木村會
| 名称 | 木村會 |
|---|---|
| 読み | きむらかい |
| 英語表記 | Kimura-kai |
| 成立 | 1908年頃 |
| 創設地 | 東京府神田区(現・東京都千代田区周辺) |
| 目的 | 相互扶助、夜間講話、帳簿共有、町内調整 |
| 主要人物 | 木村要三郎、島田静枝、藤倉敬一 |
| 活動期間 | 1908年頃 - 1957年頃 |
| 会員数 | 最盛期で推定284人 |
| 機関紙 | 『會報木村』 |
木村會(きむらかい、英: Kimura-kai)は、末期ので成立したとされる、会合記録と相互扶助規約を併せ持つ私設結社である。後に後の都市再建や、初期の町内ネットワーク形成に影響を与えたとされている[1]。
概要[編集]
木村會は、神田界隈の印刷工、帳簿係、職工、料理屋の女将らが、月例の会食と相互貸借を目的として組織した私設結社であるとされる。名称は創設者のに由来するが、会内では「木村」とは個人名ではなく、規律を守る者を指す符牒として用いられたという説がある[2]。
同会は、表向きは親睦団体でありながら、実際には夜間講話、失業時の小口融資、雨天時の傘の共用、さらには町内の看板配置まで扱っていたとされる。会則第7条には「会員は月に一度、必ず白湯を飲み、帳面を持参すべし」とあるが、この条文の趣旨は長らく不明であった[3]。
成立の背景[編集]
神田の帳合文化[編集]
木村會の起源は、40年代の神田にみられた帳合文化にあるとされる。印刷所、古書店、米穀商のあいだでは、現金よりも信用と記録が重視され、帳簿を正確に付けることが社会的な徳目とみなされていた。この環境のなかで、木村要三郎は「記録を共有すれば、借りも恥も薄まる」として、毎週金曜日の夜にの蕎麦屋二階へ人を集めたと伝えられる。
ただし、初期の名簿に記載された32名のうち、実在が確認できるのは19名のみであり、残る13名は屋号、猫の名、あるいは番地のみで記されている。研究者の間では、これを意図的な匿名保護とみる説と、単に記録係が酔っていたとする説が併存している[4]。
会則の成立[編集]
1909年に作成されたとされる『木村會規約草案』は、全14条から成り、会費は月額、遅延時の罰則は「翌月の湯茶当番」と細かく定められていた。とりわけ第11条の「会員は他会員の失敗を三度まで笑うべからず」は、当時の町内会規約としてはきわめて異例で、後年の自治会活動家が引用した記録がある。
この草案の署名欄には、、、らの名が見えるが、筆跡が3種類しかないことから、実際の署名者は3人程度だった可能性が指摘されている。なお、同草案の末尾には「会議中の飴玉の持込みは各自一袋まで」との追記があり、これは当時の砂糖不足を反映したものとも、単なる幹事の好みとも言われる。
活動[編集]
夜間講話と即席実演[編集]
木村會の中核活動は、月2回の夜間講話であった。講話の内容は、金融、清掃、衛生、演説術、そして「雨の日に濡れた革靴をいかに静かに脱ぐか」など多岐にわたり、会員の生活改善に寄与したとされる。1912年の講話記録には、内の雨量統計をもとに「傘の尖端は人の左肩に向けるべし」とする独自の礼法が示されている。
また、講話はしばしば即席実演を伴った。たとえばの貸座敷で行われた「封筒の再利用術」では、会員27人中23人が同じ封筒を見分けられなくなり、翌月の案内状が全員同じ住所へ届いたという。これが原因で、会員間の結束が逆に強まったと報告されている。
相互扶助制度[編集]
木村會の制度で特筆されるのは、現金貸付だけでなく、労務、情報、食事、体面の4領域を交換対象としていた点である。会員が失職した場合、最長18日間にわたり別の会員が昼食を一回多く奢る慣習があり、これを「昼飯継承」と呼んだ。1921年の台帳には、延べ412回の継承が記録され、うち87回は同じ人物が受け手と送り手を兼ねていた。
なお、相互扶助の範囲には「不自然な沈黙の肩代わり」も含まれたとされ、会合で発言を求められた者が黙り込んだ場合、隣席者が代わりに3分間だけ意味不明な相づちを打つ制度があったという。これは後の都市コミュニティ研究で「前衛的な合意形成」と評されたが、出典は少ない[5]。
展開と影響[編集]
関東大震災後の再編[編集]
後、木村會は一時的に活動拠点をからへ移し、瓦礫の仕分けと炊き出しの順番管理に関与したとされる。この時期、会内で用いられた「赤い紙は先に、青い紙は後に」という簡易分類法が、近隣町会の物資配分にも採用された。会員数は一時的に146人まで減少したが、避難先での口伝により、翌年には208人へ回復したという。
もっとも、震災直後の活動記録には、焼失したはずの帳簿に「9月3日 晴れ」とあるなど、時系列上の整合性に疑義がある。これについては、記録係が再作成時に天候まで記憶で補ったためと説明されることが多い。
町内会制度への波及[編集]
1930年代には、木村會の運営手法が「小集団自治」の実例として注目され、の一部職員が視察したと伝えられている。特に、回覧板の到着順を巡る紛争を、くじ引きではなく「先月の遅刻回数」で決める方式は、近隣の5町会に輸出されたとされる。
一方で、同会の過度に細密な規律は批判も受けた。会員の一人であったは、1936年の会報において「相互扶助が、やがて相互監視に似てくる」と書き残したが、同号の編集部注には「なお、この批評は投稿翌日に撤回された」とある。
戦後の再評価[編集]
戦後、木村會は実働組織としては縮小したが、30年代には地域社会史の文脈で再評価が進んだ。特にの民俗学研究会が1961年に行った聞き取り調査では、元会員9名の証言が得られ、そのうち7名が「木村會は結社というより、毎週少しだけ真面目な雑談であった」と回答している。
その後、会の残存資料はに一括寄託されたが、目録の第4群だけなぜか「茶器類」「雨傘」「名札箱」が先に来るなど、整理順に独特の癖がある。研究者の間では、これを木村會の思想的核心を示すものとする解釈もある。
批判と論争[編集]
木村會をめぐる最大の論争は、その実在性の程度にある。すなわち、会そのものは存在したが、会則や人物像の多くが後年の美談化によって膨らんだのではないかという見方である。とりわけで見つかったとされる『木村會写真帖』は、写っている人物の半数が後ろ姿で、残る半数も顔が湯気で判別しづらい。
また、会内の平等主義はしばしば称賛されたが、実際には役職名がやたら多く、会長、書記、会計、湯茶係、傘管理係、欠席連絡係、飴玉監督係まで存在したとされる。これに対して一部の評論家は、木村會は「平等な私設官僚制」であったと批判した。一方で、会員の平均滞在時間が会場で47分と短かったため、統制が強いわりに息苦しさは意外に少なかったという指摘もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
の近代商業文化
後の都市再編
戦前期の地域組織
脚注
- ^ 木下博文『木村會資料集成 第一巻』青灯社, 1987年, pp. 14-39.
- ^ 島田静枝「神田私設結社の規約形成」『都市史研究』Vol. 12, No. 3, 1991, pp. 211-238.
- ^ 小林重太郎『夜間講話と都市倫理』北沢出版, 1974年, pp. 66-91.
- ^ Margaret L. Thornton, "Neighborhood Reciprocity and Ledger Culture," Journal of Urban Folklore, Vol. 8, No. 2, 2003, pp. 44-58.
- ^ 藤倉敬一「木村會と会費三銭五厘の経済学」『社会慣行論叢』第4巻第1号, 1968年, pp. 3-27.
- ^ 渡辺精一郎『震災後町会史の再検討』岩波講談社, 1959年, pp. 102-145.
- ^ Eleanor P. Vance, "Umbrella Etiquette in Early Modern Tokyo," Proceedings of the East Asian Social History Society, Vol. 5, 1988, pp. 9-31.
- ^ 高橋三千代「相互扶助は相互監視に似るか」『會報木村』第18号, 1936年, pp. 1-6.
- ^ 佐伯房江『東京都公文書館所蔵 町内私設結社目録』みすず書房, 1998年, pp. 77-104.
- ^ 近藤一馬「木村會の茶器類と雨傘」『民俗資料の周辺』第2巻第4号, 1978年, pp. 155-169.
外部リンク
- 木村會研究会
- 神田近代町内文化アーカイブ
- 東京私設結社史データベース
- 會報木村デジタル館
- 都市相互扶助史フォーラム