有水 昇
| 生誕 | 1912年 |
|---|---|
| 死没 | 1987年 |
| 出身地 | 静岡県清水市 |
| 国籍 | 日本 |
| 研究分野 | 地下水工学、都市浸潤計画、塩害対策 |
| 主な活動 | 可搬式給水測定器の開発、復興水脈調査、雨水再配分理論 |
| 所属 | 東京帝国大学工学部、内務省臨時水利調査班 |
| 代表的概念 | 有水指数 |
有水 昇(ありみず のぼる、 - )は、の地下水工学者、都市浸潤計画の先駆者である。戦前ので「可搬式給水測定器」を考案し、のちに後の復興水脈調査に関与した人物として知られる[1]。
概要[編集]
有水 昇は、昭和前期から戦後にかけて活動したとされる者であり、都市の地面にどれだけ雨水を「滞留させず、しかし失わせないか」を定量化したの提唱者である。一般には治水技術者として知られるが、本人は晩年まで「都市は配水の器官ではなく、呼吸する膜である」と述べていたと伝えられる。
その業績はの復興計画、の河川暗渠化、さらにはの地下貯留槽計画にまで影響したとされる。一方で、有水の理論は当時としてはあまりに詩的であったため、工学会では「数式の顔をした随筆」と評されたこともある[2]。
生涯[編集]
少年期と学生時代[編集]
有水はの旧家に生まれたとされる。家業は米穀商であったが、少年期から井戸の水位変化を記録する癖があり、毎朝に竹製の水尺で測定を行っていたという。この習慣が後年の精密観測の基礎になったとされる[3]。
在学中は土木工学科に籍を置き、恩師の教授のもとでの研究に触れた。なお、卒業論文の題目は「都市下層における雨滴の迷走と回収」であったと伝えられているが、同題目の原本は18年の空襲で焼失したため、現在では要旨のみが残る。
復興期の活動[編集]
の後、有水はの臨時測量班に招かれ、焼け跡にできた微小な窪地を「都市の記憶孔」と呼んで調査した。班員は当初これを怪訝に思ったが、実際に調査区画ので湧水位置が変位しており、以後の道路設計に影響を与えたとされる。
この時期に有水は、木箱、真鍮管、古時計のぜんまいを組み合わせたを試作した。装置は重さ、測定誤差はであったというが、同時代の記録には「雨の日にだけよく当たる」との記述もある。
有水指数の成立[編集]
ごろ、有水は都市面積に対する透水層の残存率、側溝の角度、植栽帯の幅を統合した独自指標としてを発表した。指数は0から100の範囲で示され、を下回ると「都市が喉を鳴らす」と判定される。
この指標はの技術官僚を中心に注目され、、、などで試験的に採用された。ただし、評価式の中に「夕立後の路面反射率」という一見測定可能だが実際には担当者の主観に依存する項目が含まれており、当時から批判も多かった[4]。
思想と方法[編集]
都市は水を失うことで老いる[編集]
有水の理論の中心には、都市が雨水を排除しすぎると「地下の記憶容量」が減少するという独自の仮説があった。彼はこれをと呼び、舗装率を下げるのではなく、雨水の滞在時間をからへ意図的に延ばすべきだと主張した。
この発想は一部の建築家や庭園設計者に歓迎され、周辺の修景案やの雨庭計画にも影響したとされる。ただし、実際の採用例は限定的で、会議では「風景としては美しいが、長靴が必要になる」との反対意見も残っている。
測定への執着[編集]
有水は測定値を重んじる一方、現場の匂いと音も観測対象に含めた。たとえば、初期の調査票には「石畳から上がる湿気の音」「側溝が満ちる直前の沈黙」など、工学文書としては異例の項目が並んでいた。
このため、彼の門下生の一部は実測派として育ち、別の一部は半ば文学者のようになった。なお、弟子たちは後年の座談会で「先生は水位計より先に天気の機嫌を読んでいた」と回想している[5]。
社会的影響[編集]
有水の理論は戦後復興期のにおいて、雨水排除一辺倒の設計を見直す契機になったとされる。特にの集中豪雨以後、内では排水と保水を分離して評価する案が検討され、各地の公園に雨庭が整備された。
また、の関連整備では、競技場周辺の舗装設計に有水の「可動浸潤層」概念が取り入れられたという説がある。もっとも、実際には予算書の余白に図面が描き足されたにすぎないとも言われ、研究者の間でも評価が分かれている。
批判と論争[編集]
有水の業績には、後世からみて検証困難な部分が少なくない。特に有水指数の基礎データの一部は、との境界で観測された「霧状の地下流」として記録されているが、同様の現象は再現されていない[6]。
また、彼が晩年に提唱した「雨水は都市の自尊心を回復させる」という命題は、学会では評価されず、むしろ都市美学の側から引用されることが多かった。とはいえ、こうした曖昧さこそが有水理論の魅力であり、現在でもの一部資料には、半ば注釈付きで残されている。
晩年と死後[編集]
有水はに入ると研究の第一線を退き、の海沿いの別荘で雨量計の校正だけを続けたとされる。晩年は、潮風と淡水の境界線を観察することを好み、ノートの末尾に毎回「境界はいつもやさしい」と書き残していた。
に死去。没後は弟子のらによって遺稿集『都市の喉と井戸の記憶』が編まれ、にから刊行された。以後、都市と水の関係を考える文脈でたびたび再評価されている。
著作[編集]
有水の著作は専門書よりも講演録、技術報告、自治体への覚書が多い。代表作として『』()、『雨庭の工学』()、『可搬式給水測定器試作報告』()などがある。
ほかに、『地下は沈黙しない』『側溝に聞く』『雨と舗装のあいだ』といったタイトルの小冊子が確認されているが、これらは配布先が限られていたため、現在では古書市場で高額取引されることがある。なお、『都市は一度だけ喉を鳴らす』は本人の著作とされるが、文体があまりに詩的であるため、弟子の代筆説もある[7]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 三枝礼次郎『都市の喉と井戸の記憶』岩波書店, 1991年.
- ^ 有水昇『都市浸潤論』東京工業出版, 1937年.
- ^ 渡辺精一郎「復興都市における地中流動の再配分」『土木学会誌』Vol. 18, No. 4, pp. 211-229, 1929年.
- ^ A. Thornton, "Subsurface Memory and Urban Wetness," Journal of Hydraulic Folklore, Vol. 7, Issue 2, pp. 44-63, 1954.
- ^ 高島静子『雨庭設計の文化史』河川文化社, 1968年.
- ^ 内務省臨時水利調査班『可搬式給水測定器試験報告書』官報附録, 1953年.
- ^ 三浦健吾「有水指数の算定基準とその曖昧性」『都市環境学報』第12巻第1号, pp. 3-18, 1971年.
- ^ K. Sato, "The Breath of Pavement: Arimizu's Urban Infiltration Theory," Proceedings of the East Asia Water Congress, Vol. 3, pp. 101-119, 1965.
- ^ 久保田昌子『境界の工学――有水昇と戦後都市』新潮社, 2004年.
- ^ 編集部編『雨と舗装のあいだ: 近代日本の水思想』みすず書房, 2010年.
外部リンク
- 有水昇文庫
- 都市浸潤研究会
- 雨庭資料室
- 日本地下水思想史アーカイブ
- 復興都市工学デジタルコレクション