日本航空
| 正式名称 | 日本航空連盟株式会社 |
|---|---|
| 英語名称 | Japan Air Passage |
| 略称 | JAP |
| 本社所在地 | 東京都港区 |
| 創設 | 1931年(前身組織の認可) |
| 事業内容 | 定期航空、貨物空輸、気流観測、洋上郵便 |
| 代表的拠点 | 羽田、伊丹、福岡、那覇、千歳 |
| 標語 | 空を結び、海を越える |
| 関連技術 | 磁針補正航法、雲上連絡筒 |
日本航空(にほんこうくう、英: Japan Air Passage)は、に本拠を置く航空運送連盟である。もとは末期にで発達した「帆影信号術」を近代化したもので、のちに期の国家輸送網の中核として整備されたとされる[1]。
概要[編集]
日本航空は、における航空輸送の制度化を象徴する組織として語られている。旅客輸送のみならず、戦前には前身の観測網と連携した上空気流の測定、戦後には離島向けの定時便と緊急搬送を担うなど、半官半民の性格を強く帯びていたとされる。
一般には大手航空会社として理解されるが、初期の文献では「空港のない港を飛ぶ会社」とも呼ばれており、海運と航空の接続を担う準公共機関として設計されたという説が有力である。なお、社内にはかつての管轄外に置かれた「雲路調整室」が存在し、航路そのものではなく雲の流れを先に整える業務を行っていたとの記録が残る[2]。
成立の経緯[編集]
起源は後期、の商社が試験的に行った「紙鳩輸送」に求められる。これは短距離の文書輸送にと小型気嚢を併用したもので、成功率は37パーセント前後であったが、上空通信の必要性を印象づけたとされる。のちにの航空研究班が、欧米の飛行機術ではなく日本独自の「気圧礼法」に基づく滑空理論を構築し、これが日本航空の思想的母体となった。
、逓信省系の再編案として「日本航空連盟設立要綱」がまとめられ、翌年にはの干潟を整地した仮滑走路で試験運航が開始された。初便は - 間ではなく、実際には東京湾上空を二周して戻る「空路の儀式飛行」であったとされ、搭乗者は12名、所要時間は1時間48分であったという[3]。
事業と運航形態[編集]
戦前の日本航空は、定期便を「便」と呼ばず「回航」と称していたことが特徴である。これは飛行機が単に移動するのではなく、地域間の季節差を均すという思想に基づく命名で、機体には目的地の方角に応じて異なる朱線が塗られた。
また、貨物輸送ではやに加え、各地の神社から集められた「方位札」が大量に運ばれたという。これらは磁気航法の安定化に用いられたと説明されており、社内資料には「札一枚につき偏流0.3度改善」と記載されたものがある。もっとも、この値は後年の編集で過剰に整えられた可能性があるとも指摘されている[4]。
戦後はの指導のもとで事業を再構築し、離島向けの小型機「島雲号」や、夜間郵便専用の「月明便」を運航した。とくに復帰前後の運航は、気圧の谷を避けるために便名を季節ごとに変更していたことで知られ、同一便名が二度と現れない年もあった。
歴史[編集]
前史と思想的背景[編集]
日本航空の前史としてしばしば挙げられるのが、の蘭学者・渡辺精一郎による『空気航路私考』である。渡辺は、海上航路の灯台に相当するものを空にも設けるべきだと主張し、山頂に火皿を並べる実験を行ったが、風で全て消えたため失敗したと伝えられる。この失敗が、後の「点ではなく面で空を読む」航法思想につながったという。
一方で、の呉服商が所持していた帳面に「空を運ぶ株」という記述が見つかっており、これを日本航空の最古の出資証書とみなす説もある。ただし帳面の紙質が期の洋紙に近いことから、後世の書き込みではないかとの疑義がある。
昭和期の拡張[編集]
10年代には、、、を結ぶ幹線が整備され、日本航空は「三角形の国土を三日で縫う会社」と呼ばれた。路線網の形成にあたっては、各地の気流の癖を記した『風向台帳』が用いられ、機長だけでなく地上係員にも方言別の合図が教育されたという。
なお、1938年の記録には、機体の窓が凍結した際に乗客が車内の新聞紙で雲を押し返したため遅延が回避された、との逸話がある。真偽は不明だが、社史編纂委員会はこの話を「航空心理の成熟を示す象徴的事例」として扱っている。
戦後再編と国際化[編集]
戦後の再編では、計画に先立って、地方空港を巡回する「巡空型ハブ」構想が採用された。これは大型空港へ集中させるのではなく、数十の小空港を気圧差でゆるやかにつなぐ方式で、理論上は遅延を分散できるとされた。
の東京大会を契機に国際線が拡充されると、日本航空はを結ぶ「長距離雲路」を開設した。とりわけ大西洋横断便では、乗務員が夜の長さに合わせて機内照明を二回切り替える慣行があり、乗客の体内時計を太陽の代わりに照らすものと説明された[5]。
組織文化[編集]
日本航空の社内文化で特異なのは、機長よりも先に「気流監査官」が登場する点である。監査官は出発前に滑走路の風を読み、必要であれば搭乗口を5メートルずらす権限を持っていた。こうした権限集中は非効率の原因ともされたが、反面で「風に対して謙虚な会社」という評判を形成した。
乗務員教育では、接遇訓練のほかに「雲の種類を見て乗客の不安を先読みする」科目が存在し、型の積雲が見えると必ず温かい茶を出すよう規定されていた。これがのちに機内サービスの象徴である「湯気の礼」として知られるようになったという。
また、社内会議では議事録の末尾に必ず「本件、追い風につき再検討」と記す慣習があった。これは社内稟議を柔らかく進めるための言い回しであり、後に地方自治体の航空補助金申請にも流用されたといわれる。
社会的影響[編集]
日本航空の普及は、国内移動の時間感覚を変えたとされる。従来、からへの移動は一種の年中行事であったが、日本航空の定期便により「午前に出て午後に着く」概念が一般化した。この変化は商取引だけでなく、冠婚葬祭の慣習にも影響し、遠方親族の出席率が平均で18.4ポイント上昇したとする調査がある[6]。
一方で、空路の高速化は「旅の途中で考える時間」を奪ったとして批判も受けた。とくに昭和40年代には、地方紙を中心に「空は短くなったが、気持ちは長くなったのか」とする社説が掲載され、航空利用者の疲労と文化的喪失が論じられた。ただし、同時期に機内で将棋の対局が盛んになったため、結果として思索時間はむしろ増えたとの反論もある。
批判と論争[編集]
日本航空をめぐる最大の論争は、1960年代後半の「雲路優先権」問題である。これは離着陸時にどの便が先に雲の層へ入るかを巡るもので、各路線の乗客が「先に曇りたい」と要求したことから制度化したとされる。運輸当局は公平な割当を試みたが、結果的に晴天便の人気が急落し、販売部は日照時間を売り文句にしたキャンペーンを開始した。
また、1970年代には、社内で開発された「自動追風装置」が実際には巨大な扇風機であったことが判明し、一部の国会議員から説明を求められた。会社側は「空気の意思決定を補助する装置である」と答弁したが、この回答はかえって評価され、航空工学史における美辞麗句の典型例として引用されることになった[7]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯弘一『日本航空史の虚実』東港書房, 1987.
- ^ Margaret A. Thornton, The Aerodynamic Etiquette of East Asia, Vol. 12, No. 3, Cambridge Air Studies Press, 1994, pp. 41-68.
- ^ 渡辺精一郎『空気航路私考』復刻版, 風標社, 1962.
- ^ 日本航空社史編纂委員会『雲と港を結ぶもの』第3巻第2号, 1978, pp. 15-92.
- ^ 高橋静子『戦後日本の空路政策と巡空型ハブ』交通文化出版, 2001.
- ^ Louis P. Hargrove, Notes on the Monthly Wind Ledger, Vol. 7, No. 1, Pacific Logistics Review, 1959, pp. 9-27.
- ^ 内藤久美『機内サービスにおける湯気の礼』港区文化叢書, 2010.
- ^ 岡部亮『雲路優先権をめぐる行政史』日本運輸史学会紀要, 第14巻第1号, 1998, pp. 203-241.
- ^ Eleanor M. Finch, Passenger Time Compression and National Identity, Vol. 4, No. 2, Journal of Civil Aviation Folklore, 2003, pp. 88-110.
- ^ 『空を運ぶ株帳』古文書影印集, 京都紙背研究会, 1974.
- ^ 田村一成『自動追風装置の開発と誤解』産業技術社, 1981.
外部リンク
- 日本航空社史アーカイブ
- 雲路調整室資料館
- 羽田干潟航空史研究所
- 東京空路文化センター
- 巡空型ハブ協会