失敗した国家規模の夢ではなく、成功しすぎた部分構想の集合体」と評している。
一部の鉄道ファンのあいだでは、いまなお毎年に「全線直通の日」と称して架空ダイヤを作成する慣行がある。そこでは—直通の便名が当たり前のように並び、誰も乗れないはずの列車が、なぜかすべて満席想定で組まれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 相沢徳重『新幹線全線直通計画の基礎理論』鉄道技術社、1983年。
- ^ 木村さとみ『広域直通輸送の政策評価』運輸経済研究所、1986年。
- ^ 山本啓介「全国新幹線統一規格案の検討」『鉄道政策評論』第12巻第4号、pp. 44-71、1988年。
- ^ Margaret A. Thornton, "Unified High-Speed Rail Corridors in East Asia", Journal of Comparative Transport, Vol. 7, No. 2, pp. 113-149, 1991.
- ^ 中島由紀夫『失敗した夢の交通史』新潮交通選書、1998年。
- ^ 佐伯みのる「直通運転と沿線経済の再編」『地方都市研究』第21巻第1号、pp. 9-28、1994年。
- ^ Hiroshi Tanabe, "Signal Harmonization in Full-Line Through-Service", Railway Systems Quarterly, Vol. 15, No. 3, pp. 201-226, 1995.
- ^ 『新幹線全線直通事業計画 暫定白書』運輸省鉄道再編企画室、1982年。
- ^ 高橋玲子『車両基地と国家予算』中央交通出版、1992年。
- ^ Michael J. Reardon, "The Economics of Transfer Elimination", International Rail Review, Vol. 3, No. 1, pp. 1-19, 1990.
外部リンク
- 鉄道政策資料アーカイブ
- 新幹線統一規格研究会
- 全国直通時刻表保存会
- 広域高速鉄道史データベース
- 架空交通白書デジタル館