明治大学野球部員集団失踪事件
| 名称 | 明治大学野球部員集団失踪事件 |
|---|---|
| 発生日時 | 1927年11月3日深夜 |
| 発生場所 | 東京都神田区駿河台一帯 |
| 原因 | 寮内集団退避、通称「赤いノック」説 |
| 行方不明者 | 部員17名、学生記者2名 |
| 関係組織 | 明治大学野球部、学生自治会、東京市警察部 |
| 後続影響 | 春季リーグ日程変更、寮規約改定 |
| 通称 | 駿河台の空室事件 |
明治大学野球部員集団失踪事件(めいじだいがくやきゅうぶいんしゅうだんしっそうじけん)は、にの野球部で発生したとされる、部員17名が一夜にして姿を消した事件である。後年、学生運動と寮内規律、ならびに当時の文化をめぐる象徴的事件として語られている[1]。
概要[編集]
明治大学野球部員集団失踪事件は、の秋季遠征を目前に控えた野球部の部員らが、寮ごと忽然と姿を消したとされる事件である。後に、部員たちは単純な失踪ではなく、当時の寮監制度への抗議、ならびに戦術研究会「火曜ノート」への合流を目的として、計画的に移動していたとする説が広まった[2]。
事件は当時の新聞では「学生の集団越境」「野球部の夜逃げ」とも揶揄されたが、内の下宿街やの坂道に残された足跡、洗濯場に置かれたユニフォーム17着、そして食堂の味噌汁が21杯分だけ手つかずで残っていたことから、単なる家出では説明できないとされた。なお、のちの回想録では、最後に目撃されたのは部員たちが方面へ「グラウンドより静かな場所へ行く」と言い残す姿であったという[3]。
背景[編集]
事件の背景には、から初期にかけての大学野球人気の高まりがある。とりわけの形成期には、各校の野球部が半ば寄宿舎、半ば研究機関のように扱われ、練習法、食事管理、睡眠時間までが勝敗を左右すると信じられていた。
明治大学では、当時の部長であったが「勝つためには九回表のように生きよ」と部員に説いたと伝えられる一方、寮監のは門限違反に極端に厳しく、夜間の素振りすら記録簿への申告を要したとされる。このため、部員の間では寮の規律を「三塁封鎖」と呼ぶ隠語が生まれ、これが後の集団退避計画の下地になったとする研究がある[4]。
事件の経過[編集]
失踪前夜[編集]
の夜、部員たちは寮の講堂で翌日の反省会を行っていたが、途中から議題が「スパイクの磨き方」から「大学野球は誰のものか」に逸れたとされる。夜10時40分頃、主将のが帳簿に「外出届、17名分」と書き残したまま、机上の墨壺を倒したという記録がある。
同時刻、近くのの蕎麦屋では、野球帽をかぶった若者たちが大量の海苔巻きを買い込み、包み紙に「明朝五時、東へ」とだけ記した小切手を渡したとされる。店主は後年、「あれは金ではなく、打球の音に近い紙だった」と証言しており、史料価値は低いが印象は強い。
集団移動[編集]
深夜0時過ぎ、寮の裏門が内側から開かれ、部員たちは2列に整列して方面へ移動したとされる。途中、沿いで学生新聞の記者2名が合流し、部員総数は19名になったという。
彼らはの工事現場を迂回し、最終的にの旧工場跡地にあった臨時練習場へ向かったとする説が有力である。ここで行われたとされる「無言ノック」は、バットを使わずに手袋だけで捕球動作を確認する独特の訓練で、後年のアマチュア野球指導書に影響を与えたとされる[5]。
発見と騒動[編集]
翌朝、寮監が点呼を取った際、17名の部員が不在であることが判明し、ただちにへ通報が行われた。捜索は、、の3方面に分かれて実施され、警察犬4頭、学生自治会の自転車12台、そして近隣住民の聞き込み38件が動員されたという。
もっとも、騒動は6時間ほどで奇妙な収束を見せた。午後2時頃、部員たちは沿いの空き地に姿を現し、全員が同じ筆跡で「帰寮はするが、野球は寮のものではない」と書いた紙片を所持していた。この紙片の墨は、当時の寮の炊事場にあった煤墨と一致したとされるが、なぜ全員が同一文面を携えていたのかは今なお議論がある[6]。
社会的影響[編集]
事件後、明治大学は寮内規約を改定し、外出届の提出時間を「出発の前日18時」から「出発の前々日正午」へ繰り上げた。また、野球部の会計簿には新たに「夜間思想費」という不明瞭な項目が追加され、1928年度だけで42円17銭が計上されたとされる。
一方で、他大学の野球部にも波及があり、やでは、部員の集合・解散を可視化するための「点呼板」が導入された。これは単なる管理強化ではなく、失踪を防ぐために部員の出欠を『戦術の一部』として扱う発想につながったとされ、大学野球の統制文化を変えたと評価されている[7]。
後世の解釈[編集]
学生運動説[編集]
1960年代以降、この事件は学生自治の象徴として再解釈された。とくにの研究者は、部員たちの失踪を「グラウンドの主権をめぐる交渉」とみなし、寮制度を小社会の縮図として論じた。
ただし、当時の一次資料には『主権』や『交渉』といった語はほとんど見られず、むしろ「腹が減った」「門限が早い」といった記述が目立つ。この落差が、事件の政治的解釈に独特の余白を与えている。
戦術実験説[編集]
野球史研究では、事件を戦術実験の一環とみる見解も根強い。部員たちは失踪中に、守備位置を固定せず全員が投手・捕手・外野を兼ねる「可変守備」を試していたとされ、後の短期決戦型野球に通じる発想であったという。
この説を補強する証言として、失踪翌日のボール箱から、通常の軟球とは異なる重さ312グラムの練習球が1個だけ見つかったことが挙げられる。ただし、誰がそれを持ち込んだのかは不明であり、現在では「寮母の勘違い」とする穏当な説も併記される。
批判と論争[編集]
事件の実在性そのものについては、戦前の新聞記事が断片的であることから、後世に脚色された可能性が指摘されている。特に刊の回想集『駿河台夜行録』における記述は、部員数が18名になったり16名になったりしており、編集者による加筆の痕跡が強い。
また、失踪の原因をめぐっては、寮監制度への抗議説、他大学への一時的移籍説、そして「地下練習場での長期合宿説」が対立している。中でも最も奇抜とされるのは、部員たちが神田の古書店で偶然手にした『東亜野球気功法』に感化され、一定期間だけ身体を薄くして移動したという説であるが、学術的支持はほぼない[8]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯俊一『駿河台夜行録――戦前学生野球の周辺』東都出版, 1974.
- ^ M. H. Thornton, "Dormitory Discipline and Baseball Culture in Prewar Tokyo," Journal of East Asian Sports History, Vol. 12, No. 3, pp. 41-68, 1988.
- ^ 荒木志乃『学生自治とグラウンド主権』法政社会学叢書, 1999.
- ^ 長谷川理一『明治大学野球部史料集 第三巻』駿台資料刊行会, 1963.
- ^ Kenjiro Wada, "The Red Bat Incident and Intercollegiate Mobility," Nippon Historical Review, Vol. 27, No. 1, pp. 9-22, 2004.
- ^ 白石久美『門限以前の青春――寮監と部員の近代』青弓社, 2011.
- ^ Y. Tanaka, "Collective Vanishing as a Tactical Form," The Baseball Quarterly, Vol. 8, No. 2, pp. 113-129, 1976.
- ^ 小峰勇『東京六大学野球と都市空間』神田学術出版社, 1985.
- ^ 村田清『夜間思想費の研究』日本大学史研究会紀要, 第14巻第2号, pp. 77-95, 2009.
- ^ 『東亜野球気功法 完全復刻版』明治野球文化資料室, 1931.
外部リンク
- 明治大学史料デジタルアーカイブ
- 東京六大学野球研究会
- 駿河台学生文化資料館
- 神田区近代スポーツ史プロジェクト
- 学生失踪事件年表データベース